第5話

「きゃあああああ!」


 背を預けた石壁までもが一瞬にして高熱を放ち、あやのは慌てて立ち上がる。残っていた柱が倒れたのか、廃墟の崩落する音が背後から聞こえてきたが、振り返る余裕などあるはずもない。


 聖堂前の全力で広場を突っ切ると、建ち並ぶ家々の群れへと駆けこんでいく。無人街となって朽ちた通りに、息も絶え絶えに走るあやのと、それを追いかけるグロスラッハの重い足音ばかりが響き渡る。


『どうした、アヤノ。我を殺すのではなかったか。逃げ回ってばかりでは、我が竜騎士にはなれぬぞ』


 半壊した民家の影に身を隠して息を整えながら、口を押えて零れかけた悲鳴を飲み込む。挑発されたところで、どう応えればいいというのか。竜騎士になるため、なにか試練を課せられることは予想していた。力を示したと見做せる難題を攻略して来いと、そう言われるものとばかり考えていた。


 まさか、その場でグロスラッハ自身と戦わされることになるなんて。


「ドラゴンとの対決なんて、普通もっと後に起こるイベントじゃないですか!」


 頭上で影が動く。隠れていた民家の壁に、鉤爪の生えた腕が覗き、あやのは足を空回りさせながら狭い路地の奥に駆け込んだ。空き家に入った途端、背後を熱風が駆け抜けていく。体中から汗が噴き出し、制服が張り付く。地響きに肝を冷やし建物を飛び出すと、突き出された前脚が壁を壊し、すぐ横の石畳をさも柔らかい粘土のように抉り取った。轟いた咆哮に耳を塞ぎ、眩暈を覚えながら通りを渡る。次から次へと轟音が響き、廃墟の街並みが瓦礫の山に変じていく。身体が小さいことだけが、あやのの命を救っていた。


 無人の街を駆け回りながら、必死で頭を回転させる。


 いくら逃げても、グロスラッハには勝てない。さりとて正面から挑むことなど出来るはずもない。幸い空は飛べないようだが、なんの慰めにもならなかった。あの巨体は、崩れかけの街などただ歩いているだけでなぎ倒していける。


 こんなときに物語の主人公たちならばどうするのだろうか。協力してくれる仲間もいない。ここ一番で解放される秘めたる力など、あるはずがない。腕っぷしに覚えのある主人公でないのなら、決め手になるは機転だろうか。だが瓦礫を越え、壁に身を隠し、荒れた石畳を踏みつけ走り回って酸欠気味の頭をいくら捻っても、強靭極まりない竜の鱗を貫く手立ては思い浮かばない。


 なにか糸口があるはずだと思いたいが、武器のひとつも持っていないのに、どうやって強力無比なドラゴンが打倒しろというのか。武器も、ないのに?


 脳裏で火花が弾けた。武器はある、糸口はずっと目の前に示されていた。どこか高いところに登る必要がある。見回した視界に、高い塔が飛び込んでくる。最上部は壁がなく、尖った屋根の下に吊るされている大きな鐘が見える。鐘楼だ。おあつらえ向きの立地に、あやのは喉を鳴らした。


「あそこなら……」


 左右を見やる。グロスラッハにはまだ見つかっていない。物陰から様子を窺い、竜の頭が反対を向いたとき、あやのは駆けた。視界に入らぬよう、建物の陰を回り込んでいく。通りを抜け、広場の外縁を走り、赤竜の目を逃れる。


 鐘楼の中に転がり込むと、ところどころ崩れかけている螺旋状の階段が設けられている。まだあやのの体重を支えられないほどには脆弱ではない。走れば走るだけあやのの肺は、引き裂けんばかりの痛みを訴えてくる。それでも足は、勝手に石段を駆け上がっていく。階段が終わる。薄暗い塔の中から、天井の光へと飛び出した。


 手を膝につき、浅い呼吸で湿った風を吸いながら見渡すと、頭上には青銅の釣り鐘が、四隅で屋根を支える柱の向こうには、街の景観が見て取れた。駆け回っていた時にはわからなかったが、思いの外大きな街だ。廃墟になる前は、多くの人々で賑わっていたはず。


 かつての繁栄も鳴りを潜め、小鳥の羽ばたきのひとつとして聞こえて来ない街の中を、大きな赤い影が闊歩している。堂々とした立ち居振る舞いが表すのは、自らを脅かすものなどありはしないと確信する、覇者の風格そのものだ。そんな相手との一騎打ちに挑んでいながら、息を切らして逃げ回っている自分の役者不足ぶりに、あやのは思わず苦笑いを浮かべた。


 虚ろの侵食を阻むためとはいえ、自分のような貧弱な人間を騎士に選ぶなんて、グロスラッハもよほど切羽詰まっている。自らの意志に反して、世界の終末に加担させられることなど、誇り高い竜には耐え難い屈辱なのだろう。だからこそ、あやのはそれに応えたかった。この見ず知らずの世界に来て最初に出会い、自分を認めてくれた相手の死を、せめて高潔なものにするために。


 決意を込め、釣り鐘から垂れた荒縄に手をかける。縄のささくれが手のひらに刺さるが、あやのは構わず縄を引いた。釣り鐘の内側に吊るされた分銅が揺れ、青銅の鐘を叩く。重く、甲高い鐘の音が、とうに死んだ街に繰り返し響き渡る。それは夜明けを告げる音だった。ひとりの少女の物語が幕を開け、宿痾に苛まれる世界に、待ち望まれた英雄が降り立ったことを告げる、祝福の音色。重く昏い雲の隙間から、梯子が降りてきた。


 塔の最上階にいてなお、両足は大地の揺れを感じ取っていた。姿を見ていなくてもわかる。あれほどけたたましく響いた鐘の音を聞き逃すはずもなく、真っ直ぐにこの鐘楼めがけ前進しているのだ。竜の迫りくる方向とは反対の端に立ち、あやのはその時を待つ。


 ひと際大きく塔が揺れた。外壁の砕ける音と、梁の軋む音。翼の傷ついたグロスラッハが、外壁にしがみつき塔ををよじ登ってきている。緊張に暴れる鼓動を手で押さえ、握り続けていた手のひらに出来た爪のあとに気付いた頃、対面の柱を赤い前脚が掴んだ。角が、翼が持ち上がり、鐘楼の縁の向こうにグロスラッハの胸から上が姿を現す。


『逃げ場を間違えたか、あるいは命乞いか?』


 あやのは大きく息を吐く。一世一代の大博打に向けて。


「いいえ、逃げたつもりなんてありません」


『面白い!』


 告げると同時、グロスラッハが言い切るよりも早く、あやのは駆け出していた。


 鐘楼の上は、グロスラッハの巨体が入り込むには狭すぎる。赤竜は大きく息を吸い込んだ。業火の吐息は、塔の上のすべてを焼き払うだろう。赤竜の胸が膨らんだ。鱗にわずかな隙間ができる。


 あやのは走った。吸い寄せられるように足が動く。最後の一歩を踏み切る。グロスラッハの、その胸に刺さった剣に向けて、全体重をぶつけた。柄を掴んだ両手に、最後の一押しが肉を掻き分ける感触が伝わる。なにかが引き裂ける感触が伝わる。竜の胸から炎が噴き出した。


 自分が叫んでいることにも気付かないまま、あやのの身体は宙に踊っていた。握りしめた剣の柄を放さないまま、傾いだ竜の身体と共に落下していく。墜落の衝撃であやのの手は離れ、あちこちをぶつけながら地面に転がった。擦りむいた剥き出しの手足がずきずきと痛む。それでも、無事だ。


 頭を振りながら身体を起こす。見ればともに鐘楼から墜ちた竜の身体は、目の前に横たわっていた。横倒しになり、四肢も首も翼も、力なく地面に投げ出されている。


 肩がひとつ上下するそのたび、グロスラッハの肉体から力が失われていく。とめどなく流れ出す血流が、瞬く間に炎となって消えていく。世界を見続けてきた竜の、ひとつの永い物語の終わりだ。


 花のように枯れ行こうとしている赤竜の姿は、あやのの胸をきつく締め付けた。


「グロスラッハさん!」


 顔に駆け寄り名を叫ぶと、ゆっくりとまぶたが持ち上がる。


『成し遂げたな。矮小な人の子の身で、我が心臓を貫いてみせたな』


「はい……でも、本当にこれでよかったんですか? こんな、まるで全てお膳立てされたような戦いで」


『かもしれぬ。だが、道筋を見つけ出したのはお前自身だ。お前は一度として逃げようとせず、茨の茂みの中に一筋の光明を見い出してみせた。我らは賭けに勝ったのだ』


 赤竜の口振りは、静かに寄せる波のように穏やかだ。グロスラッハは虚ろの呪縛から解放され、望まぬ暴虐を振るうことを憂わずに眠りにつこうとしている。震える手で竜の鼻先に触れると、奥底から饒舌に吹き上がる炎の熱が、手のひらを通じて血潮を煮立たせ、あやのの体内を駆け巡る。身体の芯でなにかが書き換わっていく。己の中に別の血が流れ込んでくる。炎によって身体が造り替えられている。


『お前を我が騎士として認めよう、アヤノ。我が血はお前の血となり、我が肉はお前の肉となる。これはなにものにも妨げられぬ、最も古い約束だ』


 あやのは逡巡した。手のひらを僅かに浮かし、いっそう強く鱗に押し付ける。


「約束します。私はあなたの力を受け入れ、あなたの騎士として、きっと相応しく振舞ってみせます。それに、先輩にもお願いされましたから。この世界を救ってくれって」


 呵々と笑う声が響き、グロスラッハの身体が深く地に沈み込む。


『脆弱な人の子の言葉になど期待はせぬ。だが、その気があるのならば北へ向かえ。王都に出向き、女王に見えるのだ。かの方がお前の進むべき道を示してくれるだろう』


「北……ですね。はい、わかりました。だから、あの、グロスラッハさん」


 グロスラッハの鱗が炎に包まれた。鼻先から鱗が、筋が、肉が燃え、灰となり、あとには骨だけを残して消えていく。炎が広がるにつれ、あやのの中にこれまでに感じたことのない活力が湧き上がってきた。巨体を燃え上がらせている炎は、いまやグロスラッハではなく、あやの自身のものであった。


『呆けている暇はないぞ、竜の騎士よ。すぐにも虚ろは、我の死を嗅ぎつけて集まってくるだろう。吼えよ。竜騎士の誕生を奴らに教えるのだ』


 巨大な竜の骨が、乾いた音を立ててひびだらけの石畳に転がった。


 まるで初めからそうであったように、竜の骨は街の瓦礫の中に無言で横たわっている。


 街と同じだ。もはや意志も力も、なにも宿らぬ抜け殻となった竜を前に、あやのはしばし立ち尽くした。去り際の赤竜が与えた祝福が、内から身を焼き焦がすほどの熱を持って身体の芯に宿っているのを感じている。


 グロスラッハの魂は、自分の中に在る。そう頭ではわかっていても、あの恐ろしくも幻想的な威容が、もうこの世界には存在しないのかと思うと、名残惜しさがその場に足を留めさせる。


 どれほどその場に佇んでいただろうか。背筋を怖気が駆け上がったのは、竜の骨に手を添えた時だった。赤竜の猛攻を前にした本能的な危機感とは違う。魂と意志を侮辱される、根源的な嫌悪感。


「ッ!」


 街路の十メートルばかり先、道を塞ぐように二匹の獣たちが並んで睨みを利かせている。黒騎士に従えられて追いかけてきた、あの二匹だ。機を窺っていたかのように、獣たちは涎を垂らしながら、あやのに狙いを定めている。


 今すぐに逃げ出さなければ、間違いなく殺される。食べられるでもなく、ただ壊すためだけに壊されるのだ。恐怖が身体を後退らせる。


 その背をなにかが押し止めた。赤竜の骨が、あやのの背中を支えていた。


 逃げ出せない。逃げ出せるはずがない。それこそ赤竜を失望させる振る舞いだ。自分はもう、なんの力もない傍観者ではない。グロスラッハの竜騎士となったのだ。


 唸りを上げにじり寄ってくる獣たちから目を逸らさないように、足元に落ちていた剣を拾い上げた。ずっしりと重たいはずの鋼鉄の剣は、思いのほか苦労もなく持ち上がる。竜騎士となった恩恵なのだろうか。


 古い剣はあちこち曇り、錆も浮いていたが、まだ武器としての力を失ってはいない。拳に力を籠めると、恐怖を塗りつぶすように怒りが湧いてくる。あるいはそれは、グロスラッハの怒りであったかもしれない。


「来るなら、来てください……!」


 手にした剣を眼前に構えた途端、獣の一匹が身を低く沈め、猛然と駆け出した。地を蹴る瞬間は、不思議とよく見えた。獣は一息で半分の距離を駆け抜け、もう一息で喉元に食らいつかんと飛びかかってくる。


 あやのの身体は、獣たちが思っていたよりも、あやの自身が思っていたよりもずっと速く動いた。倒れ込むように横に飛び、真っ直ぐに打ち出された獣の軌道から逃れる。頭上に落ちた影に慌てて前に転がると、続けざまに振りかぶっていた前脚が髪の毛を数本攫って行く。


「こんのお!」


 振り返りざま、がむしゃらに剣を振るう。力任せの稚拙な大振りだったが、刃は振り下ろされた前脚を切り裂いた。獣はひとつ鳴き声を上げながら体勢を崩す。


 今だ。水平に剣を突き出しながら、全体重を乗せて獣にぶつかった。鋼鉄の刃が肉を引き裂き、沈み込んでいく。グロスラッハのそれよりも、ずっと柔らかい。呪いに狂っていても痛みは感じるのか、獣はじたばたともがいてあやのを振り払おうとする。必死で体重をかけ、剣をより深く突き刺す。致命的なものが破れる手応え。獣の身体から力が抜けた。悶える獣がやがて息絶えると、その身体は黒い霧となって風に消えていく。


「きゃあっ!」


 立ち上がりかけたあやのの身体を、突進してきたもう一匹が押し倒した。強かに打ち付けた背が熱い。だが悠長に痛がってはいられない。半ば無意識に剣を横に突き出し、肉を食いちぎろうと噛みついてくる獣の口を遮った。鋼鉄に構わず牙を立てようとする獣の口から、唸りが漏れる。


「ど、どいてください……!」


 牙を剥き出しにした顎こそ剣で防いだものの、圧し掛かってくる身体は到底押し返せない。あまりにも体格差がありすぎる。剣を手放さないようにするのが精一杯だ。わずかでも気を抜けば、獣は一瞬で剣をもぎ取っていく。そうなればもはや、身を守る術は残されていない。すぐにでも喉笛を食いちぎられるか、さもなければ赤竜のように呪いを植え付けられるのか。


 死だ。


 あやのは目を見開いた。目の前に、形を持った呪いと死が迫っている。じりじりと顔を寄せ、あやのを飲み込もうとしている。そうなれば、バックランドでの物語は終わりを迎える。たった今授かった力を満足に奮うことも出来ず、グロスラッハの騎士としての責務も、バックランドを救うという使命も果たせず。なにひとつとして成し得なかった端役として、頁のどこにも名前を残せずに。


 偉大な竜の命を摘んだ呪いに、膝を屈することになる。


 いやだ。


 身体の芯の奥で炎が吹き荒れる。グロスラッハからこの身に宿り、虚ろの獣を前に湧き上がっていた怒りの炎が。炎はあやの自身の怒りを糧にいっそう激しく燃え盛り、壊れた内燃機関となって肉体を突き動かす。筋肉を、骨を、臓腑の一片までも炎が被い、人の身を超えた膂力を振るわせる。≪竜の怒り≫が、あやのの裡で渦巻いた。


 あやのは押し返した。柄と刃に手をつき、食らいついたままの獣ごと、長剣を押し上げる。獣の前脚が浮き、あやのは膝をついて立ち上がる。狼狽した獣の足が宙を掻いた。


「こんなところで、終わっていられないんです……!」


 反動をつけて押し上げると、獣の牙が外れる。あやのは素早く剣を引き、横一閃に振るった。振り抜いた格好のまま、あやのは呆然と切っ先を見つめた。獣の無防備な胴を骨ごと断ち切った刃から伝わったのは、紙を切ったようなわずかな抵抗だ。獣の肉体が霞となって掻き消えて、ようやく敵を切ったのだと認識できた。


 次第に引く波のように熱が冷めていくと、炎はまた身体の芯で燻るばかりとなる。あやのは脱力して、その場にへたり込んだ。


「か、勝てたんですよね……?」


 辺りを見回すが、答えを返すものもなく、廃墟の街並みはまた元の静寂に身をゆだねている。遠く崩れ落ちた大聖堂の向こうから、黒い影がこちらを見つめているような気がしたが、どこにもその姿を見つけることは出来ず、ただ赤竜の骨だけが見守るように佇んでいた。





 あやのは熱く息を零しながら空想の本を閉じる。目を瞑って深く息を吸い込まなければ、わけもなく走り出したくなる心を抑えられそうにもなかった。


 顔を上げると、書庫の机の向こう側で、辰巳がいやに微笑ましそうにあやのを見つめている。


「え、と、どうかしましたか?」


「ごめんね、あんまりにも満喫してもらえたみたいで、嬉しくて」


「はい……すごく、すごく楽しかったです! 最初はちょっと恥ずかしかったんですけど、異世界に来たんだって思うとすぐに気にならなくなっちゃいました! でも、いきなりドラゴン退治することになるなんて、思わないじゃないですか! どきどきして、どうなるのか不安だったり、でも期待する気持ちがすごく大きくて、とうとう私の物語が始まるんだって喜びたいんですけど、同時に背負うことになった竜騎士としての宿命とグロスラッハさんへの責任も感じていて!」


 机の上の紙片を手繰り寄せ、宝石のように目の前に掲げる。頼りない等身大のあやののステータスだけが書き込まれていたキャラクターシートには、竜騎士となったことによる能力値の修正や、身体能力を底上げする特殊能力≪竜の怒り≫、手に入れた長剣の情報などが追記されている。


 こうしてキャラクターシートには、シナリオの中で得た能力やアイテムが、ゲームを重ねていくごとに記入されていく。なるほど、辰巳がこれを冒険の記録だと話していた理由が実感できる。


 そうしてみるとどうだろうか。ひらひらと頼りなかったただの一枚の紙きれは、途端に重厚な石碑か、革表紙で装丁された羊皮紙の書物のように思えてくる。帰りに立派なファイルを買ってきちんと挟み込んでおこう。あやのは心にそう決めた。


 余韻に浸るように、あやのはもう一度息を吐きだす。


「自分でも驚きました、こんなに楽しいなんて」


「ちょっと疑ってたもんね」


「す、すみません」


 辰巳の笑顔に、頬を赤くして俯く。


「でも本当に楽しかったです。物語の世界に入って、自分でなにをするか決めて行動できる。もちろん現実に起きたことじゃないですけど、私は確かに主人公になれたんだって、そう思えました」


 キャラクターシートを、まるであやのを異世界へと連れて行った、空想の中で開いた革表紙の本のように大事に胸にかき抱く。そんな姿に辰巳が吐き出したのは、深い安堵の息だった。


「よかった、半分アドリブだったけど満喫してもらえたみたいで」


「え? アドリブだったんですか?」


 なんでもないことのように零れた言葉に、あやのは目を見開いた。アドリブ? いったいどこからどこまでが? 異世界へ降りていく下りも、黒騎士たちに追われ、グロスラッハに出会う下りも、廃墟での二つの戦いも、予定されていた物語ではなかったというのだろうか。


「もちろん大筋は最初に決めてた通りなんだけど。ほら、高千穂さんは別の誰かになりたいわけじゃなくて、自分自身が異世界に行きたいって言っていたでしょう?」


「は、はい、言いましたけど」


「本当はバックランドの住民が虚ろに立ち向かっていく話のつもりだったから、実は高千穂さんのキャラクターシート作りながら、必死で導入を考え直してた」


 照れくさそうな辰巳に、悲鳴のような声が漏れる。


「そんな。すみません、私そんなに大変なことだなんて思ってなくて」


「あ、いや、全然平気だよ! 最初の演出とかを変えたくらいだし、これくらいの即興はよくあるから! それに、高千穂さんが一番楽しめる物語にしたかったんだ。だからシナリオを変えたのは僕の希望だよ」


 物語をその場で書き換えることが、そんなに簡単だとは信じられなかったが、取り繕ったところのない辰巳の言葉は、素直に受け止めることができた。正真正銘の、自分のための物語だ。ゲームマスターを務めた辰巳と、TRPGというゲームへの感嘆が沸き上がる。


「そんなことも出来るなんて、自由なんですね、TRPGって」


「最高の誉め言葉だよ、それ。どんなゲームにもルールはあるし、TRPGにだってもちろんある。でもゲームマスターとプレイヤーが、互いの楽しみの最大公約数を見つけたときには、ルールやシナリオに書いてないことをしたっていい。だからTRPGは、最高に自由なゲームなんだ」


 身を乗り出して語る辰巳の熱は、どれほど彼がこの不思議なゲームを愛しているのかをありありと伺わせる。依頼を無視されたり、おふざけに走られると泣くけどね。そう苦笑いする顔に浮かぶのも、楽しい苦労の思い出のようだった。


「……私もはまっちゃいそうです。TRPG」


「本当に?」


「はい! 今すぐにでもバックランドを救うために旅立ちたくなっちゃいます!」


 目を輝かせてキャラクターシートに見入るあやのに、辰巳はいっそう可笑しそうに笑っていた。


「嬉しいなあ。でも旅立ちの前に、今回の戦いでの経験点が入るから、それを使って能力値を成長させられるよ。どう育てるか、ゆっくり考えてみてね」


「まだ強くなれるんですか! ど、どうしましょう、今は素早さが高いですけど、≪竜の怒り≫を使わないと筋力は心許ないですし……」


 受け取った一覧をさっそく凝視しようとするあやのの姿に、辰巳が慌てて声を上げる。


「待って待って! 高千穂さん、悩むのもいいんだけど、その前に時間見て」


「えっ?」


 腕時計の針は、いつの間にか五時半を指そうとしていた。


「うそ、もうこんな時間」


「これ以上遅くまで居残りさせるわけにもいかないでしょ。門限とか大丈夫?」


「ま、まだ間に合います!」


 慌ただしくテーブルの上を片付け始める。特別厳しい両親ではなかったが、とにかく過保護だ。連絡もなしに門限を超えようものなら、下手をすれば明日から定時連絡を義務付けられかねない。


「でも高千穂さんがファンタジー好きで助かったよ、本当に」


「どうしてですか?」


「気に入ってもらえなかったら、最悪他のシステムに変えることも考えてたから。SFやホラーとか」


「そ、そうだったんですか。でも、本当に色んな物語の世界を体験できるんですね! 実は私、SFってあまり読んだことがなくて」


「へえ。もし興味があるなら、お薦めの紹介もするよ」


「本当ですか? それじゃあ……」


 外の様子を窺いながら書庫を後にし、次にこの場所に集まる日を約束して図書室の前で別れるまで、二人の読書談義は止むことはなかった。

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