二十七、ウシオ

 は元来、水面を目指し昇りゆく泡に宿っていた。或いは黎明の光に浮かび上がる青い世界に宿っていた。或いは月光揺らめく宵のさざなみに宿っていた。或いは、取り残された離れ岩の、ぽっかり空いた真中を吹き抜ける潮風に宿っていた。

 やがて彼らがやってきて、群れをなし、海を尊び共存し始めると、の宿る一つ一つに信仰を見いだした。彼らはじきに、この海が彼らに永く豊かさをもたらすようにと願い始め、穴の空いた孤独な岩に祈りを託した。幾星霜を経て祈りは折り重なり力を賜り、岩に名前がつく頃には、彼らの祈りがをひとつの存在たらしめた。


 いつしか彼らがそう望んだ時から、は「彼女」になった。

 彼女は、影海岩とともに彼らの願いの象徴であった。祈りと願いを寄せ集めて生まれた彼女は、彼らの願い——すなわち永い繁栄——を保つことで、海の理の中に在ることを赦された。彼女が願えば生命は輝き、海は美しく恵みに溢れ、彼らは栄え平穏を謳歌した。

 永劫、見返りのない恩寵を彼らに捧げるその役目に、彼女は一欠片の迷いもなく、彼らを慈しむことで彼女も満たされていた。彼らの安寧が彼女の存在理由であった。


 初めは、その人も延々繰り返される彼らの営みに紛れた、小さな願いの一つでしかなかった。その人は、年の瀬も近い凍てつく海岸に、まるで生き疲れ死場所を求めるようにやって来た。彼女は、この浜辺がその人の死で穢れてしまわないために祈りを捧げた。ただ、それが皆の安寧に繋がるからそう尽くした。

 それでもその人は居場所を求めるようにして、闇と潮の音の満ちる浜辺をたった一人で彷徨い続けた。彼女はその人の虚な目に、穴の開いた離れ岩と同じ孤高を感じた。

 幾許もせぬうちに、その人の渇いた心や寂寥を掬い上げようと、彼女に器がもたらされた。


 その人が望んだ時から、彼女はウシオとなった。

 この器も声も願う力も、与うために存在するものだ。

 それなのにウシオは、膝の上で寝息を立てるその人の額に触れた温みを、もっと得たいと思ってしまった。

 与えてくれた名を呼ぶ声を、もっと聞いていたいと思ってしまった。

 東雲に彩られた屈託のない笑みを、もっと見ていたいと思ってしまった。

 目には見えぬ情の代わりに交わし合う、体液の甘さを知ってしまった。ただの器を唯一の体にしたその熱が、もっと深く入ってくればいいと思ってしまった。

 その人の全てが私のものになればいいのにと、私の全てがその人のものになればいいのにと、そう求めてしまった。

 想いが募り体が温かく満たされるごとに、彼女は穢れ無い道理から外れ、浅ましいモノに成り下がっていった。等しく慈しみ与えることだけを許された彼女が、求めて良いことなんて何一つ無いのに。


 そうであっても、この身のうちに灯る情を離しはしない。ウシオは頭上に広がる、雲ひとつないのに濁る不気味な黒い空を仰ぐ。波がうるさい。そう念じると海は凪いだ。

 天が翳り、月が錆びる。彼女は薄黒い海を滑り進み、やがて此岸に姿を顕した。ふたりを別つ何もかもへの怨恨が、黒くうねる髪を靡かせ、浅瀬色の瞳を冷たく光らせた。

 彼女は、傷にまみれて転がりもがく憐れなその人の顔に触れる。口を重ね舌を啜り、傷から滲んだ紅血ごと唾液を飲み下す。温もりが喉を通って胃の腑に落ちた。胸が満たされれば満たされるほど、飢えは増していき、その人の喉仏が上下する様すらいとおしいと感じた。


 孤独で臆病な、私のかなしい人。あなたが二度と眠れない夜を彷徨いませんように。

「あなただけは、どうか安らかに」

 そのためなら、たとえ私が姿形を違えども。残り香だけとなろうとも。

 村から人の声が聞こえる。この人の平穏を妨げる喧騒。この人を傷つけた彼らの営み。なんて煩わしい。揺蕩う波を思わせる彼女の足取りが砂に触れて歩む。海と村を隔てる雑木に踏み入ると、彼女の一点の曇りもない青白い足先が土に穢れた。


 一歩、一歩のうちに、奪われてゆく。

 その人が与えたすべてが、奪われてゆく。

 罰が彼女の体に蔓延ってゆく。

 祈りを集めるだけの美しい存在に、戻ってゆく。

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