年末が開く時

朝吹

年末が開く時

 ヘミングウェイは靴下すら買いに行くのが恥ずかしくて通信販売に頼りきりだったそうだ。この一年で俺もすっかり通販に詳しくなった。

 お散歩日和だった。思い切って外に出た。散歩日和というと晴れている日を指すのだろうが、俺にとっては気象庁から注意報が出るような悪天候でひとけがない日のことだ。

 底冷えの街に耳を切るような冷たい夕風が吹いている。もうすぐ新年だ。

 お正月が楽しかったのはいつまでだっただろう。お年玉を並べてどのゲームを買おうかと頭を悩ませていたのは。


 歩いてきた俺の姿を見て白いバンから人が降りてきた。一年経ちましたが今のお気持ちは。訊かれることまで想像がつく。

 バンの横をすり抜けて俺は走り出した。若い女のレポーターと、カメラを構えている男が慌てて追ってくる。高校大学はラグビー部だった。俺はあの頃、野生児のように競技場を駆けていた。今だってこの街を同じように駆けることが出来るはずだ。もううんざりだ。

 散髪にも長いあいだ行けてない。風になびくライオンのようなたてがみをイメージしていたが、年末年始の挨拶を貼り付けた硝子窓に映る俺の髪はそんな恰好いいものではなく、ラーメンから丼ぶりを除いたようだった。

「待って下さい」

 若い女のレポーターが俺の名を呼びながら追いかけてくる。俺の名を大声で呼ぶな。

 想像してみろよバカ女。「今のお気持ちを」そう詰め寄りながら、お前を同じように追いかけ回してやろうか。

 女は脚が速かった。振り返ったらまだ後ろにいた。俺のコメントなんか適当に代弁しとけ。

 冤罪を着せられて対人恐怖症になって心療内科に通って仕事を失った三十路の独身男の気持ちを想像するのは難しくないはずだ。人生終わった。七文字で足りる。



 仕事納めをした埠頭はこの世の果てといった趣きだ。

 途中で幹線道路の信号があったのが災いした。その間に距離を詰められてしまった。

「陸上部だったので」

 俺を臨海に追い詰めたテレビ局の女はぜえぜえ息を切らしていたが、その言葉には嘘はないようで、けろっとしていた。

「俺の気持ちだろ。云ってやるよ。今後このようなことがないように祈ります」

 もうやけくそだった。

「可哀そうでしたね、気の毒でしたね、わたしは酷い目に遭いましたが、きっとあなた方を責めてはいけないのでしょうね。なぜなら可哀そうなのは可愛い子どもを殺されたご遺族であって、犯人に間違えられたことくらい、ただの不運な勘違いで済む話でしょうから」

 迸るように一気に云った。

 口にしながら深海よりも深く落ち込んだ。我ながら女に当たり散らしているようにしか聴こえない。


 日当たりがいいせいか、埠頭のコンクリートの隙間に季節外れのたんぽぽが咲いている。たんぽぽって英語でダンデライオンって云うんですよ~とか云いそうこの女。ぶっとばしたくなるから云うなよ。今の俺には余裕がない。

 若い女はしゃがみ込んで鞄の中を漁っていた。無造作に地面に置いているが、エルメスだ。テレビ局に入社するだけあって美人だった。

 プロ野球かサッカーの選手または電通の男もしくは芸能人と結婚して、一億超えの都内のマンションを一括払いで買って、優雅な生活を送るんだろうね。

「頼まれてこれを渡しに来たんです」

 放送局の女は、角2の封筒を取り出した。

「場所は長野です。諏訪湖のあたり」

 バンが埠頭に停まって、女の名が呼ばれた。置いてきぼりにされたカメラマンが車から降りて女を呼んでいる。女はそちらに向けて手を振った。

「大変な一年でしたね。よいお年を」

 道成寺の清姫も真っ青な全力疾走で男を追いかけてきたわりに最後だけは礼儀ただしく、さらさらの髪を揺らして女は深くお辞儀をすると、放送局のバンで去って行った。


 封筒を開けた。中身は説明会でもらうような会社概要のパンフだった。それと達筆の手紙。そこには事件の遺族からの、俺への詫びが書かれてあった。友人の会社だという。


『あなたは一度も私どもを責めることはなさいませんでした。』


 機会がなかっただけだ。俺は殺到したマスコミと犯人扱いする世間の白い眼に精神をやられていて、そこまで頭が回らなかっただけだ。目撃者の似顔絵と、一緒にいた子供たちが証言した「おじさんの名前」が偶然にも俺と同じだったのだ。

 死んだ子と面識はない。

 近くに住んでいたが見かけた覚えもない。似顔絵は確かに俺にしか見えなかった。

 事件のことなんかまるで尾を引いていないふりをして振舞うと、偽物の仮面が顔に貼り付くような気がして、人に会うことも、外に出ることも出来ない一年だった。

 久しぶりに全力で走った。冷たいはずの夕方の風がもう冷たくない。

 今日まで自分のことばかりだったが、はじめて殺された子どものことが可哀そうになった。俺は少し泣いた。事件はちょうどこの時期だった。

 君にはもう正月が来ないんだな。

 一度は海に投げ込もうかと想った再就職先の封筒を抱え、対岸の灯りを眺めながら俺は埠頭に立っていた。



[了]


 


 

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年末が開く時 朝吹 @asabuki

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