第70話 責任②

 晴樹が舞と見せかけのお付き合いを始めた頃、慧はすぐにその変化を感じ取った。晴樹が時折見せる沈んだ表情は、見覚えのあるものだったからである。


 舞のわがままをはっきりNoと言えなかったあの頃の小夏と、晴樹はよく似ている。慧にはそんな風に感じられた。だから慧は、ふと晴樹に声を掛けてしまった。


『しんどそうだな』―そう慧が問うた時、晴樹の表情は、初めて声を掛けたときの小夏のものと重なった。ずっと暗闇に覆われていた世界に、突然一筋の光が通ったかのような、驚きと喜びに満ちた表情。


 そんな晴樹を見て、慧は今度こそと思った。中学の時、小夏を泣かせたその日から、慧の中でもやついていたもの。その答えをもう一度探そうと思い始めたのだった。


「中学の俺は、自分が正しいと思ったことを信じて疑わなかった。だからこそ、その思惑通りことが運ぶことを優先して、結果、小夏を泣かせることになった。だから、悩んでいるお前を見た時、また同じ轍は踏みたくないと思ったのは本当だと思う」


 他人に深入りしても良いことはない。小夏の一件以降、そんな結論に落ち着いていた慧は、とりあえず話を聞くだけにしようと思っていた。ため込んだストレスも、他人に聞いてもらえるだけで多少は軽減するものである。


 しかし、慧がどんなに愚痴を引き出そうとしても、晴樹は大丈夫の一点張りだった。建前の優しさを絶対に崩そうとはしない彼は、小夏以上だと思うほどにお人よしだと慧は思った。これ以上、受け身でいても特に意味はない。そう思った慧は次なる手段に出る。


 ―「お前が望むなら、俺は一つの可能性を提示する。お前が少しは楽になれるかもしれない方法を」


 その言葉に、晴樹はほんの少し動揺を見せた。助けを求めるその目は、誰がどう見ても大丈夫ではない。その目を見て、より深みに出そうになった自分を押し殺し、慧は続けて言った。


 ―「だが、俺はその方法をお前に押し付けるつもりはない。押し付けたくはない」


 自分が思う正論を押し付けるのではなく、選択肢を提示する。それが慧の次なる手だった。


 小夏と舞との関係を引き裂いたのは紛れもない自分であり、その結果、舞は小夏に未練を持ったままであること。その小夏が本当は復縁を望んでいるかもしれないこと。小夏が舞の元に戻れば、晴樹の抱える苦しみも少しは軽減できるかもしれないこと。それらの情報を与えた結果、晴樹は慧の考える方法とやらを聞きに来た。


 その結果、ウォークラリーでの小夏の足止めの役割は晴樹のものとなったのである。


「お前が乗ってこなければ、ウォークラリーでの小夏の足止めは、矢坂自身にさせるつもりだった。そういう意味では、俺はお前を利用する気はなかったんだと思う」


 慧はそう言うと、少し間をおいて続けた。


「だが、俺は結局、自分のためにお前を利用したのかもしれない。俺は多分、ずっと引っかかっていた過去をお前で払拭しようとしたんだ」


 結局、また同じことを繰り返してしまったのかもしれないと、慧は思う。現に、慧は良い結果を手に入れて、晴樹はつながりを一つ失った。


「そうだとしても、俺はお前を責めないよ」


「なぜだ」


「『俺は俺のために動く。だから、お前はお前のために動け』そう言ったのは、秋月だ。俺はそれを聞いた上で、自分で動くことを決めた。そして、その結果、俺は前に進めたんだ」


 はっとしたように、慧が晴樹に顔を向けると、晴樹は微笑んで言った。


「俺はいつの間にか、言いなりにしかなれない自分を、それが自分の優しさだって言い聞かせるようになってた。でも、日向たちとの一件があって、彼女が本音でぶつかるのを見て、俺も自分の本音に素直になれたんだ。その結果が、今の状況だよ」


 晴樹は、舞とは仮のお付き合いをやめただけであって、友達をやめたわけではないという。合宿での一件以来、舞も自身の行動を顧みているようで、彼女とはより良い関係を築けていると晴樹は言った。


「結果として、みんな良い方向に進めたんじゃないかと俺は思ってるよ。まあ、そんな結果が得られたのは、ほとんど日向のおかげだろうけど」


 慧は少しの間ぼんやりしていたが、すぐに肩の荷が下りたようにふっと笑った。


「お前は、俺が思っていたよりずっと前を歩いていたらしいな」


 慧が思っていた以上に、晴樹は自分自身の選択に責任を持っていて、その結果、彼の中で会得していたものもあったらしい。慧は、彼の踏み出す一歩を誘ったにすぎない。晴樹はもう、手を貸した慧の元を離れて、自分の道を歩いている。


 納得した慧を見て、晴樹はそういえば、と話し始める。


「前からうすうす感じてたけど、秋月って意外と人間らしいよな」


「どういう意味だ」


「意外と笑う。それに他人に興味ないように見えて、実は他人のために動いたり、思い悩んだりする。でも、それを自分のためだって言い張るところは秋月っぽいけど、それも含めて、実は案外不器用な奴なのかもなって」


「…………」


「そう思ったら、結構親しみを覚えてきたんだ。あ、そうだ。慧って呼んでもいい?」


 晴樹は何だか楽しそうだった。その瞳は飼い主におねだりをする大型犬のもののようで、やけにキラキラしている。慧は、一瞬考えるそぶりをした後、何事もなかったかのように、くるりと後ろを向いた。


「戻るぞ。頼まれた飲み物はもう買い終えた」


「あ、待てよ。慧!」


 足早に体育館に戻る慧の後を、晴樹が追う。二人を包む空気は、行くときの緊張を帯びたものとは打って変わって、柔らかいものになっていた。

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