二十五、傷

 頬を張り飛ばされた衝撃で目の奥に閃光が走った。ひねった首の痛みと耳鳴りに足元がふらついているうちに、左慈は左介に胸ぐらを掴まれ、それから家の奥間の壁に勢いよく叩きつけられた。

「なんてことをしてくれたんだ!」

 左介は座り込んだままの左慈に乗り上げ、もう一度襟を掴んで揺さぶった。衝撃で後ろ頭を壁に打ち付け、左慈は一瞬目眩に襲われたが、すぐに鼓膜を突き破る左介の怒声で意識を揺り戻される。

「なんで俺の言うことが聞けなかったんだよ!」

「一路は俺を」

 左慈は言いかけて口を閉ざす。誰かを守ろうとなりふり構わず希う、憐れな彼を責める弁を述べることなんてできなかった。


「どうして、お前は……」

 左介は左慈の襟を掴んだまま拳を震わせて俯いた。やがて小さく鼻を啜る音が聞こえたかと思うと、目を赤くした左介が間近で左慈を睨んだ。左慈はたじろぐでもなく、居間から漏れる薄明かりを反射する左介の目の奥、そこに映る自分の黒い影を見た。

「もう、俺にはお前を助けきれねえよ」

 潤んだその一言が、ほんの一瞬左慈の罪悪感をかき消した。

「——お前が」

 その瞬きのうちに、左慈の口は勝手に動いた。

「お前が、俺を助けてくれたことなんて一度でもあったか」

 低く唸り呟くと、間髪入れずにまた頬を叩かれる。口の中にねっとりとした血の味と、奥歯が外れて揺れる不愉快な感触がした。


「うちで落とし前つけなきゃ、俺たち一家は村八分だ……! こんなとばっちりで路頭に迷うなんて冗談じゃない!」

「分かってる」

「分かってねえよっ」

「分かってる! 俺が碌でもないことなんて、最初っから……!」

 頬の内側が腫れているのか、痛くてうまくしゃべることができない。左慈は左介の好きにさせようと、痛みに耐えるためきつく目を閉じて身体中に力を入れた。


「左介、いるか」

 表から、和一の声が聞こえて左慈は目を開けた。左介は拳を振り上げた体勢で居間の方を見ていた。和一が居間にいるまづといくらか言葉を交わす声が聞こえ、それからこちらまで近寄る気配がした。しかし、足音は一人だけでなかった。

 奥間に入ってきたのは、和一と、麻縄を持った彼と同年代くらいの男四人であった。

「和さん、和さんすまねえ! 俺は……」

 左介が勢いよく床に頭をつけようとすると、和一はその場にしゃがんでそれを止めた。

「いい、左介。その言葉はさっき散々聞いたよ。悪いけどさ、まづたち連れて、お前らは俺ん家に行っててくれねえか」

「和さん」

「村長とも話して決めた。これからのことは、お前たちは関わらせねえ」

 壁にもたれて尻餅をつく左慈のことなど見えていないように、和一は左介を真っ直ぐに見て穏やかに告げた。

「左介、早く行け。……まづや慈郎には何も伝えるなよ。さすがに酷だ」

 左介は和一の言葉を聞いて、迷いと罪の意識を孕んだ目で左慈を一瞥した。しかしそれはすぐに逸らされて、兄は奥間を出ていった。やがて兄弟と母たちが去る足音が聞こえる。取り残された左慈は、こちらを見下ろす表情に欠けた男たちを見上げて、取れてしまった奥歯を部屋の隅の暗がりに吐き捨てた。


「お前が、影海様を祟り神にしちまったんだろう」

「…………」

 否定も肯定も意味を為さない気がして、左慈は無言を貫いた。静まり返ったその場に、遠くの方で烏が騒ぐ声が届く。

「他の村に伝わる前に、俺たちでどうにかしなきゃならん。責任は取ってもらうぞ、左慈」

「俺には……何もできない」

 それだけ返すと、和一の顔が力んで影が濃くなったように見えた。彼は手を小刻みに震えて、それを堪えるように拳を握りしめていた。

「お前が祟りの元凶なら、お前を影海様に送って怒りを鎮めていただく。そうでなくても、お前さえいなくなれば、うちの村が災いの元だなんて知られずに済む。だから、お前を影海様のために海に送り出すことになった」

 和一が周りの男たちに目配せをすると、彼らは左慈の手足を麻縄で縛った。左慈はこれに抵抗する気力すらなく、大人しく四肢を拘束されて芋虫のようにその場に転がった。


「最期の言葉があるなら、聞いとくぜ。あとでまづに伝えとく」

 左慈を残していった彼らに、何と言葉をかければいいのだろう。左慈はこの期に及んでそんなことしか考えられないことを自嘲し、それがばれないよう和一から顔を逸らして額を床に押し付けた。

「一路のことは、悔いても悔やみきれない」

「お前がせがれの話をっ」

「でも……俺を渡しても、意味が無いよ、和さん」

 左慈が言い切るとほとんど同時に、和一が左慈の腹を蹴り上げた。

「お前がっ、お前が命乞いをするな! 一路は、あんな…っ、あんな死に様があるか!」

 和一は箍が外れたように血相を変え、もう一度左慈の鳩尾を蹴った。吐き気がこみ上げ、腹から迫り上がった酸っぱい汁が血とともに口からこぼれる。左慈が息荒く体を縮ませても、和一は止まらなかった。

 和一の振り下ろした足が左慈の顎を掠めた。ぐらりと目の前が揺れて、左慈は痛みと吐き気に溺れて朦朧とした。和一だけではない、男たちの大きな黒い影が蠢くたびに左慈は身体中の筋がちぎれ骨が軋むのを感じた。


 気を失いかけたところで乱暴に体を起こされた。間近に迫った和一の顔は真っ赤で、その顔の横には節くれだった拳が握られている。

「…………ごめん、和さん」

 何もできなくて。一路を殺してしまって。後悔できなくて。

 左慈は和一のことを待った。しかし彼は、拳を震わせながら左慈を睨むだけで動かなかった。彼のまなじりに、見る見るうちに水が溜まってゆく。

「お前の、親父が……あの世でどれだけ悲しんでるか……!」

 拳を下ろした和一は、左介の胸ぐらを掴んだまま声を絞り出した。そして左慈を突き放すと、こちらに背を向けて他の男たちに言った。

「頼む、お前らで連れてってくれ。……俺はもう、こいつの、その顔は見てらんねえ」

 和一が部屋から出ていってしまうと、男たちは四人がかりで動けない左慈を抱えた。家の外で、和一が皆に家の中にいるように伝えている声が聞こえた。


「悪いけど、村のためだからな」

 男のうちの誰かが、そう言った。左慈が何も答えないでいると、気を失っていると思われたのか、彼らはぼそぼそと話しながら左慈を運んだ。

「親友を祟り殺すなんざ、どうかしてる」

「悪いやつじゃなかったはずだけどな。神様に魅入られて変わっちまったのか」

「少し憐れだが……こいつが独り身なだけ、まだ良かったよ」

「だなあ」

 会話を耳に、左慈は男たちに嗚咽を悟られぬよう息を殺した。

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