終、波よもし
目が覚めて、左慈は影海岩の穴から射し込む陽光に目眩がした。寝返りを打ち、頬に伝わった温もりと柔らかさに再び眠りに落ちかけたところで、冷たい掌が額を撫でた。
「よく、眠っていたね」
見上げると、ウシオが微笑を浮かべて艶やかな黒髪を潮風に靡かせていた。
「俺たちは」
左慈は体を起こしてあたりを見回した。二人は影海岩に座礁した舟の上にいて、少し遠くに朝日に照らされた誰もいない
「あの村には、もう戻れないの」
「そう、だな」
ウシオは言わずもがな、左慈だってもう追放されたようなものだ。今はとにかく、彼女と無事に日の光を拝むことができた幸運を噛みしめたかった。
「けれど、俺はずっとこの岩にいるわけには……」
舟で近隣の村にいけども、左慈を知る者だっているし、きっとすぐに噂が阿見村まで行き渡る。いっそ、もう少し遠くの港街まで足を伸ばせばよいか。考えあぐねていると、ウシオが日差しに白く輝く手を、左慈の膝の上に添えた。
「あなたはここを出たいのね」
「あっ、そうか……あんたは」
当然のようにウシオを連れて行くつもりであったが、彼女はこの近海から出ることはできるのだろうか。
「この辺りを離れることができないなら……沖江村あたりなら、知り合いはいなかったはずだし……。いや、でも、いっそ二人でどこかに隠れながら」
「左慈、大丈夫」
思案が止まらなくなった左慈の頬を撫で、ウシオは目を合わせてきた。睫毛の奥の彼女の両目が、陽の光を反射する波のように煌めいている。
「私は、何処迄もあなたの傍に」
「……ほんとうに」
「だから、あなたの望むところに」
腕に絡みついてしなだれかかる彼女の体温が、左慈の冷え切った体を温めた。
やがて二人を乗せた舟は、ゆったりと流れる風に乗って遠くへと漕ぎ出していった。
目が覚めて、左慈は目蓋の裏と同じく淀んだ暗闇に戸惑った。舟はいつの間にか浜辺に打ち上げられて、小さな白波が不規則に船首にぶつかって飛沫を上げている。曙の柔らかな日差しもきらめく波も心地よい風も感じられず、代わりに骨とはらわたを犯す痛みが襲いかかる。とても美しくて優しく、お粗末で浅ましい夢を見ていた気がした。左慈が頭痛と吐き気に顔を顰めつつ、ぎこちなく身を起こしかけた時、背後から走り寄る音が鼓膜に届く。振り返ろうとした矢先、背中に大きな何かがぶつかるとともに、一点が焼けるような激痛に襲われた。
「——さ、左介」
兄が、左慈の背を刺して赤く濡れた短刀を握りしめ、船に乗り上げてきた。背筋を熱いものが滴り落ちてゆく感触にぞっとするのも束の間、左介が慟哭にも似た叫びを上げて再び刃を振りかざした。左慈がとっさにそれを横に払うと、短刀はあっけなく跳ね飛ばされて波打ち際に消えた。短刀が易く手から離れてしまうほどに左介の指が震えていたことなど、左慈は知る由もなかった。
二人は小さな舟の上で揉み合いになったが、やがて左介が左慈に馬乗りになり、左慈の首を握り潰さんと手を伸ばした。
「お前のせいで!」
眉を釣り上げて歯を食いしばる左介の形相に慄きながらも、左慈は彼の手から逃れようと足掻いた。
「逃げ残った奴のためにも、お前を殺して俺も……!」
左介は、村の方から微かに届く燻んだ灯りを背負って、激情に唇を震わせた。
「お前さえ、お前さえ居なければこんなことにっ」
「……お前に、何が分かるんだよ!」
頭がかっと熱くなり、左慈は左介の手を押し除けた。力を振り絞った拍子に左慈の背中から夥しい血が溢れるのを感じたが、言葉が止めどなく吐き出されるのを抑えることはできなかった。
「俺みたいな奴が生きていて良い場所なんて……この村にも、あの家にもなかった!」
「お前っ……」
「俺が、居て良いところなんて、どこにもなかったじゃないか……!」
血と痰でしゃがれた左慈の吐露は、再び左介に舟底に叩きつけられた勢いで途絶えた。
「俺の……俺たちの心配を、恩をなんだと思って————」
「恩、なんて」
あったか、と口にする前に、左介の親指が左慈の喉を押しつぶした。
「祟り神に絆されやがった、薄情者の屑が。死んで償いやがれ……」
血が足りず、抵抗する腕に力がこもらない。
それでももがき伸ばした左慈の指の先、兄の背後に黒い影と、その奥で透き通った光を放つ浅瀬色の眼がちらついた。
「止めて」
刹那のうちに、冷たい、それでいて幽玄な女の声が左介を支配した。左介は左慈から手を離すと、瞬き一つせずに目を見開いたまま舟の上に立ち上がり、ウシオを振り返った。左慈もまた、朦朧とし始めた意識の中で、変わり果てた彼女の姿形に目を疑う。透けるような青白い四肢にはどす黒い影が蔓延り、艶やかだった黒髪はかつての新月の夜に見た時と同じ、海藻を思わせるおどろ髪と化していた。それでも、あの鮮烈な両のまなこは変わらず煌めいているのだった。
「似ていない」
短く浅い呼吸を繰り返して身を固まらせた左介に、ウシオはそう告げた。
「閉ざして」
彼女がそう願うと、左介の大柄な図体がぐらりと揺れて舟の外に倒れた。ウシオはちらりとその大きな屍を見たが、あっけなく視線を逸らした。そして舟の上で血を流し尽くした左慈の傍に寄り添い、血の気の引いた頭をその膝に横たえた。
「ウシオ……」
「うん。私だよ」
左慈は目の前が徐々に霞み、彼女の輪郭が赤い月の光の中にぼやけた。体の内はのたうちまわりたいほど辛いのに、皮膚は凍てついて何も感じなくなってゆく。
「俺……俺は、もう」
「左慈、大丈夫」
逆らうことのできない祈りが、左慈を安らぎの中に落とす。
そして、波が舟を運び出した。月を蝕んでいた錆色の闇が徐々に明かされ始める中、二人は少しずつ陸を離れて往く。
「私は、何時迄もあなたの傍に」
彼女の声が遠くなる。舟を揺らす細やかな波の音さえ厭わしく思い、左慈はウシオの腹に顔を埋めた。左慈の手を握る彼女の指が、痩せ細り軋んでいくのを感じる。こちらを見下ろす浅瀬色の宝石がぽとりと落ちるとともに、ぽっかりと虚ろな眼窩から枝が伸びゆく。彼女の囁きと柊木犀の甘い香りが左慈を包んだ。
「見えない……ウシオ」
「あなたが、彷徨わないよう」
「あんたの、顔が見たい……」
「罰お、受けて、も。この、すがあ、で、なくあっ、ても」
彼女の声が、葉擦れの音に紛れて聞こえない。ウシオの皮膚を影が覆い尽くし、髪の一つ一つが枝葉に変わりゆく頃、左慈は小枝と化した彼女の手を握り締めたまま、何も映さなくなったその目を閉じた。
眼窩と喉奥から伸びる枝に蕾がつくと、それは未だ赤みを帯びる月の光を浴びて、白い花を咲かせた。
やがて舟は、穴の空いた離れ岩に辿り着いた。
かつて彼女だった柊木犀の、か細い根が船底を割って岩に溜まった泥に触れる。月が再び白く輝きを取り戻す頃、男の唇から漏れる息が風の中に消え絶えた。木の根は男の体を覆い尽くして月光を背負い、ひとつ、またひとつと花を増やす。血臭と甘い薫香が混ざり合って芳しい。
凪いだ波風が枝葉を震わせると、白い花びらから夜露が零れ落ち、苗床となった男の骸を濡らした。
海罪の木 ニル @HerSun
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