合格のミートソース

 翌日、私は心の整理がつかないまま、朝食抜きで職場へ向かった。

 職場は東京の湾岸エリアだ。高層ビルの八階から十五階を借りていて、そこで主にAI関連機器の開発業務を行っている……とはいえ機械自体は提携先の大手家電メーカーが製造していて、私たちの担当は主に制御システムの設計と、人工知能モデルの構築・学習部分だ。

「織部 綾子」の顔認証と指紋認証をパスしてビルへ入り、十階のSPICAテストルームへ向かうと、メンバーは既に全員が集まっていた。皆、今日の検証が大事なものだと分かっている。SPICAモデルの初期学習結果を確認し、製品版リリース準備の開始可否を判断する――ここでNGが出れば、開発工程はさらに一週間遅れる。SPICAの初期学習フェーズは既に二回延びていて、これ以上遅れると社内の予算取りにも悪影響が出そうだ。

 今日が正念場……そう、頭では分かっているのだけど。

 今の私は、仕事など半分どうでもよくなっていた。実里の皮肉な声音が、ずっと突き刺さっていた。

(綾子はこの子を、大事に育ててあげて。末永くお幸せにね)

 帰る頃、もう実里はいないだろう。新しい、「子供を作れる」パートナーを探すために。

 私との日々は、それほどに無意味だったんだろうか。

 私の「子供」は、ただの不気味な機械人形でしかないのだろうか。

 ぼんやり考えつつ、テストルームのSPICA四台に今週分の学習データを読み込ませていく。ここはもともと飲食店だったフロアを買い上げて改装したもので、広く機能的なキッチンと、バリエーション豊富な食材セットを確保できる大型冷蔵庫が備え付けられている。複数台のSPICAも十分に動き回れる実験場だ。

 ここで行う検証では、指定された料理をすべて「人間が食用可能な品質で」作成できるかを確認する。前回は、肉じゃがの煮崩れとプレーンオムレツの加熱状態でNGが出た。

 SPICAのデータ読み込みが終わったのを見届け、全員がテーブルに着席する。あとは出てくる結果を待つだけだ。

 今回こそはうまくやる――肉じゃが学習担当だった後輩が、そう言いたげに口を引き結んでいる。

 調理が始まった。キッチンに並んだ四台のSPICAは、イソギンチャクが蠢くように金属アームを滑らかに操っていく。冷蔵庫から次々と食材を取り出し、下処理を施し、コンロやオーブンに投入する。肉や卵の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。その中に確かに、昨日と同じトマトの香りが……ある。

 朝食抜きの胃袋が鳴る音が、あちこちから聞こえる。私のお腹も鳴っている。焼魚や煮物の匂いに食欲がそそられる……けれどミートソースの香りを感じると、心のどこかが冷えていく。

 やがて、とりどりの料理が運ばれてきた。見た目は完璧なプレーンオムレツ、今回は崩れていない肉じゃが、焼目が綺麗な鮭のムニエル、そして……赤褐色に輝くミートソースを乗せたスパゲティ。

 食味テストはメンバー全員による検証だ。小皿に分けられた十種類の料理が、目の前に並んだ。いただきますと手を合わせ、口をつける。

 ステーキ。焼き具合も赤ワインソースの風味も完璧だ。

 シーザーサラダ。確認項目はほぼドレッシングのみ、余裕でクリア。

 肉じゃが。崩れるか崩れないかの絶妙なラインで、醤油の豊かな甘辛さをたっぷり含んでいる。文句なし。

 すべての品が、人間の作る水準を軽々と満たし……最後に、ミートソーススパゲティが目の前に残った。

「ミートソース、よくなってるじゃないか!」

 後輩が叫ぶ。

「確かに。前回も合格ラインではあったけど、風味のバランスが大幅に改善しているわね……織部さんお疲れさま」

 技術リーダーから急に呼ばれて、返事に困る。

「あ、すみません。……ありがとうございます」

「気のない返事ねえ。織部さんも自分の成果、確かめてみなさいよ」

 促されると、手を付けないわけにはいかない。小皿に乗ったわずかなスパゲティを、フォークに巻いて口に運ぶ。

 フレッシュなトマトの酸味が、肉やケチャップの旨味を引き立てている。

 隠し味のガーリックや塩胡椒も効果的だ。

 スパゲティも歯ごたえあるアルデンテだ。

 なにもかも、昨日食べた通り……実里のスパゲティそのものだった。

「反応が悪いな織部くん。何か問題があったか?」

 課長の声に曇りが混じる。あわてて、私は明るい声を取り繕った。

「ああ、いえ、問題ないです。OKです」

「そうか」

 課長は、手元のノートパソコンになにごとかを打ち込んだ。

「では食味テストは全件OKだな。……皆おめでとう。SPICAプロジェクトは、これより最終フェーズに移行する。製品化に向けたプロトタイプの作成、実際の飲食店での受入テストおよび特化学習を経て、私たちの成果物は市場にリリースされる。お疲れさま」

 誰からともなく拍手があがる。安堵の息と共に、ぱちぱちという音はまたたく間に全員に広がった。私も調子を合わせながら、課長へ向けて声をあげた。

「すみません、ひとつ質問いいでしょうか」

「なんだね、織部くん」

「特化学習を行うと……今の学習データはどの程度残るでしょうか」

 特化学習と呼んでいるのは、SPICAの導入先に合わせた追加の学習のことだ。予定先の飲食チェーンはそれぞれ食味に個性があるから、SPICAの「味覚」をそれに近づけるよう学習させなければならない。導入先の味付けを「教師」として、それを正解とするように人工知能を導いてやるのだ。個別の利用客に合わせて学習していくのは、その先の話。

 SPICAが個々の顧客のものになったとき、今の学習データは……実里の味は、どれだけ残る可能性があるだろうか。

「残念だが、今の個性がわかる形では残らないだろうな。導入先が提供するメニューに関しては、特化学習のデータが入っていく……基本的な調理工程の知識以外は、上書きされて消えていくはずだ」

 少し気が楽になった。今ある実里の味は、消えるのだ。

 全員が皿の残りを食べ終えたことを見届け、課長が、続いて残りの皆が席を立った。すぐさまSPICAたちが食器を回収し、シンクへと持っていく。相変わらずイソギンチャクのように蠢くアームを眺めながら、私は得体の知れない脱力感に襲われていた。

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