第2話 舟

「支配人、お電話です。なんか東京の不動産会社らしいんですが…」

 仕事中、唐突に電話が入った。

「はい。支配人の深見です」

「ああ、私アルト不動産の片倉というものです。御社の経営に関して提案がございまして…」

「いやいや、何か新しいことに手を出す余裕が我が社には全くないもので。申し訳ありませんがお断り申しあげ…」

「……存じております。社長のことを知っている者です」

 社長。その言葉に喉が詰まった。生きているのか?死んでいるのか?何もわからない、彼女に関して、今になって名前も聞いたこともない不動産会社からなぜ連絡が来ると言うのか。

「…どういったご用件ですか」

「率直に申し上げます。御社を買いたいと考えています」

「………はい?」


 片倉と名乗った男は社長との関係について多くは語らなかった。ただ、自分の会社がこの不況の中にありながら成長過程にあり、他事業にも手を伸ばしたいのだと言う。何を馬鹿なことを、と思った。ホテルの経営は、既にどう息を繋ぐか、どう今月のやりくりを乗り越えるか、ただそれだけのために全てを費やすほど致命的な状態にあった。その状態を買ったとして、どう利益を見込んでいるのだろう?私には見当もつかなかった。

「我が社の経営がどれほど傾いているか、ご存じでは?」

「無論です。その上で買いたいと。リスクが大きいのは承知です。経営の支援はもちろんさせて頂きます。こちらとしましては条件は二つです」

 私自身、否定的な言葉と思いを抱えながらも、蜘蛛の糸だと楽観する心を捨てきれずにいた。

「一つはホテルの名前を変更すること」

「そしてもう一つは、貴方がリニューアルしたホテルの社長になること、です」

 二つ目の条件に、行方をくらませた女社長が頭をよぎった。何か繋がりがあるのだろう、片倉というこの男となのか、それともこの不動産会社とのものなのか、それはわからない。

「…私に泥舟の舵を取れ、と?」

「今のままではそうでしょう。ですが、私どもが、泥舟にはさせません」

「………私の一存で決めるわけにはいかない。経理の北川と一度話をしてくれませんか。彼の方が私よりも金銭の関係する実務面では頼りになりますので。その上で結論を出します」

「もちろんです。私どもには私どもの利益をしっかり見込んでいますし、慈善事業ではありませんから」……


「北川、どう思う」

 片倉との電話を終えた北川と、私は会議室で向かい合っていた。北川は顎に手を当てたまま、考え込んでいる。

「表面上を見れば、救世主ですね。正直支配人もわかっている通り、今月、来月がどうなるかもわからない状況ですから。どの程度の融資が得られるかの話もしましたが、全く持って悪い話ではないです」

「…会社のことは調べたのか?」

「ええ。まともな会社です。確かにここ数年で急成長していますし、まだ発展途上という感はありますが、上手く経営しているんでしょう。この不況の中で成長しているというのは、生半可なことではありませんし」

 肯定的な言葉とは裏腹に、私も北川も煮え切らない感情を抱えている。

「問題はその状態がいつまで続くかです。成長していくのか、失速するのか、はたまた失速どころか失墜するのか」

「そうだな。そのあたりは私より北川の方が先見の妙も知識もある。意見が欲しい」

 北川はまた考え込んだ。ホテルの経理関係を長く引き受けてきた彼の知識、経験は頼りになる。私はそのあたりが不得意だった。営業上がりの私と、最初から経理の彼とでは視点も知識も、何もかもが違う。

「……難しいですが、あえて単純に考えます」

「おう、言ってくれ」

 北川はまた一拍間を置いた。張り詰めた空気が会議室をピアノ線のように這い回る。

「私どもには取れる今の選択肢は二つです」

「一つは今、会社を畳んで多額の負債を背負う可能性やそこから考えられる最悪の状況を避けること」

「二つ目は、片倉さんのいる会社の手を借りて、このままの内情でともかく息を繋ぐこと」

「その二つしかありません」

 一息に選択肢を提示すると、北川は沈黙した。もう私の中で考えは、決まっていた。

「俺は、部下の今の生活を護りたい」

「……ええ」

「やろう」

「いいんですね?私個人の私情を挟んで良いのなら、支配人に重いリスクを負わせることになるのは、嬉しくありませんが」

「構わん。俺はあいつらを護る責任がある。……それに死ねばな、金なんて意味がなくなるんだよ、そうだろ?北川」

「はぁ…社長の言葉を借りるのはあまりよろしくありませんよ。まぁ尽力します、今まで通り」

「ありがとう、頼りにしている」

……

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護る 鹽夜亮 @yuu1201

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