第49話 交わる太陽と海 (最終話)

 ジェーンは、ニューヘブンの案内人、福田竜一が用意した車に揺られていた。隣に座っている山伏は胸の中のものを語りつくしたのか、唇を結んで遠くを見ていた。


「話は終わりましたか?」


 振り返った福田は何も聞かなかったような顔をしていた。そのことが、かえってジェーンを不安にさせた。


 彼が隣に座った妻との話に真剣であったなら、悪路を走る車の走行音でジェーンと山伏の声は聞き分けられなかっただろう。が、彼が好奇心旺盛なソクラテスなら、妻の話しよりも後部座席の会話に注意を向けたに違いない。少なくとも、自分が福田の立場ならそうしただろう。もし彼が私たちの話を聞いていたとしたら、生かしておくのは危険だ。


「ええ、もう……」


 ジェーンは小さくうなずいた。


「この島は、今ではニューヘブンなんて呼ばれていますが、昔の名前を知っていますか?」


「いいえ」


 そんなことに感心はなかった。気になるのは、彼が自分たちの話を聞いたか否かだ。


「マリシアスヘブンですよ」


「悪意のある天国、意地悪な天国かしら?」


「今でこそ平和に暮らしていますが、昔はわずかに降る雨水を奪い合っていたのですね。それが太陽光発電、海流発電で電気が作れるようになると、海水から真水が作られるようになりました。もう、水争いをする必要がない」


 彼が観光ガイドのように説明した。


「一見平和に見える島で水を奪い合っていたのが、科学技術で本当の平和な島になったのですね」


「もともと意味するマリシアスは水争いのことではなく、譲り合うことのできない人間の悪意や不信そのものを言っていたそうですよ。だからここでは、だけが人間を幸せにできると伝えられています。それは今でも変わらない。ここは悪意のある者たちも堂々と闊歩かっぽできる天国なのです」


「それじゃ、日本やアメリカと変わらないわ」


「日本やアメリカは天国でしたか?」


「それは……、ないわね」


「そうなのですよ。……ここは悪意そのものの天国でもあるんです。どんな人間も受け入れられて、抱えている悪意、……ごうや原罪といったほうがいいのかもしれませんが、そうしたものに意味がなくなる。本当の寛容というものが生きている島です」


「なるほど。……素敵な天国ですね。私も、ずっとここに住もうかしら」


 彼を疑いながら、ジェーンは話しをあわせた。


「できることなら、そうしなさい。いや、きっとそうすることになるでしょう」


 福田の言葉には強い確信のようなものがあった。その確信にジェーンは反発を覚えた。……しかし、ニューヘブンが夫を哲学者にしたという千恵美の話を思い出すと、福田の確信も悪意のない哲学者の話に過ぎないのだろうと許せた。……問題は、彼が私の秘密を知ったかどうかだ!


「それで、1年間、私を世話してくれるというのは、あなたなのですか?」


 尋ねると、千恵美が怖い顔で夫をにらんだ。福田は妻に向かい、強盗に銃を突きつけられた通行人のように両手を挙げて首を振った。それからおもむろに言う。


「私みたいな男では、あなたは嫌でしょう?」


「……いいえ、そんな……」


 同じ空間に千恵美がいるので言い淀む。


「無理をしないでください。むさくるしいオヤジは嫌だと顔に書いてある」


 彼が声を上げて笑うと、横で千恵美も笑った。


「これから向かうコテージには、太平洋おおひらひろしという男がいます。彼があなたと寝食を共にします」


「寝食を?」


 不愉快なものが胃袋からせり上がってくる。それは、車の揺れによるものかもしれなかった。


「いや、もののたとえです。頭は良くないが、いい男です。あなたも気に入ってくれると思いますよ」


「太平洋という名もジェームズが付けたものだ」


 山伏が言った。


 彼のような男が他にもいるらしい。……嫌な予感がして、顔が歪むのを抑えられない。外の景色に顔を向けて隠した。


 粗末なコテージの前で車が停まる。ここが我が家だ、と微笑んで山伏が降りた。


「また会おう」


 山伏がジェーンに向かって手を振る。それに応えたのは福田とジョンで、ジェーンは気づかないふりをした。彼とは二度と会いたくなかった。


 車が走り出し、でこぼこ道を東に向かう。山伏の姿は南国の太陽の熱気に揺れる景色の中に消えた。


「舗装できたらいいのに……」


「太陽の熱で、すぐに溶けてしまうさ」


 前の席で夫婦が話すのを、ジェーンはぼんやり聞いていた。


 突然、福田が振り返った。


「ここに来て東日本大震災のことを思い出しました。私は学生だったが」


「私が生まれた年ですね」


 ジェーンは申し訳程度に話につきあう。


「大変な被害だった。多くの町が水も電気も失った。しかし、日本人はパニックに陥ることなく、助け合って生きた。日本人の良識を世界に示した一瞬だと誇りに思ったものです」


「私には想像もできないわ」


「ところがですよ。数年で危機を脱したと思ったら、すべて元に戻ってしまった。少ない利益を奪い合い、足を引っ張り合う。どっちが日本人の本性だと思いますか?」


「さあ、考えたこともないわ」


 素っ気なく応えながら、やはりソクラテスは面倒くさい、と思った。


「着きましたよ」


 ジョンが車を停めたのは、東の海岸にあるコテージの前だった。周囲には海と森以外に何もない。


 こんなところで1年間も過ごせるだろうか?……ジェーンは不安を感じた。


 4人は車を降りてコテージの入り口をくぐったが、そこには誰もいなかった。板や布といった天然素材で作られた部屋に家具は少ない。ただ直射日光はさえぎられ、少しだけ空気がひんやりしている。


「太平さん! いませんか?」


 福田が呼んでもコテージ内から返事はなかった。


「私は歓迎されていないようね」


 ジェーンは素直な気持ちを言った。


「そんなことはない。若い男は、みんな女が大好きなんだ」


 ジョンが笑った。ジェーンは不快に感じた。やはり、彼らを始末すべきだろう。たとえ南国の平和な島であろうと、人間の本質は変わらない。……ジェーンは決心した。車がハイブリッド車なのはラッキーだった。ガソリンに火をつければ車は丸焼けだ。


 肩に下げたバックの中のバイエル酸をこっそりみしだく。それを設置するには柔らかくしておくに限る。設置する場所は、車体底部のリチウムイオンバッテリーと燃料管が近接する場所がベストだろう。


「外かな? 彼は自然が大好きなようで森やジャングルの中でも寝ることができるらしい。まるで野性動物だよ」


 話すジョンの後について、3人は入ってきたドアから外に出た。南国の太陽は眩しく熱量にあふれている。


「肌が弱いから、私は車の中で待つわ」


 ジェーンは車に戻り、バイエル酸を素早く設置して車に乗った。ドアは開けたままにして潮風を浴びる。もう秘密を知られたかどうか悩むことはなかった。車が走り出し、バッテリーの温度が上がれば酸が溶けてガソリンが漏れだす。それは確実に発火して車を燃やしてしまうだろう。


 ソクラテスも千恵美も良い人そうだけれど……。ぼんやりと福田たちが太平を探してコテージ周辺を歩くのを見ていた。そうしながら、本当にここに残るのか、あるいは都会に戻って大衆の中に紛れ込むべきか、と検討した。


「いた、いた。泳いでいますよ」


 しばらくしてからジョンがやってきて銀色の海を指した。


 海の照り返しがきつく、ジェーンには人の姿が見えなかった。それでも目が慣れてくると波の中に黒い人影が浮かんで見えた。


「まさか!」


 ジェーンは車を飛び出した。勢い余って派手に転倒した。……それは計画の内だった。


「大丈夫ですか?」


 ジョンが近づいてくる。


「大丈夫よ。先に行っていて」


 そう応じて靴を脱ぐ。中の砂を払うポーズ……。それを見たジョンが砂浜に向かって走った。


 ほどなく、ジェーンは彼の後を追った。


「主水!」


 その名を口にしただけで胸が震えた。その時、瞳が濡れたのは太陽が眩しかったからではなかった。


「やぁ、ティナ。いや……」


 向かってくるのは手塚だった。2人は焼けた砂浜で抱きあった。


「主水!」


 2人は見つめあい、キスをした。そして再びきつく抱きあった。


「ここの空は、テキサスの空より星が多いよ。夜を楽しみにするといい」


 ジェーンの耳元で手塚がささやいた。


「私には、もう星が見えるわ」


 ジェーンの瞳はすっかり濡れている。景色が眩く揺れていた。


 2人は抱きあったまま砂浜に倒れこんだ。少し離れた所にジョンが腰を下ろした。ニヤニヤしながら恋人たちを見つめている。


 福田夫婦は離れたヤシの木陰から、恋人の再会を祝福した。


「胸が熱いわ」


 ジェーンは抑えきれない喜びをそう言った。


「砂が焼けているからな」


「髪が伸びているわ」


 手塚の頭を撫でた。日本にいた時は短髪だったのが、まるで湘南のサーファーのようだ。


「あの日、君に毛生え薬を飲まされたからさ。気づいたら、ここに向かう貨物船の中だった。俺は、誰かのために生かされたようだ」


 冗談を言った彼が上半身を起こして笑った。


「身代わりがいたのね。すっかり死んだものと思い込んでいたわ」


 ジェーンは自分を騙した母とジェームズに感謝した。愛される喜びを強く感じた。身代わりになって死んだ人物へ思いが至らないのは喜びの大きさ故だ。


「俺の代わりに、家族のために命を売った男がいたそうだ。そこまでして俺に生きる価値があったのか……」


 彼の顔を影が過る。


「他人がどうなろうと、主水だけには生きていてほしい」


 ジェーンは手塚にのしかかって砂浜に押し倒した。そうして彼の唇を吸った。


「俺を殺そうとしたのは美麗だよ……」


「それは謝るわ。あれから、ずっと後悔していたのよ。……生きていてくれて良かった」


「さあ、どうかな。ここはニューヘブン。俺たちはもう死んでいるのかもしれない」


 手塚はジェーンほど喜んではいないように見えた。


「幽霊でも亡霊でも、2人が一緒なら私はかまわないわ」


「天国に来たからには、もう殺しは無しだ」


 彼が耳元でささやいた。


「主水の言うとおりにするわ」


「ありがとう。ジェームズが俺の身代わりの命を買うのに、君が稼いだ1億円を使ったらしい。それでも怒らないか?」


「ジェームズは……」そこまで言って、ジェーンは自分の唇で、以前よりよく動く手塚の口をふさいだ。彼はジェームズが死んだことを知らないようだ。彼が恩を返そうとか、変な気持ちになって欲しくなかった。


 欲望に火がついたのだろう。手塚の熱い手がジェーンの乳房を握った。ジェーンは長い脚を彼に絡めた。もう彼を放さないと決意した。


 2人はひとつになろうとしていた。ジョンが立ち上がる。


「やれやれ、見ちゃいられない。帰りましょう」


 彼は福田夫婦に声をかけ、運転席に座った。


 エンジンをかけると、車はブルブルと震える。ギアを入れ、白い砂の道を街に向かった。右側にかわった海にはオレンジ色の太陽が沈みかけていて、バックミラーの中の抱き合う男女の影を赤く染めていた。


「美麗、愛しているよ」


 手塚の言葉は率直で、その手は欲望に忠実だった。ジェーンのブラウスのボタンをはずし、素肌を求めた。それが哲学者のものであるはずがなかった。


「あなたは哲学者にならなかったのね」


「哲学者?」


「福田夫人が言ったのよ。ここにいると男性は哲学者になるって」


 ジェーンは自分にむしゃぶりつく手塚の頭をなでながら、走り去る車を目の隅で追った。白い車は夕日に映えて、オレンジ色に輝いている。頭の隅を車が爆発炎上するイメージが過った。……当初はそうするつもりだった。けれど、手塚の姿を見て気持ちが変わった。ジェームズが殺さなかったように、殺さないという選択があることに気づいたからだ。車を爆破しなかったことが正解だった。もし、彼らを殺したら、手塚を裏切ったことになる。


 隠し持っていたバイエル酸を砂の中に押し込んだ。一度は車に仕掛けたそれを、転んだふりをして取りはずしたのだ。バイエル酸は、いずれ太陽に焼かれて溶け去るだろう。


「俺は、俺さ。哲学者になるほど自分を疑っちゃいない」


「そうね、良かったわ」


 彼と交わりながら、遠ざかる車を見送った。


§


「お似合いのカップルだったわ。飛行機の中ではひとり旅みたいな話だったけれど、2人は知り合いだったのね」


 揺れる車の後部座席、千恵美が遠ざかる砂浜を見つめていた。


「そのようだね。幸せになってくれるといいな。しかし、若者がどんどん日本を出てしまうのは残念だ」


 助手席の福田が応じた。


「国外に本社を移したあなたが何を言うのよ」


「それもそうだな。国内に残ったのは、仕事をしない偉いさんばかりだ」


「偉い高齢者がいつまでも威張っているから、有能な若者は日本を出てしまうのよ」


「そういうことだ。政治家たちも日本が落ちぶれていることにそろそろ気づくだろう」


「それで日本は変わるかしら?」


「どうかな。見当もつかない。しかし、日本国民が逃げ出すほど、我々の新しい仕事は繁盛する。なぁ、ジョン」


「その通りです」


 ジョンが笑った。


「新しいビジネスは、ジョンの企画なのだ。ニューヘブンには先進国の動きに左右されない仕事が必要だというのでね。彼と僕とで始めた、大東亜共和商事とは関係のない仕事だ」


 福田は改めて新しい仕事を妻に説明した。その頭に、浜辺で抱き合った恋人たちの姿はすでになかった。


「軌道に乗ったら会社を辞めてしまうの?」


「僕は投資をするだけだ。ジョンが社長。今のところ、社員は彼1人だけどね。とても儲かっているよ」


「儲かっているのなら、いいわ」


「君は根っからの日本人だな。金のことばかり言うと、ジョンに笑われるぞ」


「お金を好もうと嫌おうと、天国では自由でしょ。平和に暮らせるなら、多少のことは我慢すべきよ」


「ミズ福田。それは良い心がけです」


 ジョンが彼女を支持した。


 妥協は人間関係をよくする秘訣だ。それをジョンは心得ている。……福田は満足した。彼なら事業を成功に導き、ニューヘブンを本当の楽園にするかもしれないと思った。


「でしょ。急いでジョン、久しぶりに3人でディナーにしましょう」


 千恵美がせかした。


 心なしか彼女の声がはしゃいでいるようだ。一時帰省して良いことでもあったのだろう。あの2人を思い出して後ろを振り返る。砂浜は遠く、岬の影しか見えない。今頃、何をしているだろう?……想像すると身体の中心がうずいた。


 ニューヘブンの太陽は、水平線に交わって海を様々な赤で染めていた。

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楽園の太陽 明日乃たまご @tamago-asuno

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