テーブルトークファンタジー~バックランドの竜騎士たち~

ふぉるく

第一章『書庫の魔法使い』

第1話

 東の山並みの向こうに陽が顔を覗かせる、そのほんのひと時前の暗い空の下。地に横たわった大蛇を思わせる堅牢な城壁の上に立ち、高千穂たかちほあやのは傍らの相棒の背を撫でた。


 滑らかな絹の手触りと、艶やかな白磁の輝きを持つ毛並みは、勇壮な翼と相まって、天馬の清廉さを厳かに物語っている。長らくあやのをその背に乗せて共に旅をしてきた彼女は、未だ昏く澱んだ彼方の空に向かってひとつ嘶く。蹄が石畳を叩いて天馬の昂りを伝え、あやのの昂揚もまた煽られた。


 振り返れば、まだ眠りの中にいる街並みが広がっている。色とりどりの瓦屋根を被る、煉瓦造りの家々。その向こうに聳える、王の居城。彼らが目覚めるまでには、まだ幾ばくか時間があるだろう。あるいは、彼方から蔓延る闇の気配に怯え、眠れぬ夜を過ごしたものもいるかもしれない。


 ならばこそ、あやのに恐れはなかった。彼らが起き出す前に、相棒と共に城壁を飛び立ち、緑の丘を越え、深き森の木々を潜り、碧い海の彼方へと向かおう。今まで以上に厳しい戦いが待ち受けているとしても、もはや決心が揺らぐことはない。あやのの後ろには、守るべき人々がいる。


 怨嗟と呪詛を乗せた風が、見果てぬ平野と山並みの向こうから吹き荒れる。緩やかに波打つ長髪がたなびいた。あやのはそれをひとつにまとめ、鞍も付けぬ天馬の、裸の背に飛び乗る。背負った剣の柄に手を這わせる。精霊たちが踊る。


 大丈夫だ。なにも心配することはない。清らかに背を押す風を纏い、恐れず待ち受ける運命に立ち向かっていこう。邪悪の影を打ち倒し、怯える人々に夜明けを告げよう。


 あやのは相棒の首筋を軽く叩く。あやのの身体は、風に乗って城壁から飛び立っていった。


「きゃっ!」


 あやのは落下した。床に尻を打ち付け、ついでに顔には、それまで読んでいた本が落ちてくる。


「いたた……」


「……なにやってんの、あやの」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。目の前の白いカーテンが引かれ、見慣れた顔が覗いている。邪悪の影でもなければ、怯える街の人々でもない。同じ教室に通う友人の顔だ。あやのを受け止めたのは、石造りの城壁ではなくリノリウムの床だったし、傍らの白は、天馬ではなくベッドのシーツだ。


 現実が、急速に戻ってくる。あやのがいるのは、消毒液の匂いがかすかに漂う、カーテンに囲まれたベッドの脇で、本の中に描かれていた世界も、背負った使命も、もちろんあるはずがない。


「あ、あれ、麻由香ちゃん? もしかして、授業終わっちゃったんですか?」


「とっくに昼休みなんだけど」


 四限目に不調を訴え保健室に行ったはずの同級生が、保健室で読書に耽り、あまつさえベッドから転がり落ちている。そんな光景に、カーテンを開けたまゆずみ麻由香まゆかの眼差しは、みるみる呆れの色に染まっていった。


「サボってたわけじゃないでしょうね」


「ち、違います! ただ、その」


「なに?」


「貧血気味、だったんです。ひと眠りさせてもらって元気になって、でももう授業時間も残ってなかったので、昼休みになってから戻ろうと思ってた、んですけど……」


 チャイムを聞き逃すほど熱中してしまったのが、唯一の誤算だった。「またそれ?」麻由香に冷ややかに見下ろされ、あやのは足りなかったはずの血の気が顔に上ってくるのを感じて目を伏せる。


「はあ。ほら、もう戻ろう。お昼食べる時間なくなるよ」


 さっさと踵を返す麻由香を慌てて追いかけ、保険医に礼を告げながら、あやのは小走りで保健室を出た。





 廊下は、喧噪で溢れている。


 午前と午後の、課業と課外の間。乗り越えた教科からの解放感と、あとに控える教科への煩わしさ。将来への希望を学友たちと、将来への不安を教員たちと、まるで世界の一大事のように共有する狭間の時間。大人と子供の間にあって、自由と不自由とに日々向き合いながら過ごす高校生たちにとって、午前中の授業を終えた昼休みは、一日の中で最も高校生でいられる時間だ。


 とりわけ一学期の中間試験を終えた今時分は、終わった試験の達成感と、結果への憂鬱の間で揺れ動き、校内の喧騒は輪をかけて賑々しくなっている。


「あやのの読書狂が、今に始まったことじゃないのは知ってるけどね。そろそろ時間を気にする習慣をつけたら」


「すみません……試験勉強中はなかなか読めなかったので、つい」


「授業サボって読書していい理由になってない」


「ごめんなさい……」


 久しぶりにやってしまった。


 負い目に顔も上げられず、あやのはますます肩を小さく縮こまらせていく。


「はあ」


 いくぶん低くなった頭に降ってきたのは、さらなる叱責の言葉ではなく、麻由香の小さなため息と手のひらだ。麻由香よりひとつ低いところにあるあやのの髪が、乱暴に掻きまわされる。


「ほんと手がかかるんだから」


「や、ちょっと、麻由香ちゃん」


 麻由香が笑う。あやのも笑った。


「それで? 今はどんなの読んでるの」


「はい! 剣と魔法の異世界が舞台のファンタジーなんですけど、自分は平凡な村娘だと思っていた女の子が主人公なんです。でも実は彼女は、精霊に愛される特別な力を持っていて、恐ろしい闇の勢力との戦いに身を投じることになるんです!」


 あやのにとって麻由香は、芯から心を許せる唯一無二の親友だ。麻由香の几帳面で面倒見のいい性格にも、小柄なあやのとは正反対の、若枝のようなすらりとした体躯にも、密かな憧れを抱いてすらいる。


 こうして、あやのの好きなものに耳を傾けてもくれる。だから安心してしまう。時間を忘れて本の世界に入り込んでしまっても、きっと麻由香が呼び戻してくれると。


 廊下を行き交う生徒たちの間を抜け、中央階段までたどり着いたとき、あやのはふと、廊下の先に目を向けた。階段を通り過ぎれば、昇降口から続く中央ホールにたどり着く。


「そうでした、少し寄り道してもいいですか?」


「いいけど」


 中央ホールには校内掲示板が設置されている。年間の行事スケジュールに、各校内行事の案内や、地域活動のポスター。もっとも彩り豊かに賑わっているのは、部活板に貼り出された各部の部員募集広告だ。


 あやのはそれらには目もくれず、校内新聞の前で足を止める。あった。瞳に、弾けるように星が瞬く。


「ああ、新しい図書通信?」


「はい。今日が発行日でしたから、見ておこうと思って。今週号には、どんな本が紹介されているんでしょう」


 週に一度発行される図書通信は、図書委員会に属する生徒たちの手によって書かれる、学生新聞のひとつだ。新しく図書室に入った本の案内や、読書や図書室の利用を奨励するためのコラム。時には、貸し出し冊数の多い生徒のランキングを発表するなど、その時々の企画で生徒たちの読書意欲を盛り立てようとしている。


 中でも委員会の生徒の嗜好が反映されるのは、各自の好きな本を紹介するコーナーだ。大半は小説本に偏るが、中にはエッセイや学術書、果ては紙面をいっぱいに使って猫の写真集を紹介していた生徒までいる。


 同じ学舎に通い、同じ委員会で仕事をする生徒たちが、どんな本を、どんな気持ちで読んでいるのかが浮かび上がってくるこのコーナーを、あやのは毎号心待ちにしていた。


 夢中で紙面に目を走らせていたあやのの耳に、ため息が届く。振り向くと、麻由香が呆れ半分の笑みを浮かべている。


「な、なんですか、麻由香ちゃん?」


「別に。ほら、さっさと読まないと時間なくなるよ」


 肩を竦める麻由香に首を傾げながら、あやのは再び紙面に向き直る。


 やはり今週号にも、生徒たちが嗜好を凝らした、本の紹介文が載せられている。さっと目を通し、興味を惹かれる本のタイトルを拾い上げていく。


 『リングアンドの冒険者たち』は、異世界に迷い込んでしまった日本人が主人公の、ファンタジー作品らしい。胸中のメモ用紙に書き留める。少女が剣を片手に、夢を追って旅に出る『トルバドール!』も覚えておこう。それに、これは?


 あやのの目は、図書通信の一番下、他の記事に隠れるように載せられている、小さな枠に縫い留められた。


「麻由香ちゃん、見てください、これ」


「なに、これ?」


 そこには、羊皮紙をイメージした枠組みが敷かれ、その中に『異世界を救う物語の主人公募集中。放課後、書庫にて』とだけ書かれている。誰の署名もなく、なにが催されているのかも記載されてはいない。


「異世界を救う物語の、主人公……」


「読書会の案内、ってわけでもなさそう。なんの広告か知らないけど、怪しすぎるでしょ。こんなの見て行こうと思う人なんているの?」


 訝しげに睨みつける麻由香の横で、あやのの目は、何度も何度もその短い文面をなぞっていた。


 異世界を救う。主人公。異世界とは、そのままの意味なのだろうか。ここではないどこか、見たこともないはるか遠くの世界。まさしく紹介されている本のように、危険と浪漫に満ちた世界。連綿と続くこの日常からかけ離れた別世界を救う、そんな物語の主人公を、この広告は探しているのだろうか。そんな希望を持つ人を探しているのだろうか。だとしたらそれは。


「あやの、あやの?」


「は、はい! なんですか麻由香ちゃん」


 肩を揺すられ見上げると、保健室で見たよりも、いっそう呆れた顔の麻由香がいた。


「そうだった、あやのは完璧そっち側だった」


「そっち側、って」


 麻由香の目が細まる。


「異世界で冒険したい、なんて本気で妄想してる側。あやのが大好きなタイプの話じゃん」


 まさしくそれは、あやののことに他ならない。


 あやのは本の世界が、中でも異世界を舞台にしたファンタジー作品が大好きだ。ページをめくるたび、幻想的な世界を股にかけ、章が進むごとに、新たな危険に身を投じて戦う主人公たちの物語を前に、いつだって心躍らせてきた。


 そして夢見るのだ。なんの取り柄もない自分にも、いつか突然、世界を股にかけた冒険に旅立つ日が来ないかと。ベッドに入る前に、明日がもっと楽しい日になればいいのにと願うように。


 図書通信の隅に書かれた小さな広告は、まさに本の中に出てくるような、あやのを不思議な世界へと案内する、道標のように思えてならなかった。


「も、妄想なんて。確かに、そんな冒険が始まったらなって、夢見たりすることはありますけど」


「実現性皆無。そいういうの、妄想って言うでしょ」


「……子供っぽいなんてわかってますけど」


 唇を尖らせると、麻由香は目を逸らした。


「別にそうは言ってないけど。でも、まさか行くつもりじゃないでしょうね? 変なゲームサークルの勧誘だったらどうするの。それかヤバい薬が出てくるとか」


 む。あやのは口を噤む。


 確かに。募集人がいったいなにを企図しているのか、この記事から推し量ることは出来ない。なにかのゲーム同好会の密かな募集というのは、いかにもあり得そうな話だ。暗い室内、携帯ゲーム機を持って集まった生徒たちが机を囲み、かちゃかちゃとボタンを操作する音だけを響かせる様子が脳裏を過る。


 ビデオゲームを否定するつもりはないが、いくらなんでも『異世界を救う』として誘うには虚飾が過ぎる光景だ。ましてやその室内に怪しい色のついた煙が立ち込めていようものなら、即座に逃げ出して通報しなければならなくなる。


 あやのは頭を振るって、頭に湧いた非道徳的な活動風景を掻き消す。


「ゲーム同好会がないとは言い切れませんけど、図書通信をまとめているのは汐谷先生ですから、少なくとも変な集まりってことはないと思います」


「まあ、それはね」


 学校司書であり、図書委員会の監督も務める汐谷しおや鞠絵まりえは、気さくだが、図書室で騒ぐ不届きものには容赦がない。彼女が認めているなら、余計に疑ってかかる必要はないのではないだろうか。


 不安要素が減ると、ますますそれが、なにか物語の始まりを告げる先触れに思えてならなかった。どんな物語も、冒険の扉は思わぬところから開こうとする。これがそうなのだとしたら。見逃してしまえば、次の機会は決して巡ってこないような、そんな予感さえし始める。


「もし。もしこの広告に従って書庫に行ったら、異世界に旅立てたりするんでしょうか」


「そんなわけないでしょ」


 麻由香にすげなくあしらわれたところで、あやのの空想はどんどんと育ち、もはや摘むには手遅れなほど幹を伸ばし、枝葉を広げている。


「もしかしたら、これが私の物語の始まりなのかも」


 疑問が願望と混ぜ合わさり、今にもあやのの目の前で、書架の間にある重厚な木の扉が、その向こうからあふれ出る光に押し開かれそうであった。きっと扉が開けば、不思議な冒険への道が続いているに違いない。


 これを書いて、書庫で待っているのはどんな人物なのだろう。待っているのは、どんな異世界なのだろう。どうやって救いに行くのだろう。


 行ってみたい。扉を開いてみたい。


「やめときなよ。変なことに巻き込まれても知らないからね。だいたい、そんなに物語の主人公になりたいなら、演劇部に入ったらって前から言ってるのに」


 扉が開く寸前、とんでもないことを言い出した麻由香に、あやのは慌てて振り返った。


「む、無理ですってそんなの、絶対できません! 私がみんなの前で演技するなんて、とてもじゃないですけど恥ずかしくて」


 観客たちの視線を集めながら体育館のステージに立つ自分の姿を想像して、あやのは大袈裟に首を横に振る。耐えられるはずがない、クラスでの自己紹介でさえ緊張してしまうのに。


 自分は麻由香とは違うのだ。すらりとして美人で、頭の回転も速くて、どんなことでもそつなくこなし、舞台に立っても様になっている麻由香とは違う。


 麻由香ちゃんとは違うんですから。あやのは麻由香に、羨望の眼差しを向ける。


 麻由香には明確な夢と目標がある。どんくさくて、本を読んで空想することしか取り柄がなくて、自分になにができるのか、なにをしたいのかもはっきりとはわからず、ある日突然始まる冒険物語なんていう、荒唐無稽な夢を抱くしかない自分とは違って。


「いっそ、自分でそういう物語を書いたらいいのに。あやのが主人公のファンタジー小説」


「もっと無理です! 私、小説なんて書いたことありません」


「たくさん読んでるんだから。書けるんじゃないの?」


「じゃあ麻由香ちゃんは、たくさん映画見てたら、それだけでお芝居が上手になるんですか?」


「無理でしょ」


 ほら見てください。半眼を向ける。それに。あやのはわずかに顔を俯かせた。


「私は、どこかで読んだ物語を空想するばかりで、自分で物語を考えたことなんて一度もありません。自分で経験したこともないお話なんて、どうやって考えればいいかもわからないんです」


 天馬に飛び乗って空を駆けるのも、風を纏って恐ろしい敵に立ち向かって行くのも、どれも本で読んだ物語のつぎはぎだ。小説の中の主人公に成り代わって、誰かの物語に便乗する。そんな都合のいい物語ばかり空想している自分にも、あやのは辟易していた。


「そ、それに、お話を作るなら麻由香ちゃんの方が適任じゃないですか。演劇部は脚本も自分たちで作るんですよね? 私、麻由香ちゃんが考える私が主人公のお話、見てみたいです」


「私は演じる専門だし」


 あらぬ方向を見て嘯く麻由香は、不意に口角をわざとらしく釣り上げてみせる。


「それに、私に書かせるなら、当然あやのに演じてもらうことになるけど」


 あやのの頬が引き攣った。演劇部での活動のたまものだろうか。脅しは、酷く現実味を帯びて聞こえてくる。


「な、なんでもありません。忘れてください」


「気が変わったかも。私も脚本作るの勉強してみようかな」


「ダメですやめてください、考えないでください!」


「どんな本を参考にしたらいい?」


「図書通信見てください、もう!」


 あやのの悲鳴をさておいて、麻由香は踵を返して教室に向かう。その背中を追いかけ教室に駆け戻り、大急ぎで昼食を食べ終える頃には、もう午後の授業の準備を始めなければならない時間が迫っていて、あやのはまた麻由香に小言を言われる羽目になった。


 それでも脳裏から、異世界への誘い文句が消え去ることはなかった。

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