二十八、影海様

 天に昇った月の様子がおかしいことに、阿見村の住民はすでに気付いていた。多くの者は、家に籠ることに不安を覚え、僅かに持ち合わせた松明やことぼしの灯りを頼りに広い通りで寄り集まっていた。彼らは、一体何事だと、次は何が起こるのかと互いに尋ね合っては頭上を仰ぎ、濁った晴天の異様さに身を震わせている。

 その騒動の外から、女が一人近づいていた。皆、夜の暗さと燻る恐怖で彼女の来訪に気づかなかった。彼女は松の雑木を抜けて村に足を踏み入れた。彼女を恐れ畏む人々の気配が渦巻いて、彼女を責め立てている。それでも彼女は、渇いた地面を踏む裸足が焼けるように痛むのも構わず、愚かにもひとつところに集まって不安を分かち合っている村人たちの只中へと向かった。


 まずは、端の方でひそひそと話している二組の夫婦が気づいた。彼らは数歩離れた闇に佇む彼女を見つけると、息を飲んで後退りをした。その驚きが周囲に移る。ある者は彼女に指を向け、ある者は叫び、またある者がそのまたある者へと彼女の訪れを知らせる。

「誰、いや、まさか」

「祭の!」

「かっ影海様……」

「なんだ、どうしたんだ」

「えっ何が起こってんだい!」

「向こうでなんかあったのか」

「ねえ、なんなの!」

 立ち尽くす者、跪く者、腰を抜かす者。彼女の姿を認めた者はその姿に恐れ慄き、一方でその瞳の鮮烈な輝きに逆らうことができずに、その場から動くことができなかった。

 彼女はそんな彼らを眺めても、かつて抱いた慈心が戻ることはなかった。あの人の安穏を脅かす全てが恨めしい。


「返して」


 その両眼に映る全ての者へ、そう願った。群れがしんと静まり、揺らめく炎すらも動きを止めたかに見えた。瞬きをするまもなく、誰かの喉がきゅ、と鳴った。

 声を上げる隙もなく、彼らの体から今宵の月光と似た色の飛沫が弾け散った。昼間のあの男と同じく、突如として血潮が逆巻きひっくり返った人々の影が、悶え苦しみ奇妙な形に歪みながら這い蹲る。大小も雌雄も様々なそれが動かなくなり、放られた灯りの火種のいくつかが、家屋に燃え移った。ぱち、ぱちと音を立てて少しずつ広がる火と、血に濡れた肉塊共の間を彼女は滔々と闊歩した。彼女を責める畏怖と哀願は、まだ残っている。


「影海様……」

 その声が、彼女を呼んだ。彼女は井戸の前に現れて、座り込む女を見下ろした。女の腕の中では、芥子坊の愛らしい童が彼女の浅瀬色の瞳に魅せられていた。女は童を隠すようにして、彼女に背を向けながら声を震わせていた。

「御慈悲を、どうか、どうかこの子だけは」

 彼女は幼気な黒い瞳と見つめ合った。彼女には到底願うことすら叶わない繁栄がそこに宿っている。彼女ではあの人に与えることはできない幸福が宿っている。彼女は傍の井戸を見遣った。あの人がここで生きられないのなら、眼前にある彼らの繁栄の象徴など、末々の幸福など何の価値もなかった。水底に沈む塵のひとつになればいい。

 彼女が何かを言うに及ばず、女は言葉なくふらりと立ち上がった。女は童を抱えて井戸まで歩み寄ると、なお彼女を見つめ続けるその子とともに井戸の底に身を投げた。徐々に燃え広がる家屋の明かりが、彼女の青白くしっとりしたうなじをじりじりと焦がした。

 次はどこかと見回した時、少し離れた家から物音がした。


「開けて」


 彼女が告げると、中から枯れ木を思わせる老婆が現れた。部屋の奥には、同じく年老いた男が咳をしながら布団から起き上がろうとしていた。二人は彼女を認めると、頭を低く低く伏せて、その上で掌を擦り合わせた。長い年月を経て確固たるものとなった老人たちの信仰が、海に戻れと彼女を揺さぶる。しかし、この懇願も畏怖も、今となっては彼女の心を満たさない。ただ煩くて、消えて仕舞えばいいと思った。そうして眺めているうちに出来上がった二体の老いた亡骸に背を向けて、彼女はまた残りを探した。

 誰かが惨状に気づき恐れ慄くと、そこに引き寄せられて彼女は姿を現した。そうやって一つ一つ、微塵も残さないように、彼女は幾年月の間手を取り合って築き上げた彼らの安寧を手折った。


 鏖殺には至っていないと気がついたのは、村の奥の一際大きな蔵のある家——村長の家であったが、彼女にはそんなことはどうでもよかった——に居た者らの屍に囲まれていた時であった。彼女が一歩ゆらりと踏み出せば、次の瞬間には和一の目の前に彼女は現れていた。

 和一は、村の広い通りの異変に気づき、ひとり表に出てくるところであった。背筋が凍る程に冷酷で美しい双眸が、錆色の月と少しずつ広がる炎を背にして和一を射抜く。和一はゆっくりと唾を飲み、恐怖に見開いていた目を釣り上げて彼女と対峙した。その顔立ちに、彼女は昼間息絶えた男を思い出した。

「か、影海様で、ございましょう」

「…………」

 彼女が一歩近づくと、一人は手に持っていた松明を手前に振りかざした。

「海に……海にお帰りくだせえ。左慈は持って行って構いやしません」

 述べられた名に、彼女の唇が引き結ばれた。和一は彼女を睨んだまま、火に濡れた松明の先を彼女にちらつかせた。

「お引き取りくだせえ。ここは人里だ。貴女様はどうか、奴と海にお帰りくだせえ。俺たちはもう、貴女様のことを————」


「喋るな」


 唱えると、和一の手から松明が落ちた。和一はそれに構うことなく、否、それに構う余裕はなく、自身の喉を引っ掻いた。海の底にでも沈んだように、喉が詰まって吸うことも吐くこともできない。

 彼女は、その場でふらつきつつもこちらを捉える瞳孔の開いた目を見つめ、そっと彼に近づいた。

「左慈を追い込んだのはお前たち」

「あ……かっ」

「左慈を苦しませたのはお前たち」

 和一は何か言いかけたが、声とすら呼べない掠れた喘ぎが飛び出すだけだ。

「先に奪おうとしたのは、お前たち」

 涙と涎を垂らして痙攣し始めた和一の、乞うような視線。あの人の孤独の一欠片だって掬わなかったのに、どうしてそんな顔ができるのだろう。


「もう、静かにしていて」


 沈黙した体の横を通り過ぎて、彼女は開けっ放しの戸からその家に入った。

 居間の奥には、まづと和一の妻がいた。まづは外の不気味なほの灯りを背負う彼女の影に身を震わせて、和一の妻と縮こまっていた。

「左慈は……左慈は、どこに……」

 その表情は、先ほど井戸に身を投げた女と同じだった。ああ、そうかと合点がいく。この女は、あの人の安寧を作ることができなかった、憐れで罪深い者だ。

「後生です、左慈を」

「渡さない」

 今になってこいねがっても、あの人の傷は癒えない。

 溺れるように息絶え足元に転がる女たちを見下ろして、彼女は閉じられた襖の向こうに目を遣った。


「来なさい」


 声をかけると、襖が開いた。中からは、体が動くのに抵抗しながら、ぎこちない足取りの少年が出てきた。少年はまづと和一の妻の倒れる様から目を逸らすと、泣き濡れた目を見開いてその場に跪いた。そして震えた指先を床につけ、深々と平伏する。

「左慈兄を、連れて行かないでください」

 一度面を上げて袂で鼻水や涙を拭った少年の顔には、あの人の面影があった。彼女は少年の顔が再び床に伏せられるのを、名残惜しそうに眺めていた。

「お願いします。俺の兄貴なんです。お願いします……」

 静まり返った部屋に、幼さの残る声と鼻を啜る音だけが響く。いっそのこと、命乞いが聞きたかった。


「ごめんなさい」


 彼女の謝罪とともに、少年の体から力が抜けてころんと倒れた。しんと静まり返った家屋の外から、いつのまにか広く行き渡った炎の影が彼女の背中でうごめいた。彼女は外に出て、ふと自身の体を見渡した。四肢の先から、黒い影が枝の生茂るように彼女を侵蝕し始めていた。罪が形を伴い這い寄っている。

 彼女は錆びた月を仰ぎ、赤く染まり沈黙した村を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る