第11話
村人たちが囲む焚火に駆け戻ると、彼らは恐慌状態に陥っていた。呆然と震える男たち、泣きわめく子供を抱きかかえる女たち。どこに逃げればいいのかもわからず、誰もが落ち着きなく周囲を見回している。
「くそ、くそ! 冗談じゃない、こんなところにまで現れるなんて!」
ヘリオスフィアが慌てふためいている。荷物をまとめ、リュートを背負い、恐怖の源がどこから来ようとしているのか探している。
そして、影が舞い降りた。
人々の輪の中心、煌々と燃える焚火のすぐそばに。ずんぐりとした自動車ほどもある図体。熊のようにも見える体躯。見たことのある姿だった。違うのは、異様に大きく、つい先ほどまでその巨体を持ち上げていた、風切り羽根の並んだ前腕。身体中に蔓延る、カビのような黒ずみ。
「まさか、さっきのアウルベア?」
「あんなのが、あんなのがアウルベアなはずあるか! アウルベアが飛べるはずがないだろう!」
レイリアの呻くような声に、ヘリオスフィアは喚き声で答えた。そうだ。あれはもう、梟と熊を掛け合わせたような獣ではない。それを醜く歪めた、虚ろの魔物なのだ。
かつてアウルベアと呼ばれていた魔物が吠えた。笛を鳴らしたような音ではなく、不愉快な雑音めいた雄叫びで。唖然としていた村人たちが恐怖に駆られ、悲鳴を上げながら散り散りに逃げ出す。
「ダメです待ってください! ばらばらに逃げたら……きゃ!」
魔物が羽ばたく。突風が吹き荒れ、真っ先に吹き飛ばされたのは焚火だった。闇が辺りを支配する。そしてパニックが。
どこかで地面を揺らす音が響き、悲鳴が轟く。また突風が吹き、また誰かの悲鳴が聞こえる。
見えない! どこにいるんですか! あやのがいくら目を凝らしても、アウルベアの姿を見つけることはできなかった。あんなにも大きいのに。月明かりはなく、焚火の灯りに慣れていた目は、一向に闇夜に馴染もうとしない。
「アヤノ、どうしよう! このままじゃみんなが!」
焦りばかりが募る。いくら力が強くても、姿が見えなければ戦うことなど出来ない。相手は梟の目を持っている。こちらの居場所などお見通しなのだ。せめて少しでも、少しでもアウルベアの影を捉えなきゃ。
すると、本当に不意に、闇が色とともに遠ざかっていった。世界が広がり、逃げ惑う人々の姿が、上空を旋回する魔物の姿が、揺れる下草の一本までもが見通せる。
「な、なんですか、これ」
「ア、アヤノ、どうしたのその眼」
「え?」
あやのは握っていた長剣の刃を覗き見た。上げかけた悲鳴を、辛うじて飲み込む。映っていた目は、人間のそれではなかった。金色に輝く虹彩の中に、縦に裂けたクレバスのような瞳孔が走り、目を凝らすほど大きく開いていく。紛れもなくそれは、あの廃墟で見た≪竜の眼≫だった。
「これも、グロスラッハさんの祝福……?」
乏しい光源を増幅する視界は、慣れない脳を混乱させたが、あやのは頭を振って立ち眩みを払う。これなら戦える。
「レイリアさん!」
「う、うん」
「とにかく皆さんを街道に集めてください! ばらばらに攻撃されたら対処できません!」
「わ、わかった!」
あやのは上空を、獲物を狙い悠然と舞う影を見据えながら駆けだす。どこだ、どこに降りる。影が頭を下げた。来る。
狙われたのは、体格のいい農夫だった。どれほど腕が太くて胸板が厚くても、飛び込んでくるアウルベアの攻撃を防げるはずがない。あやのは走った。身を屈め、剣を斜め後ろに構え、風のように下草を倒しながら駆け抜けた。間に合え! すくい上げるように長剣を振るうと、怯んだアウルベアが急制動をかけ上空へと戻っていく。
「あ、あんた」
「街道に戻ってください!」
唖然とする農夫を残して、また駆け出す。滑空する魔物と、ヘリオスフィアの間に割り込んで、剣を振るう。アウルベアは上空に逃げる。ヘリオスフィアがなにか叫んでいたが、聞いている暇はない。次は誰を狙うだろうか。影は遥か頭上で旋回している。避難は進んでいるだろうか。
アウルベアが頭を下げた。狙いは? 走る足に力を籠める。どこに降りようとしても絶対に阻止するために。あやのは上空の影を睨み、そしてアウルベアと眼が逢った。狙いは、あやのだ。
咄嗟に急制動をかけなければ、あやのは大地を揺らしながら着地したアウルベアの下敷きになっていただろう。横跳びに転がって魔物の着地を躱し、尻もちをつきながら闇の中に煌めく丸い瞳を睨み返す。
アウルベアは後ろ脚だけで立ち上がり、くちばしを開いてあやのを睨みつけている。歪に膨れ上がった前腕を威嚇するように持ち上げ、アウルベアの姿をひと回りも大きく見せる。繰り返し狩りを阻むあやのを、敵と認めたらしい。あるいはボードレック砦での恨みが蘇ったのか。
「そうです、あなたの相手は私ですよ!」
立ち上がり、片手半剣を正眼に構えて叫ぶ。受け取れないと思っていた剣だったが、背に腹は代えられない。剣もまた、あやのを急き立てるかのように輝いていた。虚ろの魔物に、前の主の借りを返せと。
奇声を上げながら振るわれた前腕を、地面を滑りながら躱す。すれ違いざまに剣を振り上げ切りつける。だが刃は、風切り羽根を数枚散らしただけだ。即座に立ち上がり後方に回り込むように走るが、梟特有のよく回る首は、その動きを余さず捉えていた。背後から切りかかろうとした瞬間に羽ばたかれ、跳び上がった巨体は、突風に足を踏ん張るあやのから十歩離れたところに着地する。
手強い。魔物と睨み合いながら歯を食いしばる。翼がバランスを乱し、森で戦ったときのような巨体に似合わぬ俊敏さは失われている。だが引き換えに得た飛行能力は、地上戦闘でも遺憾なく猛威を振るう。
切りかかり、翼をかい潜り、突き出した剣を弾かれる。
足りない。あやのは息を吐き、臍を噛む思いで歪な巨体を見た。アウルベアの繰り出す重たい一撃は、まともな防具もないあやのにとって、どれひとつ受けても致命的な結末を導く、危険な攻撃だ。翻ってあやのの剣捌きは拙く、がむしゃらで、いくら祝福によって力と速度が増していようとも、暴れまわる巨獣に有効打を与えるには至っていない。
このままでは、じりじりと体力を削られるばかりだ。確実に急所を切りつけなければ。あやのは剣を振りかぶって踏み込んだ。焦りは、失敗を呼ぶ。
「あッ!」
アウルベアの懐に飛び込み、長剣を振りかぶった身体が傾ぐ。生い茂る下草に足が滑った。
アウルベアの翼が横薙ぎに振るわれた。風切り羽根の生えそろった大きな翼は、丸太のように唸りながら、あやのの身体を強かに打ち据える。避けることも踏ん張ることも出来ず、ゆうに十メートルも吹き飛ばされ、草原に転がった。
視界が回る。眩む頭で立ち上がろうにも、足は言うことを聞かない。地面の小石と、アウルベアの殺意が痛いほどに突き刺さる。暴力的な羽ばたきに突風が吹き荒れる。間に合わない。あやのは頭を抱えて身を丸めた。
「みんなあそこ! 投げて!」
突風が止んだ。殺意が逸れる。
恐る恐る顔を上げると、アウルベアの周りには雨が降り注いでいた。鍬や鎌、石つぶてや、薪の雨だ。松明を掲げた村人たちが、変異したアウルベアへ向かって手当たり次第にものを投げつけている。男も、女も、子供も、吟遊詩人も、誰もが叫びながら魔物に一矢報いようとしている。魔物は、首を巡らせて彼らを睨んでいた。
「今だよアヤノ、立って!」
レイリアの声に支えられながら、あやのは膝を震わせて立ち上がる。再び突風が吹き付け、震える足で地面を踏みしめる。アウルベアの巨体が浮き上がる。その矛先は、狩りに水を差してきた人間たちだ。村人たちの表情が恐怖に歪む。あやのは走り出そうとした。だが、遠い。剣を握る手に力を籠める。地面を蹴った足がもつれる。間に合わない。松明に照らされ、凍り付いたレイリアとヘリオスフィアの顔が見えた。魔物が跳び上がった。
「ダメです……だめええええええ!」
あやのには、叫ぶことしかできなかった。
声は、声になることはなかった。大気が鳴動する。揺すぶられた空気は衝撃を伴い、鉄槌と化してアウルベアの身体を強かに打ち据えた。今にも村人たちに躍り掛からんとしていた魔物の巨体は、地面を揺らしながら草原に落下する。
束の間、辺りには、草や虫たちまでもが音を忘れたかのような沈黙が舞い降りた。
今のはなんだ。今自分の口から迸ったものは。まるで獣の雄叫びのようだった。それも並大抵の獣ではない。まるで、竜のような。
轟声を迸らせたあやの自身、なにが起きたのかわからず、唖然として立ち尽くしていた。「アヤノ、まだ生きてる!」誰よりも先に我を取り戻したレイリアの指差す先で、黒い影がしぶとく起き上がろうとしている。
あやのは剣を手に走り寄り、その首筋に真っ直ぐ刃を突き立てる。それで終わりだった。闇夜を飛び回り、人々を恐怖で翻弄した歪んだアウルベアは、ただそれだけで霞のように消えてゆく。あとにはただ、夜風に揺れる緑の原と、松明を手に少女を遠巻きに囲む人々だけが残されていた。
「今のはなんだ?」「まるで野獣の声だったぞ」「咆哮だ」「まるで≪竜の咆哮≫だった!」「それだけじゃないぞ、真っ暗闇の中をまるで昼間のように駆け回ってた!」「あの恐ろしい魔物と切り結んでたんだ!」「そして退治しちまった!」
「アヤノ……」
もの問いたげなレイリアの眼差しにも、あやのは押し黙るしかない。レイリアは自分を信頼してくれていたのに、自分は素性をひとつとして明かしてはいなかった。罪悪感が喉を詰まらせる。だが黙ってはいられない人間もいた。
「竜騎士だ!」
興奮した声を上げた吟遊詩人に、人々が振り返る。
「間違いない、さっきの咆哮も、人間離れした身体能力も! 君は竜騎士だったんだ、アヤノ。君は本当に竜騎士だったんだ! そうだろう?」
あやのは視線を泳がせ、助けを求めてレイリアを見る。レイリアは、どこか期待に満ちた眼差しであやのを見つめていた。だからもう、観念するほかなかった。
「はい、そうです。黙っていてすみません。私は竜騎士です。竜騎士、あやのです」
「なんてこった、まさかこんなことがあるだなんて! 俺もとんだ不見識だ。けれど、たまたま街道で出会った少女が、竜を討ち取っただなんて、誰が信じられるって言うんだ!」
ヘリオスフィアは頭を抱えて呻き声を上げる。だが、それよりもあやのを困惑させたのは、自分の周りで膝をつき、頭を垂れようとする村人たちであった。跪かれることなんて望んでいない。誰か止めてください。あやのは、落ち着きなく視線を巡らせる。
「二人とも、ちょっとお邪魔するわよ」
そして、かけられた声に振り返った先にいたのは、レイリアではなかった。
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