隣人

平常心(たいら の つねみ)

ある3月25日の風景

 朝というのは必ずしも清々しいものではなく、少なくともここ最近の朝は頭痛と気怠さを孕んで一日の始まりとなす場合が多い。

 今日も鳩の鳴き声がやたらうるさく特に不快である。窓の外を見れば、お隣の庭には綺麗な百合が咲いている。見上げるとなぜか彗星が浮かんでいた。

 狭い部屋にくぐもった音でも響かせて目を覚ましてやろうと、テレビをつける。だがやっているのは相変わらず老人と児童向けの内容だ。今流行りの手芸がどうとか、昨晩何とか彗星が接近したとか、どれも健やかな若人たる私の興味から外れたものばかりで大変つまらない。


 パンをトースターにぶち込み、朝食が出来るのを待っていると、「ピンポーン!」とチャイムが鳴った。寝ぼけて所々ぶつけながらも玄関に向かい、力なく扉を開けると、そこには隣家の娘が立っていた。

 こわばった表情筋をなるたけほぐして「何用かい?」と促すと、彼女は優しい顔をして言った。


「たっちゃん。私、出来ちゃったみたい」


 そしておなかを擦る彼女は照れ笑いをしながらも少し、嬉しそうである。こちらはパジャマのまま静止してしまった。それは寝起きの私を覚醒させるのに十分な迫力の言葉だった。のみならず、貧乏学生の私にとっては大変重い言葉だ。極めつけに、彼女はまだ中学一年生である。

 こちらに笑顔を向ける彼女だが、私にはその視線がサーベルのように真っ直ぐに突き刺さって来た。

 今でさえ食い繋ぐのに必死なのに、中学生を孕ませたとなれば社会的に生存ができなくなってしまう。

 私は自分の軽率さからくる人生最大の過ちを悔いた。今日は大学へ行って本屋街でも見て回ろうかと思っていたが、こうなれば予定を変更して川かダムに身を任せることにしよう。幸い遺書は常に最新の状態にして机の中にしまってある。私はこれまでなるべく人とかかわらずに生きてきたから、今になってまだ幼い隣家の娘を子供もろともに養う自信はない。


 ないのだが。

 

 そもそも、いつどのタイミングで子供ができたのだろうか。

 彼女の勢いに流されるがままに不安を募らせていたが、考えてみれば私は昔も今も童貞だった。


 先月も童貞だったし、先週も童貞だったし、昨日も童貞、もちろん今日も童貞だ。


 いや、童貞ではないのか? もしかしたら、強烈な体験の衝撃から脳が記憶を凍結し、私は童貞だと思い込んでいるだけなのかもしれない。

 彼女はすぐ隣に住んでいるし、ずっと仲は良かった。だが、特に触れ合うこともなければ、最近は登校前にあいさつをする程度だったはずだ。もしかしたら、私は彼女の言葉についてなにか勘違いをしているだけなのかもしれない。

 

 そうだ。彼女はただ、「出来ちゃった」と言っているだけではないか。

 それは例えば、昨日までできなかったことができるようになったという意味かもしれない。おなかを擦っていたのは、きっと逆上がりができるようになったとかではないか。あれは棒をくるりと回転する時にやたらお腹がこすれて、やりすぎるとお腹が痛くなるものだ。年齢的にもまだ中学生なんだし、逆上がりができるようになったにしては少し遅いが、その方が説明が付くじゃないか。これははっきり訊いた方がいい。


「何ができたの?」

「赤ちゃんだよ」


 やっぱり私はやってしまったらしい。

 逆上がりであってほしかった。こういう場合は何かの思い過ごしで、「なーんだ、そんなことだったのかー」とオチが付くものだと思っていたばかりに、終わらずに続けられるといよいよ現実として受け止めなければならなくなってきた。彼女ははっきりと赤ちゃんができたと言っているのだからこれはしょうがない。


 まだ大学生の暇人をやっているこの私が「パパ」と呼ばれるようになるのか。私がまさか、「パパ」になるのか。

 「ママ」は、隣の中学生とはいえ、こんなに可愛い子だ。こんな子を私は「ママ」と呼ぶことが許されるのか。

 いやいやいや、いくら何でも中学生の子を「ママ」と呼び、自分を「パパ」と呼ばせるのは世間体的によくない。私がただただ幸福なだけだ。

 とはいえ、なかなか未来の絵図が思い浮かばない。私は大学を辞めてすぐに働くことになるのだろうか。この子はどうするんだ。学校をやめるのか? いや、中学生までは義務教育だし、行くことにはなるのか。未来絵図の中の私たちの子は、私が仕事から帰ってくると、「お帰りパパ」と温かく迎えてくれる。そして彼女も「あらおかえりパパ、晩御飯出来てるよ」と言ってくれる。


「私がパパになるのか……」


 噛みしめるように言う。すると彼女は返す。


「うん? たっちゃんはパパにはならないよ?」


 ……私がパパじゃなかったらしい。

 じゃあ何で私のところに知らせに来たんだ。将来の壮大な不安が一気にパアだ。この子にパパと呼ばせるあの気持ち悪い妄想をする意味は何もなかったじゃないか! 

 普通に仲のいい友達として私に知らせたのだろう。そりゃそうだ私サイドの記憶がまるでないのだから。今日一日も童貞記録を更新中、向かうところ敵なし状態で虚勢を張るだけが生きがいだ。

 ……ちょっと待て。ということは、こんなあどけない子とまぐわった誰かがいるということか? 誰だそのズボンのヒモの緩い奴は。学校のやつか? そんなの私は認めないぞ、すぐにとっちめてやる。

 そういえば奥に釘バットを隠してあったな。あれを出しておこう、と脳内で計画を高速で練っていると、


「パパはいないよ」


 彼女はそう付け足した。その上で、こうも続けた。


「なんかね、大きな黄色い帽子のお兄ちゃんガブリエルがさっきやってきて、『君に素晴らしい子供が生まれるよ!』って言って、プレゼントに百合くれたの」


 文言だけ聞けばただの不審者である。

 その兄ちゃんが医者か何かだとして、わざわざ人の家にきてそんなことを言うとしても不審者だし、百合の花を渡すのも一層不審者である。もしかしたらその百合は爆弾の可能性だってある。

 でも聞く限り、彼女はやっぱり子供ができたと思い込んでいるだけみたいだ。まだそんな歳でもないが、想像妊娠というやつをしているということか。人づてにこんな話を聞いただけで自分に赤ちゃんができたと思い込んでいるのなら、やはり彼女もまだまだ子供だ。中学生ともなれば、子供の作り方は流石に知っておくべき知識だろう。私は年長者として、なるべく直接的な表現を避けて教えてやることにした。


「でも君、子供ってどうやってできるか知ってるのかい? 単にキスしただけだったり、人に言われたからと言って、出来るものではないんだよ。女性と男性の体の違いというのは、まず女性は穴が一つ多いだろう。それに対して、男性は突き出た部分が一つ多いんだ。上手いこと突き出たところに穴の部分を当てる。つまり輪投げをする必要があるんだよ」

「わなげをすればできるの? よくわからない」

「ちょっと、例え方が悪かったね。要するにせっくるすれば出来るということだよ」

「うーん。わかんないや」

「つまり棒っこがあってだね……」


 私の対人スキルではどうにもならず、元も子もなくなってしまった。


 要らぬところで悪戦苦闘するうちに、ふと視界の奥の方から三人のおじさん三賢者がこちらへ歩いてきているのが見えた。よく見るとそれぞれ何か袋を持っているみたいだ。中が透けて薄っすら浮かぶ色は、白と茶色っぽい色と、そしてキラキラ輝く金色か?

 怪しい。もしかして硫黄と硝石とかで、火薬でも作ろうとしている街の荒くれものだろうか。そして何でこちらに向かって来ている? よくわからないが、雰囲気がどこか私と相容れない気がした。

「たっちゃん? 突然黙ってどうしたの?」

「……いや、別に。子供の作り方は部屋で教えるよ、入って!」

「きゃあ」

 彼女を部屋に引きずり込み、物々しいおじさん達から隠れることにした。ドアに厳重に鍵を掛けて、一息つく。これでドアを爆破されない限りは入ってこられないはずだ。

 若干無理やり部屋に連れ込んでしまったことについて謝ろうと彼女に向き合うと、彼女の変化に気づいた。


真利亜まりあちゃん、君いつの間に黄色い帽子を被ってたんだ……?」

「黄色い帽子?」


 彼女は頭の上に手を伸ばすが、それには届かない。

 

 いや、あれは帽子じゃない。

 あれは……




『ピピピピピピピピピピピピピピピピぴぴぴぴぴっ!』

「はっ!」




 私は目覚ましの音で飛び起きた。息が上がって心拍が激しい。今朝も頭痛と気怠さが一層強いみたいだ。これを清々しい朝と呼べるだろうか。そんな朝は経験したことがない。ベッドから起き上がるのにも大変な気力を要した。のそのそと小さな歩幅で狭いリビングに向って歩く。

 途中ふとカレンダーに目を遣り、日付を確認する。


「そうか、今日は3月25日か」


 世界にはたくさんの記念日があるから、きっと今日も何かの記念日なのだろう。貧乏学生の日常には特に記念すべきことはないので日常を過ごすだけなのだが。

 今日は大学の授業を三コマ受けた後に、本屋街にでも出かけてみようか。昨日も出かけて本を買ってはいるが、どうにも読みかけで次の本を求めて積読してしまう。昨日のキリスト教関連の物語も、読み止しのまま寝てしまった。どうも本がたまっていってしまうな。これはいけない。

 

 ふわぁっ、と大きなあくびをしたのち、部屋の端へとまた寝覚めのすり足で向かう。

 窓を開けると隣家の庭が見え、そこには百合が美しく咲いている。うるさく鳩が鳴いており、空には彗星ベツレヘムの星が浮かんでいた。

 

 おわり。

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隣人 平常心(たいら の つねみ) @utachi888

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