第19話
「うわあ……」
書棚の密林が、そこにあった。
視界の端から端まで、上から下までが、分厚い書物がずらりと詰まった書棚で埋め尽くされている。目の前のフロアには、梯子を使わなければ最上段まで手の届かない書棚が垣根仕立てのように並び、あちこちにある階段が上階へと続いている。吹き抜けから見える二階やさらに上の階にも、膨大な数の書棚があるようだ。呆れることに、書棚そのものが階段になっているところもある。これまであやのが訪れたどんな図書館も、リンデンの図書館の蔵書量に追いつくことは出来ないだろう。なによりも奇異なことに館内の面積は、明らかに外から見た建物の大きさを凌駕してしまっている。
楽園だ。窓のひとつもないのに不思議と明るい館内の光景に、そんな言葉が真っ先にあやのの脳裏に浮かんだ。
「す、すごいです。こんな図書館、私今まで見たことありません!」
「この知の宝庫たる図書館こそ、リンデンが学術都市の名をほしいままにする由縁ってわけさ」
ヘリオスフィアの誇らしげな言葉もそこそこに、あやのは吸い寄せられるように本棚に近づき、おもむろにその中の一冊を取り出して開く。すぐに深々と肩を落とした。
「読めません……」
「なんだって? バックランドの文字が読めないのか君は! それは残念だな、アヤノが好きそうな英雄たちの物語も、ごまんと取り揃えられているっていうのに」
意地の悪い吟遊詩人の笑顔を睨みながら本を戻し、改めて図書館に目線を走らせる。とにかく広い。渡り廊下や階段で入り組んだ館内に、気の遠くなるほどの蔵書がひしめいている。
「それで、紫水晶の書はどこにあるんでしょうか」
「さあな」
「さあな……って」
あんまりに投げやりな返事に振り返ると、ヘリオスフィアは苦い顔で後頭部を掻きながら館内を見回している。ふざけやからかいの色はない。
「言っただろう。紫水晶の書はリンデンの大秘宝だ。俺にその在処なんて、わかるはずがない。いや、それどころか、この広大で入り組んだ図書館は、全容を把握している人間さえいやしなかった。大学院に通っていた誰一人としてね」
「でもそれじゃあ」
愕然として館内を見る。視界の上から下まで、右から左まで、すべてが書架で埋まっている。フロアの奥、吹き抜けの上、階段の下まで、見えない範囲にも図書館は続いている。どれだけ目を凝らしたところで、その全貌など窺い知れるはずがない。
「どうやってここから紫水晶の書を探すんですか? せめてなにか手掛かりになるような……表に出せないような、禁書を収めた書庫の場所なんかは?」
「さあな。強いて言えば、魔導書に触れたのは魔法学科の人間だけだったが、彼らの間でも、紫水晶の書の在処は議論の的だった。書を探し出そうとして、一週間図書館を探索し続けた奴すらいたって話だ」
ヘリオスフィアの口からは、ますます絶望的な情報ばかりが語られる。
「それでも見つからなかったものを、どうやって探せばいいんですか」
「だから問題なんだ。紫水晶の書の在処を知っているのなんて、エルケンバント自身か……そうでなければ、司書のじいさんは知ってたかもしれないな。ここの蔵書はすべて把握してたってもっぱらの噂だった」
「呼んだかね?」
不意に聞こえた三人目の声に、目を瞠り、弾かれたように振り返る。見知らぬ老人が、そこにいた。しわくちゃの顔に、長い白髪と半ば同化した髭を垂らし、簡素なローブに身を纏った男だ。出で立ちから伺える年齢にそぐわず、背筋はしゃんと伸び、身の丈はヘリオスフィアよりも頭一つ分ほども高い。
なんの気配も感じなかった。幻のように現れた老人は、だが確実に実体を持ってそこにいる。
驚愕に顔を引きつらせながら振り向いていたヘリオスフィアの目が、別の驚きに見開かれた。
「あ、あんた、司書のじいさん!」
「この人がですか?」
思わずしげしげと老人を見つめてしまう。彼がこの図書館の蔵書管理を任されているという司書なのか。だとしても、どうしてここに? リンデンの街は虚ろの呪いに沈んで久しい。街の惨状は、その只中を駆け抜けて目の当たりにしてきた。外部との行き来も出来ない図書館では、いくら魔物が侵入してこなかったとしても生き長らえることは出来そうにもないというのに。どこかに食糧庫でもあるのだろうか。
「わしに飲み食いは必要ないんだよ、お嬢さん」
はっとして見上げれば、司書は可笑しそうに微笑んでいた。
「どうして」
「考えていることが分かったのかって? お前さんの表情を隠せない性格のおかげだよ。なんで飲み食いが必要ないのかという意味なら、わしはこの図書館と契約しているからでな」
「契約、ですか?」
司書は二人の間を通り抜け、書架の間を進んで行く。あやのとヘリオスフィアは顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
「見なさい。この世界にはこれだけの数の書物が存在している。一生かかっても読み切れない量だ。それも、抜かりなくすべてが揃っているわけではないというのにも関わらず。読書好きにとっては嬉しい悲鳴ではないかね?」
「わ、わかります! 図書館で棚一杯の本を見ると、すごくわくわくします! ここにあるだけ、誰かの書き残したかった知識や物語があって、私たちはその一端に触れられるんだって思うと、いてもたってもいられなくなります!」
食い気味に何度も頷くあやのに司書は、ほっほ、と笑う。ヘリオスフィアも後ろでひとつ頷いた。彼も詩人であり、学徒のひとりだ。書を愛する気持ちは同じだった。
「だからわしは決心したのよ。ここに収められている書物すべてを読み尽くすために、この身のすべてを捧げようと。生身の肉体を捨て、永遠にここの蔵書の管理を手掛ける代わりに、わしは魂そのものをこの図書館と結びつけたのだ。肉体の枷から解き放たれ、この大地が海の底に沈むその時まで、本を読み続けられるように」
すごい、羨ましい。そんな風になれたなら、なにひとつ気にすることなく読書に没頭できるのだ。空腹や眠気や疲れ、時間にさえ追われることなく、物語の世界を旅し続けられるのだ。
口うるさい親友に叱られることもなく。
今は思い出したくない顔が過り、みぞおちがきゅっと痛んだ。
「どうりで」ヘリオスフィアが呆れたように呟く。「俺の先輩も、そのまた先輩も、みんな口を揃えて、ここの司書はあんたしか知らないって話していたわけだ」
「言われてみれば、もうどれほどここの管理をしているかのう。ここしばらくはとんと来館者も絶えて、静かに読書に耽る時間ができたと思っておったのに」
「もしかしておじいさん、外でなにが起きているかご存じないんですか?」
まさか。あやの自身、読書に夢中になりすぎて周りが一切見えなくなる感覚はよく知っている。読書のために真っ当な生を捨てたこの老人ならば、それもあり得るかもしれない。
司書は片眉を上げて神妙な面持ちになる。
「もちろん知っておるよ。なにか不浄な呪いがリンデンを取り巻き、もはや正しき命を持つものは誰一人残っておらんと」
「ならどうして」
どうしてなにもしないんですか。この膨大な蔵書を管理し読み漁るあなたなら、なにか対抗する手立てもあるかもしれないのに。
あやのの言外の追及に、司書は静かに首を横に振った。
「なにも出来ないからだよ。わしは、この図書館に魂を結び付ける代わりに、読書と蔵書の管理以外のあらゆる行為を捨てたのだ」司書はわずかに俯いた。「わしは、この世界が終わるその時まで、ただ本を読み、書を管理する亡霊のようなものだ」
あやのにはそれ以上、なにも言い募ることは出来なかった。司書が手に入れたものは、言い換えれば永遠の命だ。代償に手放したのは、人間的な行動のすべて。死とどう違うのだろう。疑問を飲み込み、あやのは司書を見つめる。
「……私たちは、その呪いの正体を知るためにここに来たんです」
「ほう?」
「虚ろと呼ばれる呪いの正体を知り、バックランドから消し去るために。だからどうかお願いです、紫水晶の書を貸してください」
司書は立ち止まり、目を細める。見定めるような目線、重たい威圧が、あやのに向けて放たれる。息が詰まりそうだ。だがあやのは目を逸らさなかった。
「紫水晶の書はこの世界のあらゆる魔術、呪術、そして禁術を記した、極めて危険な魔導書よ。ひとたび開けば、求めるどんな知識でも手にすることができる。使い方を誤れば、バックランドを救うどころか、破滅を早めかねない代物だ。それをお前さんの手にゆだねろと?」
「はい。なにもしなければ、ただ緩やかに虚ろに飲み込まれていくだけです。それに、虚ろと戦うため以外に用いるつもりはありません。ですから、どうかお願いします」
深々と腰を折り、頭を下げる。後ろで見守っていたヘリオスフィアも、帽子を胸に当て、頭を下げた。ただそれ以外に、あやのに出来ることはない。バックランドを救いたいという想いを伝える以外には。
「誠意を見せろというのならばなんでもします。でも、バックランドに仇なすようなことは、決してしません。グロスラッハさんの竜騎士として、グロームデイン陛下の命を請けたものとして、誓います。すべてを終えたら、必ずここに返しに来ると」
「ほう、竜騎士! お前さんが、それもあの凶暴極まりないグロスラッハの! 奴の横暴っぷりの記録は、わしも読んだぞ。まさかあのグロスラッハに、お前さんのような娘っ子が認められるとはな。ましてや女王陛下の下命であれば、なるほど、お前さんにも紫水晶の書を手にする権利はあるかもしれんな」
「それじゃあ!」
だが司書は、心底面白そうに笑いながらも、首を横に振って閲覧机の椅子に腰を下ろす。
「とはいえ、わしも蔵書の管理を任された身。いかな竜騎士であれ、おいそれと手渡すわけにはいかん。あれは武ではなく、知によってこそ統べられる魔導書ゆえな。相応の知を持つものにしか、紫水晶の書を託すことは許されんのだ」
エルケンバルト自身、そうして魔法を究めた竜グルーグウェンを打ち負かしたのだという。だが間違ってもあやのは、あまねく知を修めた賢者でもなければ、有名国立大学を目指す、進学校の成績優秀者でもない。魔法を使うことはおろか、バックランドの文字を読むことすらできないのだ。
稀代の魔法使いに並ぶ知力。あまりにも望みの薄い条件に絶望するあやのに、司書はいたずらっぽく笑ってみせる。
「差し迫っているのだろう。バックランドの危機を救うのに必要だと。安心しなさい、正統な使命を帯びた竜騎士たるお前さんに、大魔法使いと同じ知識を要求しはせんよ。そうだな……お前さんはなかなかの読書好きと見える。だろう?」
「え、ええ。本を読むのは好きですが」
「ならばなにか一つ、わしの知らない物語を話してみなさい。物語には知識と学びが詰まっている。物語を識るものは、善きと悪しきを識るものだというのがわしの持論だ。どうだね、挑戦してみるか?」
迷うまでもなく、あやのは頷く。物語ならたくさん知っている。大好きな物語を並べるだけで、一晩だって語れる自信がある。
「やります! 本だったらたくさん読んできましたし、いくらでも話せます! どんな物語でもいいんですか?」
「毒にも薬にもならない小噺はいらんよ。胸を躍らせ、誰かの心を動かすような、そんな物語を聴かせてもらいたいものだ」
どの話がいいだろう。あやのは頭の中にこれまで読んできた本の表紙を思い浮かべながら、椅子に腰を下ろす。ファンタジーが好きでよかった。正真正銘のファンタジー世界の住民に話して聞かせるならば、やはり近い世界観を持つファンタジー作品がいいだろう。
だったら、真っ先に挙げるべき物語は決まっている。
「恐るべき魔王の力が籠った指輪を手にしてしまった、純朴な小人の冒険の話はご存じですか!」
あやのは心に浮かぶ原風景の物語を、誇らしささえ覚えながら突き付ける。
「もちろん知っているとも。誰もが知っている有名なおとぎ話じゃないか」
そして出鼻を挫かれた。
「あ、あれ? じゃあ、呪われた島を駆け巡る騎士と妖精のお話は」
「懐かしい話じゃないか。わしも一時期は夢中になって読み耽ったものよ」
「なら、えっと、魔物狩りを生業にする魔法剣士の話は? 自ら呼び出してしまった影に脅かされる魔法使いの話は? 豹の頭を持つ戦士たちの冒険の話は……」
「ふむ。いずれの話もこの図書館に収蔵されているよ。他になにか知っている物語はないのかな?」
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