二人暮らしのプロローグ

藤咲 沙久

君と二人


 色んなことが同時に起こるのはしんどいだろう。というのが、結婚より前に同棲することを決めた理由だった。彼はともかく、私は三十になった今も実家暮らし。初めての引っ越し、慣れない環境、不得手な家事。それも仕事を続けながら。とにかく一気に揉まれることになる。ここに結婚式の準備なんて足されては正直お手上げだ。それを彼が考慮してくれての結果であった。

 年明けには住み始めたいね、そろそろ家探さないとね。そうやって話していたのは秋の初め頃。そんな時だ、課長に呼び出されたのは。

「私が異動、ですか……?」

「いやね、急で本当に申し訳ない。ほら、その、ウチの工場さ、減産に次ぐ減産で作業員減らせってね、言われてるでしょう、うん」

 それは私も重々承知だ。社員の半数がグループ会社の各工場へと異動先を割り振られ、その対応と事務処理がようやく一息ついたところなのだから。

 はて、しかし、私は現場の人間ではない。まさか自分にまで声が掛かるとは思っていなかった。

「あれだよ、作業員は減ってるのに事務員が多いままって訳にもいかなくてね。あ、誤解しないで、他所に出したくて出すんじゃないんだ。でもほら、島崎しまざきくん引っ越しの予定があるって言うから。この機会に、ね。引き継ぎもあるから、そう、冬には」

 この、生活が一変する、機会に。引っ越しとほぼ同時期。これには私も驚いた。そう来たか、と声に出しかけたくらいだ。大きな変化を控えても、仕事だけが唯一変わらないはずだったのに。

 そっと課長を窺えば、以前より広くなった額にいつも以上の汗が滲んでいる。今回の異動関連で実施した社員面談は数知れず。板挟みの立場で、この人が胃を痛めていたのをずっと見てきた。今もきっと相当心苦しいのだろう。私とて、解雇されるよりはよほどいい。返事はひとつしかなかった。

「……わかり、ました」

 異動先は他の人たちと変わらずグループ内の工場、その事務所だと告げられた。勤務地も仕事内容も変わる、もう半分くらいは転職のようなものだ。もちろん人間関係も構築し直し。今の職場は皆親しくしてくれていたのもあって、仕方がないとはいえ複雑な気持ちだった。

(あれから一ヶ月か。……どんどん現実味を帯びてくるなぁ)

 ため息が木枯らしに溶ける十一月。引き継ぎは着実に進み、しかし新居はまだ決まっていない。

「あかね、大丈夫? 寒いかな、それともさっきの家よくなかった?」

「え? あ……大丈夫。最近マニュアル作ってばっかりだから、ちょっと疲れちゃってて。あそこはすごく気に入ったよ。このまま決めたいくらい」

 二人で行く何度目かの内覧を終え、休憩で立ち寄ったオープンテラス。心配そうに覗き込んできた陽斗はるとへ慌てて笑顔を向けた。仕事で疲れていたのは本当だ。残される後輩が安心出来るよう、責任を持って教えきらねばいけない。これが今の工場でする最後の大仕事なのだ。

 テーブルへ並べた候補物件の隙間にホットココアをそっと置く。風で飛ばされないよう気を付けながら、今日見てきた場所の資料を陽人が指差した。

「僕もここが一番好きだな。駅からは少し遠いけど、広いしセキュリティもばっちり。何より出窓がいいよね」

「そこ低い位置じゃないんだからのぼらないでよ? 危ないし、もたれるとカーテンごと引っ張られてレールが歪んだりもするんだから」

「……出窓がいいよね」

「私の目を盗んでやる気だったわね?」

 いやあハハハ、と誤魔化す陽斗を視線で責めてから、私も先程のマンションを思い出してみる。私たちの予算でソファも置けるリビングが見つかるのは、大変珍しい。確かに生活しやすい部屋だった。

 テレビもいい場所に設置出来るし、収納も悪くない。大きな独立洗面台は理想的だ。まな板が余裕で使えるキッチンなんて、他では出会えないだろう。まあ、料理はあまり得意じゃないけれど。

 こうして実際に見に行く機会が増え、家具や動線、リアルな日常について考えるようになった。消耗品のストックとか、家計簿や積立てのこととか。同棲という単語に浮かれていた頃よりも、私の中で感じる責任が徐々に重くなっていく。さらに重なった異動。気を引き締めなければやっていけない。

「……ね、陽斗」

「ん?」

 二人での生活を想像して、本音としては心配がたくさんある。なにせ、ずっと母に世話を焼いてもらっていた私には出来ないことばかりだ。しかし出来ずともやらねばならない。これからはそういう暮らしが始まるのだ。

 少しでも陽斗に負担をかけたくなくて、その決意を伝えようと、やや緊張気味に口を開いた。

「仕事、すごく変わるからさ。覚えることばっかだけど、頑張る。ただ……始業時間は今より早いって言ったじゃない?」

「そうだね。朝早いのは辛いな」

 頷いて、一度ココアで口の中を潤す。気温の低さに負けたのか、ちょっと生温くなっていた。

「新しい職場の近くだと家賃高いから、どうしても遠くに住むことになるし。早朝に出ることになるけど、出来る限り、朝ご飯は用意していくね」

「無理して二人分作らなくてもいいよ、僕は後から適当に食べるって」

「自分のだけってわけにはいかないわ。それと今度から帰りも私が早くなるんだし夕飯の支度だってしなきゃ。お風呂とかも併せて、陽斗が帰ってくるまでにはちゃんと準備する」

「でも、あかね」

「それから衛生面はなんとか死守したいの。陽斗と私、休みが合わなくなるんだから、一人の日は家中掃除して……」

「あかね」

 マグカップを包む私の手に、陽斗のそれが重ねられる。思わず顔を上げた。陽斗と目があった。

「あかね。新生活はさ、二人で始めるんだよ」

 そんなのわかってると答えれば、わかってないと返された。私がたくさん頑張ることは正しいはずなのに。すると陽斗はぎゅっと手に力を込めてきた。彼が右手にはめた揃いの指輪が、私の甲に強く触れた。

「無理しないでと言ってもしちゃうのが君だ。それは僕もよく知ってる。でもね、忘れないで。僕たちは一緒に暮らす。だから二人でやればいいんだよ」

「でも……陽斗に苦労かけたくないし」

「それは僕も一緒。あかねばっかり大変なのは嫌だ」

 温かい、ココアよりも甘い声。陽斗が優しいのは知ってた。女だからどうとか、稼ぎが少ないからどうとか。そういうことを言わない人なのもわかってた。だけど、それでも。不安から気を張る私を宥めてくれる言葉には、胸がぎゅっとなる。

 視界が揺らいだ。私はいつの間にか、涙目になっていた。

「仕事のことは応援しか出来ないけど。家事をどうするかとか、支払いの分担とかも、たくさん二人で考えよう。これから一緒に、考えよう。だってまだ始まってないんだ、時間はあるだろ?」

「……うん」

 ありがとう。呟くような小さなお礼だったが、陽斗はにっこりと笑ってくれた。この笑顔が好きだ。彼と共に生きていきたいと、隣で笑っていてほしいと思ったことを……忘れずにいよう。改めてそう感じた。

「って、あ、ごめん。外なのにいちゃついちゃったや」

 ここが喫茶店のテラスであることを今思い出した、というように陽斗が手を離した。彼が茶化すのは照れ隠しの証拠だ。私もちょっとだけ気恥ずかしくなって、笑った。

 もうすぐ冬が来る。その頃には職場も変わって、きっと住む場所も決まっていることだろう。初めての引っ越し、慣れない環境、不得手な家事。ついでに言えば新しい仕事。やっぱり不安が消えるわけではない。うまくいかずに泣くこともきっとある。

 ただ、この人となら。心配だらけの新しい生活も、一緒に乗り越えていけるかもしれないと思えた。

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二人暮らしのプロローグ 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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