ママのミートソース

 SPICAの最初のリリースから、十年が経った。

 人間に匹敵する、いや、品質の安定性を考えれば人間以上の料理を作れる人工知能システムは、当初の予想を超えて広く売れた。現在では、複数都市に展開する規模のチェーン店なら大半がSPICAを導入している。個人経営の飲食店ではまだ人間の料理人が健在だけれど、それはコスト面でSPICAを導入できないか、人工知能にデータのない独創的なメニューで勝負しようとしているかのいずれかだ。とはいえ近年のSPICAは、食味データをかけ合わせて未知のメニューを開発することも始めている。独創性でSPICAが人間を上回るのは時間の問題だろう、と考える人は私も含めて多い。

 そして、SPICAシステムは飲食店以外にも広がりを見せている。最もめざましい効果がみられたのは、老人介護施設での導入事例だ。入所者個別の嗜好に合わせた料理を提供するにあたって、SPICAの学習機能が非常にうまく機能した。毎食の脳波反応をひとりひとり測定し、個別の調理内容を対象者の「おいしい」理想に近づけていった結果、食事に対する入所者の満足度は飛躍的に向上したという。

 その頃から、開発元である我が社には、不思議な感謝の声が多数寄せられるようになった。

「お母さんが作ってくれたご飯の味がする」

「亡くなった嫁の飯と同じ味だ」

 世の中にいくら美味があふれていようと、理想はやはり大切な人の味なのかもしれない、と、私たちSPICA開発チームはそれらの声を貴重なデータとして受け取った。




 三十年が経った。

 定年退職後、既に九年が過ぎていた。結婚することもなく、両親もとうに亡く、兄弟は元々おらず、独りで過ごしてきた私の人生は、他人が思うほどには孤独ではなかった。仕事をしていた頃は社内外の勉強会等で横のつながりがあったし、退職してからもオンラインの各種ネットワークを駆使すれば、友人付き合いが尽きることはなかった。数十年前のSNS黎明期でさえ、ネット上のつながりは人の孤独を大いに癒してきたのだ。はるか令和の昔ではあるまいし、いまどき、独身すなわち孤独という等式はまったく当てはまらない。

 とはいえ生計を共にする人間がいないと、身体の衰えに伴う生活の不便はどうにもならない。急病や怪我の不安もある。私は七十歳を前にして、老人介護施設に入所することを決めた。


 介護施設にはおなじみのSPICAがいた。イソギンチャクのようなアームを自由自在にくねらせて、入所者の食事をかいがいしく作っていた。SPICAの機体は長い年月の間に何度もバージョンアップされているけれど、この基本的なフォルムだけはそのまま維持された。世間に一度浸透した姿形を大きく変えるのはよろしくない、という思惑らしい。

 私は脳波測定バンドを頭に巻いて、施設での最初の昼食に向かった。出てきたのは生クリームを基調にしたスイーツパスタとグリーンサラダ、そして果物の盛り合わせだった。スイーツパスタは名前の通りの甘いパスタだ。SPICA登場以前には、少なくとも広く知られた料理ではなかったけれど、人工知能が様々な食味を掛け合わせるうちにレシピが「発見」され、今では人気ジャンルのひとつだ。……考えてみれば、SPICA以前にもカルボナーラなど生クリームを使ったパスタは存在したわけで、試す人間がいなかったのが不思議なくらいだ。

 蜂蜜入り生クリームの濃厚な甘味を、固めのパスタに絡めていただいていると、ふと物足りなさを感じた。

 この麺には、もっと違うものを絡めたい。たとえばフレッシュなトマトの酸味とか、濃厚な挽肉とトマトケチャップの風味とか。

 小さく溜息をつきつつ食べ終わると、すぐさまSPICAのアームが食器を持ち去っていった。


 その日、夕食に出されたのはミートソーススパゲティだった。まるで私の心を読んだかのようだ、が、SPICAの機能を考えれば不思議ではない。脳波測定バンドを通して得られた反応から、求めていた食味を正確に割り出したのだろう。

 だが一口食べて、私の心臓は大きく跳ねた。

 あまりにも懐かしい、ミートソースの味だった。

 フレッシュなトマトの酸味が、肉やケチャップの旨味をいい感じに引き立てていて、隠し味のガーリックや塩胡椒もちょうどよく効いていて、スパゲティもギリギリで「芯」にならないアルデンテ……間違いなく私が、四十年くらい前の一時期に好きだった味だ。

「なんで、この味……」

 フォークを手に呆然としていると、二十代後半くらいに見えるヘルパーさんが、目を細めて笑いかけてくれた。

「驚かれました? SPICAは、昔好きだった味をそのまま再現してくれることがあるんですよ。普通五、六回くらいはかかるんですけど、織部さんはとっても早かったですね。相性が良かったんでしょうか」

 もちろん知っている。私はSPICAのおおもとの開発者なのだから。

 この味がすぐに出てきた理由も想像はつく。学習が進んだ後も、SPICAは初期データとしてこの味を奥底に隠し持っていたのだろう。

 二口、三口。スパゲティをフォークに巻いて、口に運ぶ。

 華が咲くように、懐かしい味が広がる。同時に目の前で、ゆるいウェーブの茶髪を揺らしながら、幻の実里が冷たく嗤った。

(綾子はこの子を、大事に育ててあげて。末永くお幸せにね)

 ふらりと上体が傾ぎ、右手からフォークがこぼれた。床で鋭く鳴ったフォークを、すかさずヘルパーさんが拾ってくれる。

「どうされました。ご気分、悪いですか?」

「……ええ、ちょっと……ね」

 あれからずっと独り身だったことを、悔いてはいない。

 けれどそれを、想像の中とはいえ彼女に嘲笑われると……少し、こたえる。

 彼女がどこでどうしているかは知らない。結局子供は持てたのか、それもわからない。ただ一つ確かなのは、私のDNAを受け継ぐ存在はこの世にいない、ということだけ。

「お食事、作り直しましょうか?」

 ヘルパーさんが訊いてくる。

「……可能なら、お願いしたいわ」

「ご希望はあります?」

 少し考えて、ふと、私の脳裏に一つの案が浮かんだ。

「ねえ、この近くに、人間が料理してくれるレストランはある?」

「はい、何軒かは……どうされました?」

 私は、食べかけの皿にちらりと目を遣った。少しだけ崩れた、艶やかなミートソースとスパゲティの小山に申し訳なさを覚えつつも、私は言った。

「できればそこで、ミートソーススパゲティを……人間が作った、SPICA製じゃないのが食べたい」

 そうするよりほかに、追いかけてくる影を振り払うことはできないように、私は感じていた。


 幸いにも、施設から徒歩五分ほどのところに個人経営の洋食屋があった。夜八時過ぎ、「人間手作りの懐かしい味」と木の看板がかかった小さな店には、私とヘルパーさん以外に五人ほど客がいた。空いた席に座り、「ミートソーススパゲティ」を頼むと、早速店長が奥のキッチンで麺を茹で始めた。

 けれど調理が進むうち、私は不安を感じ始めた。あたたかな水蒸気に乗って漂ってくるトマトの香り。コンソメやガーリックがかすかに混じった、まだまだ「未熟な」トマトソースの匂い。とても覚えがありすぎる。

 やがてトマトの瑞々しい香りは、記憶と同じように、濃厚なケチャップや挽肉の匂いに塗り潰されて……やがて、一皿のミートソースとなって目の前に現れた。

 恐る恐る、口へ運ぶ。

 思った通りだ。

 肉やケチャップの旨味、それを引き立てるトマトの酸味、隠し味のガーリックや塩胡椒の効き具合、芯にならないギリギリの「アルデンテ」の固さ。なにもかもがSPICAの――実里の味と同じだった。

 頭が重い。振り払うように首を振ると、店長が不機嫌そうににらんできた。だが文句を言いたいのは私の方だ。

「これ、SPICAの味ですね。看板に偽りありですよ。『人間手作りの懐かしい味』じゃ、全然ない」

 にらみ返しながら言えば、店長はふんと鼻を鳴らした。

「失礼ですが、御歳は」

「……六十九です」

「じゃあ世代的にわからないかもしれませんねえ。うちで出してるのは、二十年くらい前の学校給食の味ですよ。いまの三十代から四十代くらいで、このスパゲティを知らない人間はいません」

 驚いて、私は店長をまじまじと見た。三十歳前半くらいに見える白衣の大男は、他の客たちを見回しながら堂々とした声音で続けた。

「すいません、皆さん」

「なんだい、店長」

「うちのスパゲティ、『懐かしい味』であってますかね?」

 客たちが一斉に頷いた。

「間違いないよ」

「店長くらいあの味を再現できるシェフ、他にいねえだろ」

 ああ、皆、騙されている。

 二十年前なら、学校給食センターにもSPICAは普及していたはず。間違いなく、彼らが食べたのはSPICAの味だ。給食用なら特化学習もされていないだろうから、実里の味がそのまま出てきたのだろう。全国的に……いや、もしかすると、SPICAが輸出された他の国でも。

「どうされました、織部さん?」

 ふらつく上体を、ヘルパーさんが支えてくれる。……彼女はどうなのだろう。二十代後半なら、店長や客の世代よりは少し若いけれど。

「ねえ。これ、ちょっと味見してみてくれる?」

 促すとヘルパーさんは、首を傾げながらも一口分を口へ運んだ。

「うーん、小学生ぐらいの頃に食べた覚えがあるような……懐かしい味って言われたら、そうかもしれません」

 彼女までもか!

 若い人たちはもう皆、人間とSPICAの区別もつかなくなっているのか――そこまで考えたところで、私の脳裏を一つの可能性が過ぎった。

 この店主は、SPICAに味を教わった。

 この店に来る客たちも、傍のヘルパーさんまでも、SPICAの味に馴らされている。

 雛鳥がはじめて見たものを親と思うように、人もまた、はじめて触れた味を慕い続けるのだとしたら。

(この世代の誰もにとって……実里の味は「懐かしい味」なんだ)

 不意に笑いが込み上げてくる。

 このミートソースは、実里の「ママの味」だった。「ママの味」を盗まれたと怒り、実里は去った。

 その味が私の手で、数えきれない人たちの――ある世代の何百万人の「懐かしい味」になった。

 で、あるならば。

(私は確かに……この世に子供を残している)

 SPICAが育てた何百万の子供たち。それは私の孫でもある。だって、SPICAは私の子供だから。子供の子供は、孫。

(ふふ。……実里)

 どこにいるのかもわからない彼女に向けて、語りかける。

(私、幸せだよ。……沢山の孫に囲まれて)

 日本国中に、ひょっとしたら海の向こうにも、私の孫はいる。私が教えた味で育った、かわいいかわいい孫たちが。

 なあんだ、私はちゃんと残してるんじゃないか。次の世代に引き継ぐものを。

 SPICAは既に、ヒトにとって不可欠な存在になった。そしてSPICAが使われ続ける限り、この味は滅びない。全ての基盤になった初期データとして、学習モデルの奥底に残り続ける。

 いつしかそれは懐古の対象になった。もしかすると伝統にさえなるのかもしれない。

 そう。私が生んだものは、全人類の「ママの味」なのだ。

(楽しいなあ。百年後の誰かが、誰のレシピかも知らずに、このミートソースの味を懐かしむとしたら)

 私の「子孫」たちが、実里のミートソースを伝えていくとすれば……彼女はどんな顔をするだろう。

 ああ、どうして気が付かなかったんだろう! こんな楽しい事実に!

 私は大きく頷き、手元のフォークにスパゲティをゆっくりと、たっぷりと、巻きつけた。


〈了〉

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ママのミートソース 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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