二十六、祈り

 引き潮のせいで、浜辺は藻にまみれ濡れた礫が露出していた。それだけなく、肌を叩くような強い風が、水平線に向かって絶えず唸りながら駆け抜けていくのもあり、汀はいつもより遠く思えた。男たちは左慈を砂利に放ると、立ち並ぶ小舟の一つを杭から外したり松明や篝火に火をくべたりと、淡々と左慈を送り出す支度を始めた。

「うう、さむ」

「風ですっかり雲が晴れたなあ」

「けど、松明と篝火は要るぜ、でないと俺たちの方が迷ってあの世に渡っちまうよ」

 風に引きずられた小石や貝殻が、きらきら、じゃらじゃらと音を立てて左慈の体に打ち付けられて、男たちのやりとりは左慈の耳には遠かった。


「じゃ、俺たちが行ってくるから、お前は岸の火が消えないように番をよろしくな」

「おう、気をつけてな」

 やがて、男たちは再び左慈を抱えて、浅瀬に浮かべた一艘の船に乗せた。すると、轟、と冷たい烈風が水平線の向こうから吹き荒れ、男たちは浅瀬に足を取られながらも船が飛ばされぬように身を構えていた。どこかで、烏たちのけたたましく鳴き叫ぶ声が遠ざかっていった。

「くそ、なんだって急に向かい風に」

「おい、空がおかしくねえか」

「ええ? ————なんだありゃあ」

 船縁を掴んだまま立ち尽くす男たちが上を向く気配がした。左慈もまた、軋む体を捻って空を見上げた。


 満月の晴れた夜は、いつもであれば天は深く優しい藍に染まるはずである。しかし、左慈の目に映るそれは、漆黒の中に一滴の血を混ぜたように濁っていた。その濁りは、真珠の如く白く輝いていた満月をも侵食していた。

「月が暗え……」

「ガキの頃、行商人から聞いたことがあったなあ。赤い月は不吉な報せだって」

「早く済ましちまおう」

 男たちの怯える声は、左慈には届かない、左慈はただ、水平線の近くに浮かびこちらを見つめる満月に目を奪われていた。赤みを帯びて暗く光るその色が、ここにない温もりを思い出させた。舟底にぶつかる波が、心の奥底に閉じ込めようと決めた情を戸を叩くように急かし呼び起こす。しかし、言葉にして伝える相手はここにはなく、持て余した想いは深い吐息となって吐き出された。肋が折れているのか臓腑が傷ついているのか、呼吸をするたびに身体中が激しい痛苦に犯された。凍ついた風が左慈の肌を刺して、身震いをするたびに骨が軋んだ。左慈は痛みを紛らわそうと侘しい光を放つ月を眺め続ける。


 あの錆びた月以外、誰も左慈のことなど見ていない。

 堪えきれずに吐き出されたそれは、譫言に近かった。


「——ウシオ」


 刹那、全てが止んだ。

 男たちの声も、烏の咆哮も、吹き荒ぶ風も、そして波の音でさえ。男たちの指は船縁から滑り落ち、彼らは左右に小さく揺れながら沖の方に向い始めた。後ろから、松明の番を任されていた男も続いてゆく。船の上で横になる左慈には、男たちがどこまで進んだのかは定かではなく、彼らが戻る気配はない。


 そして、彼女がしじまを連れてやってきた。

 忽然と現れたウシオは、纏う衣と同じ色の月を背負っている。足先だけで船首に降り立つ出で立ちは、まるで羽を休める鳥だ。空も海も闇に淀んでいる中で、浅瀬の海を宿した両の眼だけが煌めき透き通っている。左慈の目に映るその姿は、いつかの日、彼女に名をつけたあの満月の日と同じく不可思議で美しい。だからこれは、左慈の記憶が見せる夢。きっと、痛みと孤独に狂って見る夢だ。

 夢が小舟に降り、舞うように幽玄な足取りで左慈の足元へと移った。花と見紛う白い指先が左慈の四肢の麻縄に触れると、縄はハリを奪われ細く古びた。


 力なく横たう左慈の上に柔らかな体が下されて、二つの光がこちらを見下ろした。ひやりと冷たい掌が、首を這って傷だらけの頬を包み、碧玉が間近に迫ったかと思えば、睫毛の奥に伏せられる。そしてまもなく、左慈の皮剥けた唇に彼女のしっとりとしたそれが触れた。傷を啄むようなそれは、徐に左慈の口の奥に這い入った。唾液が口腔内の傷を刺激する痛みと、歯列や上顎をくすぐる彼女の小さな舌の焦ったさがない混ぜになってゆく。腹の上に跨るウシオの腰が船を漕ぐようにゆらゆらと動き、左慈は身体中の痛みも構わず為すがまま彼女の行いに耽溺した。

 ウシオが混ざり合った唾と血を嚥下すると、互いに熱を帯びた唇が離れていった。再び姿を現した彼女の瞳に、左慈はどうしようもなくほっとした。ウシオが左慈の額を撫で、それから彼女自身の滑らかな額を合わせた。ぐらり、と目の前が揺れて意識が浮遊する気配。


「——あなただけは」

 彼女の声が遠く掠れた。

「どうか安らかに」

 それでも、その祈りは左慈の耳に届いて、眠りの底に誘った。

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