第48話 南国のリゾート

 ティナ・葛城かつらぎと名前を変えたジェーンは、グアムからニューヘブンへ向かう飛行機の中にいた。


「雑誌はいかがですか? 新聞もありますが」


 キャビンアテンダントが数冊の雑誌を提示した。


「日本の新聞はありますか?」


 こんな場所にあるはずがない。……わかっていながらも訊いたのは、やむなく殺してしまった花村達のことが気になっていたからだ。自分のスマホでネットに入るのは居所を特定されそうで躊躇われた。新しい端末とアカウントを早く手に入れなければ、と思った。


 ところが、意外な答えが返ってきた。


「ございますとも」


 キャビンアテンダントは得意げに微笑むと、一旦、前部の調理室に戻り、目的の物を携えて戻った。


「ありがとう」


 受け取った新聞は前日のものだった。


「エッ……」


 紙面を一瞥して絶句した。


 真っ先に目に止まったのは、ジェームズと組織のメンバー2人が、警察官と銃撃戦を展開したという記事だった。


 ジェーンは花村と西郷を殺した後、遺体の始末をジェームズに任せて日本を離れたのだが、その二日後に事件は起きていた。


 警視庁は、死んだ3人が4件のライフル銃盗難事件の真犯人で、日明研に銃を売った組織だと断定、ジェームズの組織の背後関係や日明研との関係については調査中という発表だった。


 ジェームズが死んだ。いったいどういう状況だったのだろう?……ジェーンは彼が銃撃戦で命をなくすなど信じられなかった。彼の銃の腕前は良く知っている。30メートル先のプルタブの穴を、弾丸を通すほどなのだ。日本の警察官など、足元にも及ぶはずがない。日本の警察官はどんな卑怯な手を使ったのだろう?


 記事を何度も読み返したが、ジェームズと銃撃戦を繰り広げた警察官の氏名や人数などの記載はなかった。いてもたってもいられず、トイレに飛び込むとアンナに電話をかけた。


『新聞記事は事実よ……』


 彼女は、ジェームズの死を認めた。日本に残っていたメンバーが全員死んでしまったために、日本の警察がいったいどうやってジェームズを見つけたのか、どんな状況下で銃撃戦になったのか、事件の経緯を知りようがないと嘆いた。


『今、別のルートで探らせているわ。ジェーンは何も気にせず、ニューヘブンでほとぼりを覚ましなさい。平和な島にはろくな警察官もいないわ。とてもいい案内人を迎えをやるから……。ジェーンも惚れるようないい男よ』


 電話の向こうの声は、希望と明るい口調で不安を糊塗ことしていた。


「ママ、こんな時に冗談は止めて……」


 憤りが高じていきなり電話を切った。


 ジェーンは疑問を払拭できないまま自分の席に戻った。新聞を握りしめ、窓の外に広がる雲を眺めながらジェームズとの思い出を一つ一つ数えた。


 彼の声が脳裏によみがえる。――良い人間が幸福な人生を送ることができる、と真剣に考えている者はほとんどいない。悪人が幸福な人生を送れると考えている者は更に少ない。善も悪も、幸福も不幸も、あまりにも抽象的で主観的な価値基準だ。だからこそ人々は、人間らしい人生を歩むのかもしれない――ジェームズの言葉だった。彼がそれを言ったのは、ジェーンが組織に加入した最初の日だ。


 ――自分1人の幸せなど求めるな。俺たちは24時間、365日戦っている。最前線の兵隊なのだ。いつでも死ねる覚悟をしておけ。俺たちの仕事は、そういうものだ――彼はそうも言った。


 それでその時は覚悟を決めたつもりだったが、仕事に慣れて覚悟を忘れていたようだ。だから恋などしたのだろう。……手塚のはにかんだ笑みが脳裏を過った。その覚悟が、花村達との一戦で蘇っていた。


 恋などすべきでなかった。そうしたら、手塚が死ぬことも、まして、それに自分が関わることもなかったに違いない。……目頭が熱くなった。


 ――手塚が自衛隊のスナイパーだと知らない訳じゃないだろう? まぁ、うまく取り込んだと褒めてやってもいいが――頭の中で、手塚とジェームズの姿が重なった。


 13番目の思い出と雲を数えた時、隣の座席の中年女性に声を掛けられた。


「それ、日本であった銃撃戦の記事ですわね」


 日本人らしい中年女性がジェーンの手にした新聞を指している。


「ええ、そのようですね」


 ジェーンは警戒しながら応じた。


「その連中がライフルを盗んだので、大変だったのよ」


 中年女性は、旅の話し相手を見つけて嬉しそうだった。嬉々と話す。


 ジェーンにはそれが面白くなかった。大切な親戚や仲間を連中呼ばわりされたのだから。とはいえ、感情を表に出すことはなかった。どこに日本の公安組織の目があるかわからない。中年女性自身が、その可能性だってある。


「あのう、私はティナ・葛城。あなたは?」


「失礼しました。福田といいます。実家が日本の山形というところで銃砲店を営んでいて、そこでライフルを盗まれたの。その手口が鮮やかで証拠がないものだから、父が密売容疑で取り調べを受けていたのですよ。五カ月間も……、六カ月だったかしら……」


 彼女は口を尖らせて言った後で、やれやれとでもいうように首を振った。


 話口調や話の内容から見て、彼女は公安関係者ではなさそうだ。……そう感じるものの警戒は緩めない。相変わらずジェームズが批判されるのも面白くなかったが、それを顔に出さないようにした。


「それは災難でしたね。事件が解決したので、慰労の旅行ですか?」


「いいえ、帰るんですよ」


「帰る?」


「夫は商社マンで、ニューヘブン勤務なの。あそこは本当に天国よ。ほんの少しお金を持っていれば、毎日、日光浴をして暮らせるわ。欠点は、とっても退屈な場所ということかしら。葛城さんは、ご旅行?」


 彼女は一般人だ。……ジェーンは判断し、警戒を解いた。苦笑いが浮かぶ。


「ええ。バカンスです。退屈な場所とは知りませんでしたから……」


「現地で友達を作ればいいのよ。素敵なサンゴ礁を案内してもらえるわ。ニューヘブンの人は、みんないい人ばかりだから。でも、彼らは貧しいから、チップをはずんであげてね」


 飛行機がニューヘブンの空港に着陸するまで、ジェーンは千恵美の話を聞かなければならなかった。彼女は、かわいい孫や意地悪な嫁の話をとめどなく語り続けていた。


「プラトンは、悪妻が夫を哲学者にすると言ったけど、あれは嘘ね」


 突然、千恵美が言った。


「福田さん。それはソクラテスだと思いますよ」


「あらそうだったかしら? どちらでもいいけど、主人たら、ニューヘブンにたった4年住んだだけで哲学者になったのよ。宇宙がどうしたとか、神様がどうしたとか、平和がどうとか、何故、戦うのかとか、殴るのかとか……。お金なんていらない、なんてことも言いますの。日本にいた時には儲けることのためばかりに走り回っていたのに。……海を見ながらぶつぶつと思索にふけっていて、私の話なんて、うわの空で聞いてもいない。男を哲学者にするのは、妻じゃなくて海なのよ」


 家庭を顧みない夫の話に千恵美の力が入っていた。


 彼女の夫は哲学者になったのではなく心の病ではないかと思いながら、ジェーンは笑みを作って相槌を打ち続けていた。


 ニューヘブン国際空港の到着ゲートを出ると、千恵美が髪の薄い中年男性に向かって手を振った。ジェーンは、それがソクラテスらしいと思った。


「優しそうな方ですね」


「ありがとう。主人が聞いたら喜ぶわ」


 ジェーンは千恵美と別れ、アンナが手配したという世話人を探す。その顔を知らないから、探すといっても、見つけられやすい場所に移動するだけだ。その男性が生活の面倒を見てくれるという約束だった。


 世話人が見つかる前に、千恵美が夫を連れて戻ってきた。


「私のプラトンよ」


 千恵美が福田を紹介する。


「ようこそニューヘブンへ。機内では妻がお世話になりました」


「こちらこそ。ニューヘブンのプラトンは、何にお悩みですか?」


 千恵美を傷つけないように話を合わせた。


「妻が日本で暮らしたいと言うので困っていたところです」


 福田が言うと、千恵美が首を振った。


「それは諦めたわ。日本に戻ってみたら、何かと面倒くさい国だったから……。別の楽園が見つかるまで、ここで暮らすことに決めました」


 千恵美の恩着せがましい言い方にも、福田は嫌な顔をしなかった。ニューヘブンのソクラテスは忍耐強いようだ。ジェーンは彼に好感を覚えた。


「迎えが来ていないの?」


 千恵美が訊いた。すると、彼女の夫がすまなそうな顔をした。


「あー、すみません。葛城さん。実は、私が案内人なのです。車を待たせてあります。行きましょう」


 福田は驚くジェーンと妻に向かって柔和な表情を作り、2人分の荷物を取って歩き出した。


 ママの嘘つき。全然、いい男じゃないじゃない。第一、既婚者よ。……ジェーンがアンナを非難したのは、頭の中でのことだ。


「あなた……。あなたが案内人なって、どういうこと?」


 福田の後を追いながら千恵美が問い詰めた。


 ジェーンは少しだけ警戒しながら夫婦の後について歩いた。初めての地では何があるかわからない。緊急時に逃げ隠れする場所の見当もつけておかなければならなかった。何よりも気になるのは、案内人が日本人で、アンナが話した人物と異なっていることだ。


「君が日本に帰ってから始めた新しいビジネスなんだ」


 福田の声はジェーンにも聞き取れた。ニューヘブンは、空港であっても森の中のように静かだ。


「新しいビジネス?……まさか、会社を辞めたの?」


「辞めちゃいないよ。副業さ。ジョンのアイディアなのだ」


「そう、良かった……」


 千恵美の安堵の気持ちは、背後からでも見て取れた。


「……さすが商社ね。観光事業までやるのね」


「観光じゃないよ。人間の輸入さ。人材と言った方がいいかな」


 人間の輸入?……ジェーンは首を傾げた。


 駐車場には数台の車が止まっていて、福田が手を挙げると白いワゴン車が向かってくる。日本製の古いハイブリッド車だ。フロントガラスに反射する太陽光が眩しい。


「初めましてティナ・葛城。おかえりなさい、ミズ福田」


 運転席を降りたジョン・レノンが2人の女性に握手を求め、それから荷物を車に積み込んだ。


「ジョンさん、太ったんじゃない?」


 千恵美が目を細めた。


「いいえ。ミズ福田が日本に行って痩せたから、そう見えるのです」


 ジョンのジョークを千恵美が喜んだ。


「葛城さんは後ろのシートに座ってください。その人が、話があるそうです」


 ジョンが言った。車は3列シートの7人乗りで、3列目のシートに首の短いずんぐりむっくりした体形の日本人が座っていた。


 その男性はリラックスした様子でジェーンに握手を求めた。


「こんにちは、葛城さん」


 地を這うような低い声だった。


「私を知っているのですか?」


「ええ、萩本総理暗殺事件に、私も因縁がありましてね」


 車が走り出すと、彼の低い声は車が出す騒音に混じり、とても聞き取りにくかった。


「あなたは?」


「今の名は海野晴夫うみのはるお。ジェームズにもらった名前です……」そこで彼が顔を近づけ声を潜めた。「……ひと月前までは山伏剛太といいます」


 山伏が目の前にいることに、ジェーンはいささか驚いた。


「情報局にいた山伏ですか?」


 ささやくように訊いた。


「ええ。美人に覚えてもらっているとは光栄です」


 彼が目を細めて喜んだ。


「なぜ、こんなところに?」


「あなたと同じです」


「よくわかりません」


 ジェーンは動揺する気持ちを抑え、あえて首を傾げて見せた。


「どう話せばいいのかな……」


 彼は間を置き、大きく息を吸ってから話し始めた。


「……世の中には優秀な人間が沢山いたもので、ジェームズもその1人です。彼に萩本総理を殺され、作戦を阻止された時点で私の官僚としての人生は終わりました。出世はもちろん、有意義な仕事に携わることもできなくなるのが決定づけられた。……心がぽっきりと折れた感じ、とでも言ったらいいですかな。それで米軍のハドソン中将に恨み言を告げに行ったのですよ。そうしたら逆にやり込められましてね。増々落ち込みました。……その帰り道でジェームズに、エージェントにならないかと誘われたのです。……しかし、ほうがいな報酬をくれると言われても金には興味を覚えなかった。金など、あの世まで持っていけるものでもない。私は天涯孤独なので、譲る相手もいない。……世の中の全てが嫌いになったとはいえ、祖国を売る気にもなれない。なぜでしょうな?……そうしたら、ジェームズが天国を紹介すると言ったのですよ。取引の条件は彼の秘密を守るという簡単なことでした。彼が何もかも段取りをつけてくれて、やって来たのがここです。そのジェームズがあんなことになって、……残念です」


 ジェーンは、山伏の長い話など真剣に聞いてはいなかった。要は、ジェームズが山伏の失踪を助けたに過ぎない。天国などあるはずがないではないか、と心の内では反論もした。


 この世には天国もなければ神もいない。いたとしても、神は自分から手塚を奪ったのだ。そしてジェームズも。……そんな神を信じる気持ちにはなれなかった。


「ジェームズにすれば、対抗組織から優秀な人間が消えるだけでメリットなのです」


 ジェーンは応じ、ふと思い立って尋ねた。


「彼を……。ジェームズを撃った男を知っていますか?」


 その質問に、山伏が眉を八の字にした。


「確実なことは言えないが、警視庁の眠れる獅子という、とぼけたオヤジでしょう。……まさか、復讐しようと考えているのではないでしょうな?」


「ジェームズが死んだのも、誰かを殺したのもビジネスです。私はそのための復讐をするつもりなどありません」


 ジェーンは澄ました顔で嘘を言った。実際は、心中穏やかでない。ジェームズは上司でもあったが、大切な血族で伯父のような存在だった。本当の名はマイケル。その名は、彼の肉体より先に死んでしまっていたのだけれど……。


「人殺しがビジネスだという意見には賛同しかねるが、私も間接的だが国のためにたくさんの人を殺した。あなたがたを批判する資格がない。……あなたの言葉を信じましょう。ここはその名の通り、天国です。ここでは悪人も聖者もない。新しい生き方をする場所です」


「そうだといいですね」


 ジェーンは皮肉のつもりで言った。


「おや、信じられませんか?」


「私の周りにあるのは、欲望と憎悪ばかりでしたから」


 窓の外に続く白い砂浜に目をやると、所々に小さな小屋やビーチパラソルがあって、人々が日光浴を楽しんでいた。ジェーンは、手塚と出会ったフィリピンの海を思い出した。


 手塚の記憶は、良くも悪くもジェームズを思い出させる。ほとぼりが覚めたら眠れる獅子のハンティングに行こうと決めた。邪魔者はすべて排除する。それが組織の命令に従って手塚を葬った自分を正当化する唯一の道であり、手塚に対する贖罪しょくざいだと信じた。

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