第3話

「じゃあまず、高千穂さんのキャラクターシートを作ろうか」


 言いながら辰巳は、机の下に置かれていた鞄からバインダーを取り出し、その中から紙片を一枚取り出す。差し出された紙を横から覗き込むと、名前や性別、年齢といったありふれたプロフィールの下に、種族や職業、体力や知力といった能力値、さらには持ち物を書き込むための欄が並んでいる。


「種族は人間、職業は後で入れるとして……ちょっと不躾だけど高千穂さん、運動は得意?」


 唐突な質問に面食らいながら、あやのは首を横に振る。


「い、いえ、苦手です」


「じゃあ勉強は?」


「頑張ってる方、だと思います」


 さらにいくつかの質問が続いた。我慢強いかだとか、手先は器用かだとか、なにかの診断を受けている気分になりながら、ひとつひとつ素直に答えていく。辰巳はその都度、手元の紙に数字を記入していく。だいたいこんな感じかな、と呟くと、辰巳はその紙片をあやのに差し出した。


「はい、どうぞ。これが今の高千穂さんの能力値を表すキャラクターシート」


 なるほど、そこには確かに、自分の能力を数字にしたらこうなるかもしれない、そう思わせる表が出来上がっている。知力が高めで素早く動けるものの、体力には不安あり。これで本当に、冒険なんて出来るのだろうか。それに、まだ空欄も多い。


「空いてる部分は話が進んだら埋めていくから、今はありのままの高千穂さんだと思ってね」


 補足され、それならば、とあやのは頷く。


「大丈夫、だと思います! なんだかこうやって見ると、成績表や履歴書みたいですね」


 率直な感想を告げると、辰巳は苦笑を零す。


「ある意味近いかも。物語が進めば、そこにいろんな情報を書き込んでいくことになるから、高千穂さんの冒険の記録にもなるわけだ」


「これが私の、冒険の記録……」


 今はまだまっさらで、最低限の記入しかされていない一枚の紙に過ぎない。あやのがこのゲームを続けていくことを選んだならば、空欄が埋まっていき、歩んできた冒険の足跡が刻まれていくのだろう。


「名前のところ、書いておいてね」


 なにか大事な書類にサインするような慎重さで、恐々と名前を記入する。一方で辰巳は、自分の前に卓上サイズの衝立を取り出して設置した。あやのからは辰巳の手許が見えなくなる。


「それは?」


「マスタースクリーンって言うんだけど、目隠しみたいなものかな。僕用のメモとか見えちゃうと、ネタバレになっちゃうでしょ」


 当然のことながら、進行役を務めるゲームマスターは、シナリオの中で起きている出来事の全容を知っている。物語の登場人物がそれを見てしまうようなことがあれば、ストーリーは崩壊してしまう。


「それから、はい、これ」


 差し出された手からあやのの手のひらに、透明感のある水晶を模したような、プラスチック製の赤い多面体が転がる。革のトレーで光っていた、角ばった宝石のような多面体のひとつだ。見慣れない形だが、どうやらそれはサイコロらしい。刻まれた数字を見ると、二十までの目があるサイコロのようだ。よく見ればトレーには、よく見知った六面体のサイコロも転がっている。


「これから始めるゲームでは、なにか行動の成否を求めるときに、その二十面ダイスを振って結果を見る。細かいルールは順次説明するけれど、いわばそれが、高千穂さんの運命を決める石ってわけだ」


「運命の石……!」


 急に、手のひらに乗せられたダイスの重みが増した。


 ここに至るまで、まだあやのの胸中には、半ば以上の不安が渦巻いていた。


 物語の世界に入りたいなどと言う幼稚な夢想を、彼はゲームという形でなら叶えられるといった。ゲームそのものに思うところはなくても、自分の願望を実現してくれるものだと考えてはいなかった。ゲームはゲーム。いくら自分の手を介することができたとしても、やはりそれは画面の向こうにいる誰かの物語、誰かの体験を見ているだけだ。作品である以上、同じ体験を誰もが見ることができる。きっとそれはそれで楽しいのだろう。本を読むのと同じだ。それでもあやのは、ゲームからは距離を置いていた。きっとどうしても、コントローラを握る自分の手を見てしまうだろうから。


 けれど。


 思いの外自分は単純なのかもしれない。手のひらの中でダイスを転がしながら、あやのは逸る気持ちを自覚した。自分の冒険を記録していく紙片や、冒険の先行きを定めるダイスを手にした途端、それらが並々ならぬ力を湛えた、自分を異世界に導いてくれる魔法の道具に思えてきてしまったのだから。


「じゃあ、始めるね。今回ゲームマスターをする、二年の古湊辰巳です。改めてよろしくお願いします」


「あ、はい! よろしくお願いします! えっと、私も自己紹介しなおした方がいいですか?」


「そうだね、セッション……ええと、ゲームの物語を始めるけじめみたいなものだから、一応お願いしようかな」


「はい! 一年の高千穂あやのです。なにもわからなくて、ちょっと緊張してますけど、よろしくお願いします」


「うん、よろしくね。じゃあ、始めるよ」


 こほん、とひとつ咳払いをした辰巳は、意識したような低く穏やかな声で語り始めた。


「導入はこんな感じだ……ふと気が付くと、高千穂さんは見知らぬ場所に立ち尽くしている。周囲を見ると、どうやら廃墟となった街の中のようで、厚く立ち込めた雲を通して差し込む鈍い光に、空気がきらきらと舞っている」


「は、はい」


「目に入るのは、崩れた石壁や瓦礫も同然の建物ばかりで、周囲に人の気配はない。身なりはいま着ている制服のままだ。まずはどうしようか?」


「え? えっと……」


 思わず周囲を見回すが、書庫の中に変わったところはなにもない。不思議な光が自分を包むことも、空間が歪んでその向こう側と繋がることもなかった。


「しばらく立ち尽くしているなら、後ろになにか気配を感じる気もする。振り向いてみる?」


「後ろ、ですか?」


 振り返ってみても、そこには書棚があるだけだった。


「あはは! シナリオの中での話だって。高千穂さんがどう行動したいか、言葉で教えてくれればいいよ」


「言葉で……あ、あの、ちょっと待ってもらってもいいですか?」


「うん? どうかした?」


「……ごめんなさい、急だったので、上手く飲み込めなくって」


 膝の上で指をこねながら、肩を落として俯いた。本を読みながらその場面を想像することには自信があったし、自分が見知らぬ世界に迷い込んだら、どんな冒険になるだろうと空想するのは日課のようなものだった。


 だが、他人から口頭で伝えられた情景の中に自分を置くには、あまりにも取っ掛かりがない。見知らぬ場所に立ち尽くしている、と言われても、あやのは間違いなく書庫の机に向かって椅子に腰かけているのだ。自分が主人公だ、と言われたところでなんの実感も抱けず、状況の見えない物語に感情移入することも難しい。


 せっかく準備までしてくれたのに。申し訳なさに唇を噛むと、辰巳は決まり悪そうに頭を掻いた。


「いや、こっちこそごめん、つい慣れてる相手と同じテンポで進めちゃって」


 ううん、と首を捻る辰巳に、あやのの肩はいっそう縮こまる。状況に入り込めない自分が悪いのか、それともやはり、このゲームは自分には向いていなかったのか。困惑と罪悪感が渦を巻き始めたあやのの前で、辰巳はぽんとひとつ手を打った。


「わかった。高千穂さん自身が主人公だもんね。きっかけから順番に始めようか」


「はい……?」


 辰巳は佇まいを直すように、椅子に腰かけなおす。


「改めて説明するよ。これから高千穂さんには、異世界に行ってもらいます。その世界を救ってもらいたいんだ。僕たちの出会いは、きっと運命の導きなんだと思う」


「こ、古湊先輩?」


「君は異世界に行く方法を探していて、僕は異世界を救ってくれる人を探していた。高千穂さんにその力があるからこそ、君は僕の所へ導かれたんだ」


 ようやく辰巳の意図に気付き、熱くなった頬を手で扇ぐ。これは、物語の導入だ。お互いの探していたものを見つけた二人の出会いから、物語は始まっていく、というゲームの導入なのだ。彼はファンタジー小説好きの先輩ではなく、この書庫に身を潜めていた魔法使いで、物語の世界への道を探していた自分を導いてくれる。そう考えれば、なんの前触れもなく迷い込んだ異世界の風景よりも、ずっと入り込める気がした。


「でも、私にそんなことができるんでしょうか。世界を、救うなんて」


「きっと一筋縄ではいかないと思う。出来るかどうかは高千穂さん次第だ。もしも断るならそれでもかまわない。僕はまたここで、主人公になってくれる人を探し続けるよ」


 真剣な表情でそう懇願され、あやのは胸の前で拳を握った。身体のずっと奥で叩く鼓動を感じた。


「……やらせてください。私は、主人公になりたいです」


 辰巳は、我が意を得たり、と不敵に笑う。


「そう言ってくれると思ってた。なら、この本を手に取って」


「本、ですか?」


 差し出された辰巳の手には、なにも握られていない。


 いや、違う。もう物語は始まっているのだ。見ればそこには、大判の革表紙の本があった。ずっしりと重く、辞書よりも厚い本だ。見慣れない異国の文字で綴られた、魔法の本が。あやのは恐る恐る手を伸ばし、空想の本を両手で受け取る。


「これから高千穂さんに向かってもらうのは、バックランドと呼ばれる異世界。恐るべき脅威に晒され、滅びに向かおうとしているその物語の世界は、未だ姿を見せない主人公の登場を待ち望んでいる」


 ごくりとあやのの喉が鳴る。聞いたこともない世界だった。英雄を待つ世界。


「詳しいことは、たどり着いた先で聞くといい。さあ、好きなページを開いてごらん。そこが高千穂さんの出発地になるんだ」


 どこを開こうか。綴られた羊皮紙のざらざらとした手触りを感じながら、小口に指を這わせていく。決めた、始まりは二十五頁にしよう。


 空想の本の表紙を開いた次の瞬間、あやのは時空の壁を超え、未知の世界へと飛び込んで行った。





 眩い光に目を瞑ったあやのの周囲を、開いたページから溢れ出した奔流が瞬く間に取り巻いていく。腕で顔を庇い、薄く目を開くと、自分を中心に金色の光が渦巻いている。


 目を凝らしてみれば、それらは言葉だった。本に収められていたはずの実体を持たない言葉たちが、あやのの周りに吹き荒れている。書庫の風景は彼方に遠ざかり、腰かけていた椅子や、踏みしめていた地面の感触すら、時の狭間に溶けていく。自分が本の中に連れ込まれているのか、言葉が世界を書き換えているのか。


 ただひとつ確かなのは、自分のいる場所が、時間と空間を隔てた遠いどこかに置き換わろうとしていることだけだ。やがて目を眩ませる金色の光が、徐々に穏やかな輝きへと変わっていく。


 風が頬を撫でた。頬ばかりではない、全身に吹き付ける向かい風を感じる。耳朶をさする風が水流にも似た音を立てる。あやのは勘違いに気が付いた。風が吹いているのではない。自分が落ちて行っているのだ。


 光が晴れ、周囲に一面の青と、その中にまばらに浮かぶ白が広がる。ここは、空の中だ。


「わあ!」


 歓喜の声が漏れる。常識だったらあり得ない体験に、目を輝かせる。手足を大の字に広げ、通り過ぎていく大気の感触を全身で味わう。


 不思議と恐怖はなかった。落下はむしろ緩やかで、だがなにかに引き寄せられているという感覚がある。視界は、これまで昇ったどんな建物からの景観よりも広く、彼方に緩やかに湾曲した青と青の境目が見える。あれは水平線だ。ならば自分が引き寄せられていく先は、いったい。答えは下ろした目線の先にあった。


 陸地が見える。小さな大陸と呼ぶべきだろうか。やや縦に長いひし形をしており、瑞々しく緑に覆われた大地を貫くように、北の端にそそり立つ山岳地帯から、白く輝く山稜が大陸の中ほどまで伸びている。地表が近づくにつれて、確かに人が暮らしている気配を感じ取れるようになる。中央部にある山稜の終端や、東部には大きな都市が、西の海岸線に輝いて見えるのは港だろうか。


「これがバックランド……私の冒険の舞台!」


 口に出すと、今まさに異世界に飛び込んでいこうとしているという実感が、ますます力強く湧き上がってくる。最初に向かうのはどこだろう。中央の街か、それとも西の港だろうか。なにか不吉な黒い影のようなものが広がる東の街は、できれば避けたい。


 そのうちに大陸は徐々に視界の上へとずれていく。南に引き寄せられているのだ。厚く重苦しい灰色の雲に覆われ、様相の判然としない大陸の南部へ。果たしてこの雲の下には、なにが待ち受けているというのだろう。


 息を呑んだ途端、あやのの身体は雲に包まれ、視界が再び奪われる。向かい風を感じなくなり、落ちているのか、あるいは再び上空へ巻き上げられているのかもわからない。そして頼りない浮遊感は、唐突に終わりを告げた。


 最初に取り戻したのは、地面に立っている感触だ。荒い砂利を踏む感覚が靴の裏から伝わってくる。先ほどまでとは違う冷ややかな空気が頬を撫で、土の匂いが鼻腔を満たした。流れゆく大気の音色は、どこか遠くでざわざわと鳴る葉擦れの音に代わった。目の前に広がっているのは、書棚に囲まれた書庫でもなければ、空の中で迫りくる大陸の景色でもない。周囲に立ち並ぶのは、古びた石造りの建物だ。どこか見知らぬ街の通りに、あやのは立っているのだった。


「こ、ここは……?」


 厚い雲に覆われた空模様の下で、街は昼間だというのに薄暗く感じられる。にもかかわらず、周囲の建物の窓には明かりのひとつも見られず、瓦屋根の上に立ち天を指す煙突たちも、固く口を閉ざしている。壊れかけた鎧戸が、きい、と風に軋む。足下は、繰り返し踏み均されて擦り減った石畳で、ところどころ隙間から雑草が顔を出している。


 どうやらそこは、人がいなくなって久しい廃墟の街のようだった。あやのの立つ通りは、前後に貫くように真っ直ぐ伸びており、正面の奥には広場が見える。更にその向こうには背の高い教会か、あるいは大聖堂のような建物が控えていたが、どれも長年放置されたままに見えるのは変わらない。


 想像していたよりもずっとうらぶれた風景に、目を瞬かせる。碧い葉の繁る神秘の森や、足下に魔法陣の描かれた荘厳な儀式の間。思い描いていた異世界の入り口とはかけ離れた景色に、呆然と立ち尽くす。詳しいことはたどり着いた先で、と言われたが、話を聞けそうな相手などどこにもいない。


「あの、古湊先輩、私これからどうすれば……」


 思わず訪ねながら振り返っても、そこに人影はない。


「あれ? 古湊先輩?」


 いくら見回しても、つい先ほどまで一緒にいたはずの辰巳の姿は見つからない。


 そうだった。辰巳はこの物語を司る存在であり、第四の壁の向こう側にいる人間だ。物語の登場人物と同じ空間にいられるはずがない。辰巳はあやのをバックランドと呼んだ異世界に送り込みはしたが、それ以上直接干渉することは出来ないのだ。それはこの見ず知らずの空間に、文字通りひとり投げ出されたことを意味していた。


「え、じゃ、じゃあ私、これからどうしたらいいんですか……!」


 これではただの迷子も同然だ。肩を落としかけ、あやのは勢いよく頭を振った。気を落としている場合ではない。きっとどこかに、物語への道標があるはずだ。そうでなければ困ってしまう。


「よし、まずは建物の中を調べて……ッ」


 背筋が粟立った。気配だとか、息遣いだとか、そんなものよりも真っ先にあやのを襲ったのは、理由の分からないはっきりとした嫌悪感だ。臭気を浴びたような忌避感。触れてはいけないものに触れてしまった、拒絶感。


 弾かれるように振り返った先に、彼らはいた。


 真っ先に目に入ったのは、黒い影だった。あやのよりもずっと大きな影が、道の先に佇んでいる。影としか識別できなかったそれは、目を凝らせば馬に跨った人影のように見えた。


 蹄の先からぴんと立った耳まで、全身つやのある黒い毛で覆われた黒馬は、黒鉄の重々しい馬鎧に身を包み、馬面の中に赤い瞳を光らせている。


 乗り手は、さらに堅牢な甲冑を着込んでいる。鐙にかけた脚も手綱を握る手も、黒檀色の金属板を張り合わせたような厳めしい鎧に覆われ、バイザーを下ろした兜の下の表情は窺い知れない。襟元から背に流れる襤褸切れのような外套が、輪郭をさらに大きなものに見せている。


「黒い、騎士……?」


 さらに馬の足下には、二匹の奇妙な獣がいる。あやのには、その獣たちをなんと呼ぶべきかわからなかった。泥と油を混ぜた汚れた色をした体毛。ひび割れた石畳を踏みしめる太い四つ脚。耳は尖って威圧的に天を指し、口からは反り返った二本の牙が突き出している。体躯はあやのよりずっと大きい。目を赤く血走らせた顔立ちは犬とも猫ともつかず、強いて言うならばハイエナに似ているだろうか。


 騎士と獣たちには、ひとつの共通点があった。全身に纏わりつく、黒ずみのような靄。その根は黴のように彼らの身体に芯まで深く食い込んでいる。疑念や困惑よりも先に直感した。それが酷い嫌悪感の正体だ。悪意と憎悪の坩堝。この世界の正しい在り方を嘲弄する汚濁。命の有り様を蝕む災厄、大地を穢し、草木を歪ませ、心を狂わせる呪詛。


「え、えっと、この街の人……じゃ、ありませんよね」


 口の端を引きつらせながら、思わず解り切ったこと口にしてしまう。あんな呪いを身に纏っているものが、まともな人間であるはずがない。


 獣が身を屈め、唸り声を上げる。指示を待つ猟犬のように。


 考えるよりも早く、恐怖が身体を弾き飛ばした。あやのは騎士たちに背を向け、一目散に走り出す。背後から重く地を蹴る音が二つ聞こえた。


「こ、こんなの急展開にもほどがあります!」


 虚空に悪態をつきながら、脳が回せ回せと脚を急かす。心臓が暴れるように脈を打って突き動かす。拍車をかけられた足が必死で地面を蹴る。そして、獣の足音はそれよりもずっと速く、息が上がるよりも早く背中のすぐ後ろに生暖かい吐息を感じた。


「きゃっ!」


 通りを走り抜け、足をもつれさせながら広場に駆け込み、涸れた噴水の縁を乗り越えようとして、あやのは転んだ。


 乾いた砂粒に擦りつけられた顔のすぐ上を、二つの影が勢い余って飛び越していく。慌てて起き上がり、たった今踏み越えた縁に手をかける。ダメだ。黒い騎士は戻る道を塞ぐように、広場の入り口に乗り付けていた。


 あやのは喉を詰まらせながら縁を跨ぎ、噴水を迂回するように走る。大聖堂らしき建物を目指して。獣が噴水を飛び出してくる。聖堂の石段に足をかける。足音がすぐ背後に聞こえる。


 あやのは戸口に駆け込み、振り返って両手で扉を閉め、すぐに襲ってくるだろう衝撃に堪えようと目を瞑って踏ん張った。だが。


「……あれ?」


 どれほど身構えても、扉を破ろうとする衝撃は訪れなかった。足音も息遣いも、あの身を振るわせるような嫌悪感も、扉の向こうには感じられない。扉に爪を立てるどころか、まるでこの建物には近づこうともしていないかのように。


「や、やっぱり邪悪な存在は入れない、とかですかね」


 ほう、と息を吐き、扉に背をもたれてずり落ちるように座り込む。


「きゃあ……!」


 そしてまた、身を竦ませた。


 まず目に入ったのは、赤銅色だ。ごつごつとした岩のような硬質さと、長い時の果てに風雨に磨かれた鈍い光沢を持つ大小の鱗が、歪に並びそのものの体表を覆っている。腹側を守るのは、対照的に瓦のように規則正しく並んだくすんだ乳白色の鱗であり、その下には隆々と膨れ上がった筋肉質な肉体が息づいている。太く力強い翼指の間に張った飛膜を持つ一対の翼は、ただでさえ巨大な身体をいっそう大きく見せる。投げ出された四肢は太く鋭い鉤爪を備え、振り下ろされれば牡牛でさえ容易く叩き潰せよう。樹齢を重ねた巨木を思わせる太い首。その先に続く頭から生えている螺旋状の二本の角。牙の覗く口が開けば、人間を食いちぎることはおろか、ひと呑みにすることさえ造作もなさそうだ。そのものは、力の象徴であった。見えるものに暴虐と、英知と、あるいは富を授けるもの。絶対的な強者。


 建物の中は、外観に違わぬ大聖堂だった。かつてはそうであった。足下は大理石の石畳で、半ば朽ちた木製の長椅子がいくつも並んでいる。壁や柱はあちこち崩れ落ち、穴の開いた天井から濃灰色の曇天が顔を覗かせている。


 その最奥に、巨大な影が横たわっている。いまや半壊した大聖堂の奥にいるのは、磔刑にされた神の子の像でも、慈愛の笑みを浮かべた聖母の像でもない。


 長い首と尾、四肢と翼を持つ生き物、そのように見えた。とても入り口をくぐることなど叶わない巨体が、建物の半分を押しつぶして身を横たえている。


「ド、ドラゴン……」


 あまりにも大きな赤い竜が、そこにいた。

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