護る

鹽夜亮

第1話 崩壊

 借金を苦にした会長の自殺をきっかけに、私の勤めるホテルは経営危機の只中にいた。

「秀晴。彼は死んだ。私を残してね」

 派手な服装を見に纏ったどこか時代遅れの、バブルを思わせる女社長は淡々と語る。

「…社長。会長が自殺することを知っていたんですか」

 それは問いかけではなかった。確信だった。長くこの社長と亡き会長の下で働いてきた人間の一人として、彼らの在り方は知っていた。どのように幕を引こうとするのかも。

「秀晴。人が死ねばね。お金なんて意味がなくなるの」

 社長はそう言うと、椅子に寄りかかり、目を瞑った。…


 社長が行方をくらませた。その息子たちとも連絡が取れないと、部下から電話が入った。大方、予想通りだった。これで全て終わる、そう私は思った。否、思っていた。

 彼らは上手く幕を引いた。会社に負債を残すことはしなかった。元はと言えば裏の世界で生き抜いてきた人たちだ、様々な手を使ったのだろう。善悪などどうでもいい。彼らは、彼らなりに護りたいものを護った。私にとってはそれで十分だった。

 とはいえども、ホテルには働く者たちがいる。彼らには彼らの生活があり、人生がある。社長と会長の消えた今、その全ては支配人である私に委ねられていると言っても間違いではなかった。

 数ヶ月、私はホテルの経営を立て直そうと四苦八苦した。好転の兆しはみられなかった。そんな中、東京にある本社は支店であるこのホテルを見捨てた。

「私たち本社も経営難でね…。申し訳ないが、何も支援はできない。そちらで対処してくれたまえ」

 慌ただしいバブルを終え、地獄のような不況へ突き進む社会の中で、今まで築き上げた全てが崩壊していくのを、私は感じていた。

「支配人。給料、今のままではとても払えませんよ。引き下げるなりリストラして総数を減らすなりしないと……」

 担当者が頭を抱えている。彼の言うことは最もだった。社員の給料を払えないほど、ホテルの経営は悪化の一途を辿っていた。

「俺の給料の今月分を全部社員に回せ。あいつらにも家族がいる。俺たちはそれを護る責任がある」

「…社長。社長にもいらっしゃるでしょう」

 私には妻と、小学三年になる息子がいた。

「大丈夫だ。そんなことお前が心配するな。うちは貯金の切り崩しでなんとかなる。今まで部下たちよりも多い給料で働いてたんだ、そのくらいのことはできるさ」

「わかりました。今月分だけ、回します。そうすれば今まで通り何とかなるかも知れません」

「頼んだ」

 彼は溜息を残して部屋から出ていった。煙草に火を点け、椅子にもたれて天井を仰ぐ。なんとかなる、いや、なんとかしなければならない。それが私の、俺の責務なのだ。


「ただいま」


 夜中の二時。アパートの中は静かだった。妻も子も、夜更かしをするタイプではない。虚しく私の声だけが静かに、反響する。

 なるべく物音を立てないように、スーツを脱いだ。ふとテーブルに目をやると、ラップに包まれた食事の上にメモが貼ってある。

「遅くまでお疲れ様。レンジで温めて食べてね。ゆうと先に寝てるよ。無理しないで、お酒は飲み過ぎちゃダメだよ」

 妻の文字だった。それを見た途端、私はテーブルの前から、動けなくなった。

 私は、何を護ろうとしているのだろう?

 何を護っているのだろう?

 草臥れたワイシャツを濡らす涙は、妻の作ったオムライスを食べ終わるまで、止まることがなかった。…

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