第20話
ぐ、と喉の奥からくぐもった声が漏れる。
あやのは読書が好きだ。いろいろな本を読んできたのだから、いくらでも話すことができる。だから司書が知らないはずの、自分のいた世界の物語の話をすればいいだけだ、そう思っていたのに。あろうことか、あやのの知っている物語はどれも、どういった形でかバックランドにも伝わっていたのだ。
「どうしたんだアヤノ、俺だって知ってる話ばっかりじゃないか。もっと、君のいた東の果てにだけ伝わっているような話はないのか?」
囁いてくるヘリオスフィアに、内心の焦りが募る。この分では、あやのが知っているファンタジー小説はどれもバックランドにも存在している。
「じゃ、じゃあ……火星の砂漠にひとり取り残されてしまった人のお話は……」
「カセイ? それはどこのことかな?」
「火星はえっと、空に輝いてる星のひとつで……いえ、なんでもないです、忘れてください」
SFならあるいは。そうは思ったが、あやのの知っている数少ないSF小説は、彼らに伝わるように言い換えて話せる気がしない。空の星にはそれぞれ大地があって、辿り着くには多大な労力が必要である。そんな大前提が共有されていない世界の人々に、この物語をどう伝えればいいのか。第一ここは魔法が実存している異世界だ。そんな事実は存在しない可能性すらある。
あやのは頭を抱えた。己の生涯を賭してこの図書館の蔵書を読みつくそうとする司書と比べれば、自分なんて平凡な文学少女なのだろう。このまま好きな小説を並べていったところで、絶対に彼を納得させられる気はしない。小説を並べたところで……。
小説でなければ?
「……魔法の力を操り、光の剣を携えて世界の平和を守る騎士たちと、同じ力を支配のために使う帝国の戦いの物語」
司書の目の色が変わった。
「ほう……詳しく話してみなさい」
「ま、待った、少し待ってくれ」
慌てて羽根ペンと羊皮紙を準備するヘリオスフィアを待つことなく、あやのは語り出す。恐るべき力で世界を支配していた帝国との戦いに、ある日身を投じることになった青年の物語。彼自身が知らずに背負っていた大いなる宿命の物語を。帝国に与する暗黒騎士の正体を知ったとき、司書は目を見開き、吟遊詩人はうめき声を上げた。
「そして彼は、いよいよ最後の戦いに挑むことになります……」
どんなに本がたくさんあっても、この世界に映画はない。その読みは当たりだったようだ。それは、麻由香との付き合いで観た映画の物語だった。普段あまり映画を観ないあやのも、全世界の平和をかけた主人公たちの戦いに、拳を握りしめながら画面に見入っていた。
話しながらあやのは、二人に気付かれないようそっと目線を下ろす。
だからどうしても、親友の顔を思い出さずにはいられない。麻由香は演技や演出の素晴らしさを説き、映像で魅せることの難しさを熱弁していた。あの普段は物静かで、淡々とした口調で話す麻由香が。瞳に星を瞬かせながら、饒舌に語っていたのだ。映画も面白かったが、あやのにとってはそんな麻由香の姿が眩しくて仕方がなかった。好きなものを夢として追いかけられる麻由香の姿が、羨ましくすらあった。
そんな麻由香を、あやのは信じていた。親友だったから。麻由香は決して自分を馬鹿にしたりしない。麻由香と違ってなにも出来ない、叶いっこない空想を描くことしかできない自分でも、麻由香は嘲笑ったりしないと。なのに。
「なるほど、ずいぶんと面白い話を聞かせてもらった」
「俺もだ。アヤノの故郷に伝わる話なのか? それとも……どうしたんだ?」
ヘリオスフィアは怪訝な表情で麻由香の顔を覗き込む。口を堅く結び、今にも泣き出しそうな顔で俯いていれば心配もされよう。
「……なんでもありません」
「なんでもないはずあるか。アヤノはいま、ここの蔵書を誰よりも把握している司書さえ知らない、まったく新しい物語を伝えたんだぞ。これで紫水晶の書を持つに相応しい知識を持つと証明したんだ。そうだよな?」
「うむ、見事な英雄譚であったよ。思わず目的を忘れて聞き入ってしまったわ」
「ほらな。だっていうのに、まるでなにもかも失敗したような顔じゃないか」
そんなにひどい顔をしているのだろうか。あやのは頬を手で触ってみるが、それで表情がわかるはずもない。ただ隠せていない落ち込んだ気持ちだけは、誤魔化しようがなかった。
「アヤノ、やっぱり今日はずっと様子がおかしいぞ。いったいどうしたっていうんだ」
気付かず籠っていた肩の力が抜けていく。
「……私はこの物語を、お友達から教えてもらったんです。大事なお友達、でした」
「でした?」
「喧嘩、したんです」
「そりゃどうしてまた」
「酷いことを言われたからです。まるで私が、くだらないお遊びに夢中になってるみたいに。麻由香ちゃんにはわからないんです、私がどんな気持ちでいるのかなんて」
ここは、ずっと待ち望んでいた、私が誰かになれる場所なのに。あんな、まるで、私が現実逃避しているばかりみたいな言い方。あやのは口籠る。現実逃避という言葉は、酷く鋭く胸を突き刺すようだった。
司書は顎髭を撫でながらひとりごちるように呟く。
「お前さんの気持ちなんぞ、わしにもわからん。ましてや同い年の娘になんぞ、どうして知れようものか」
「でも、だからってあんなひどい言い方……」
「ならその娘は、なんの理由もなくお前さんの憧れを貶すような人間だったかね?」
首を横に振る。そんなはずがない。麻由香はずっとあやのの一番の親友で、あやのの憧れを揶揄するような素振りは、毛ほども見せなかった。この世界で抱いた悩みを打ち明けたら、相談にすら乗ってくれたのに。すべて麻由香の演技だったのだろうか。物語の主人公になりたいなんて荒唐無稽な夢にも、役者や作家の道はどうだなんて、一緒に考えてくれもしたのに。
「ならばその娘にも、なにか抱いていた気持ちがあったのだろう。お前さんにそれがわかるかね?」
「……私には、麻由香ちゃんがどうしてあんなことを言ったのか、なにを考えているのか全然わかりません。絶対、あんなこと言う子じゃなかったのに」
「そんなものだ。他人がなにを考えているのかなんぞ、幾百年知識を蓄え続けたところで、はっきりと知る方法などわからんままさ。他人と付き合うにあたっての至上の命題と言えよう」
相手がなに考えてるかなんて、普通はわかんないんだし。そう言ったのは、麻由香自身だった。
悟ったような司書の言葉に、ふん、と鼻を鳴らす音が響く。ヘリオスフィアが腕を組み、尊大そうに足を組んで閲覧机に腰かけている。
「吟遊詩人の俺から言わせてもらえば、そんなものは至上の命題でもなんでもない」
「なら、どうすればいいんですか?」
「伝えることさ」
ヘリオスフィアはリュートを抱え、弦をひとつつま弾いた。
「自分の気持ちを伝える、相手を知りたいという思いを伝える。そのために言葉が、詩があるんだ。もちろんすぐに確かな答えが返ってくるとは限らない。だが、伝えなければなにも伝わらない。言葉にしない言葉なんて、存在しないも同然だ」
「なるほど! それは真理だな」
司書が笑う。あやのは笑えなかった。
「私、麻由香ちゃんに怒って怒鳴っただけでした」
「だったら、きちんと伝えるべきだな」
「でも、もし、ずっと思っていたことを言ってなかっただけだったら」
酷く怖い想像が過る。もしもそんなことを言われたら。
「それはその時考えればいいんじゃないか」
「適当過ぎます」
「今日君が言った言葉だ。いずれにしろ、自分の口で伝えられる時間はほんのわずかしかない。羊皮紙や石に刻まれた言葉と違って、俺たち自身が持つ時間はあまりに短いんだからな」
頷くことも、首を横に振ることも出来ず、ただ「考えてみます」とだけ返してあやのは俯いた。
沈んだ空気を打ち払うように、手を叩いて司書が立ち上がる。
「さあ、ともかくお前さんの知識は見せてもらった。お前さんは竜に武勇を認められたばかりではなく、多くの物語を識るものだと証明してみせた。わしにも約束を果たさせてもらえんかな。若き竜騎士よ」
そうだ、ここへ来たのは悩みを相談するためではない。あやのも立ち上がる。
「はい、紫水晶の書まで案内してください、エルケンバルトさん」
「なんだって?」
ヘリオスフィアは腰を浮かし、司書は面白そうに片眉を上げる。
「いつから気付いていたのかね」
まったく動じることもなく認めた司書に……エルケンバルトに、ヘリオスフィアはおろおろと二人の竜騎士の間で視線を行き来させる。あやのは、気疲れを払うように肩を回して小さく息を吐いた。
「確証はありませんでしたけど、最初からそうじゃないかと思ってました。魂を図書館に結び付けるなんて、絶対簡単にできる魔法じゃありませんよね?」
ならば、そんなことをやってのける司書の正体なんて、ひとつしかない。
「ほっほ! やはり、なかなかどうして鋭い娘っ子だ。だが紫水晶の書の在処までは、想像が及ばんかったと見える」
「どういうことですか?」
「わしは知識を得るのも好きだが、人の驚く顔を見るのも好きでな。この秘密を誰かに教える日が来ることを、心待ちにしていたのだよ」
困惑するあやのの前でエルケンバルトが両腕を広げると、途端にあやのはよろけた。ヘリオスフィアも。そればかりか、閲覧机が、椅子が、書棚ががたがたと震え床に倒れ込んだかと思えば、そのままぐにゃぐにゃと実体を失くしてしまう。まるで、折りたたまれてしまったかのように。さらには図書館の建物自体が、今にも倒れてきそうだ。
「ど、どうなってるんだこれは」
「急いでここを出ましょう、ヘリオスフィアさん!」
両腕を広げたまま鷹揚に笑うエルケンバルトに背を向け、あやのとヘリオスフィアは走り出す。次々に倒れ行く書架の間を抜け、ロビーに駆け込み、突然揺れ始めた地面に慄くグラーネたちを連れ、赤く澱んだ空の下に大慌てで飛び出した。転がるように大学院の石畳に出て、気付く。地面は揺れてなんかいない。背後で荘厳な図書館が、実体を失って折りたたまれていく。ページを閉じられる仕掛け絵本のように。
「まさか」
あやのは振り返った。いまやそこに図書館は影も形もなく、ただ剥き出しになった敷地に、一冊の本が落ちているだけだ。手に取るまでもなくわかる、濃密な魔力を纏った分厚い魔導書が。
「紫水晶の書……図書館すべてが魔導書そのものだったんですか」
「信じられない。そんなことがあるか? あらゆる知識を収蔵した魔導書なんて、よく言ったもんだ!」
恐る恐る拾い上げると、紫水晶の書は見た目通りずっしりと手に重たい。その名にふさわしいアメジスト色の革で装丁され、グロスラッハのそれとも違う、清涼な澄んだ湖の底にいるような、冷たく透き通るような祝福を湛えている。膨大な知識に形を与えるとしたら、これ以外にはあり得ないと思わせる深遠さをも兼ね合わせていた。
「あの爺さんも人が悪い。何百年もずっと、紫水晶の書を探す学生を見てはほくそ笑んでいたに違いない。自分たちがその中にいるとも気付かずに、ってな」
無限の知識を収めた究極の魔導書。これがあれば、虚ろの正体を知ることができる。いよいよバックランドを救う使命の旅を、大きく前進させることができる。
だというのに、なぜだろうか。どうしてこんなにも、悪い予感が拭えないのだろう。なにか致命的な間違いを犯してしまったような、そんな予感が。
「さあアヤノ、さっさとここを離れよう。いつ魔物がやってくるかわからないし、女王陛下も首を長くして待っておられるぞ。もともと長いがな」
吟遊詩人の軽口にも応えず、あやのはアメジスト色の表紙を睨み続けた。不吉な予感の元凶はなんだろう。この魔導書について話していたときに聞いた言葉。
「アヤノ、来たぞ。アヤノ!」
切羽詰まった声にはっと顔を上げる。影が集まりつつある。呪いに歪んだ魔物たちの影。馬たちが恐れに蹄を踏み鳴らし、鼻を鳴らす。
紫水晶の書を鞄に仕舞う。これ以上ここに長居する理由はない。
「行きましょうヘリオスフィアさん! グラーネ!」
勇敢な鹿毛馬は、主人の一声にすぐさま落ち着きを取り戻し、従順にあやのを背に乗せる。ヘリオスフィアもブケファロスの背に跨り、手綱を握る。
「こっちです!」
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