二十四、奪われる
清潮祭から一月近く経つと、左介が危ぶんでいたとおり村が日に日に荒んでいくのが肌で分かるほどになった。漁を再開してもさほど成果が戻らないことも、それに拍車をかけていた。年寄りは、次はどんな災いが降りかかるのかと怯え引きこもり、男はうまくいかない不安と苛立ちを腹に抱え、女は日毎ささくれだつ村の空気に胸を痛め、童はそうした大人たちのただならぬ様子を感じ取って口を重くした。
「左慈、いるかい」
ここ数日、さすがに一路も軽口を叩くことはほとんどなかった。彼は今日の漁を終えてしばらくしたのち、家を尋ねてきた。相変わらず眠れない左慈が奥間の方で目を閉じていたところ、彼に似合わぬ控えめな問いが聞こえた。左慈が欠伸を噛み殺しながら表に出ると、すっかり冷たくなった風に肩を尖らせた一路が力なく笑った。
「道具の手入れ、付き合ってくれよ。大して使ってなくても古びるだろ」
「今日か?」
左慈は天を見上げる。灰がかった雲からは、今にも滴が落ちてきそうであった。
「空気は湿ってないし大丈夫さ。風もあるから、この分じゃ夜には雲が流れる」
だからいいだろ。一路はそう言って先を歩いて行ってしまった。左慈は塵を纏った向かい風に顔を顰めながら彼の後を追った。
浜辺には誰の姿もなかった。満潮で波打ち際は近く、白く泡立ちながら砂礫を乱暴に巻き込む音をかき鳴らしていた。左慈と一路は、舟がはぐれてしまわぬよう杭に強く縛りなおして、それから道具の手入れのために掘立小屋に向かった。
「まったく、いくら片付けてもすぐに散らかっちまうな。几帳面な奴が一人でもいたらいいんだが。左慈、少し片付けないか」
「漁具の手入れじゃないのか」
「いいだろ。どうせ時間はあるんだ、話しながらゆっくりやろうぜ」
特に断る理由もなく、左慈は一路に言われるまま、狭い掘立小屋に散乱する道具を一度外に出し始めた。
「お前、まだこの小屋に寝に来てんのか」
暫くの間、黙々と作業をしていると、一路がふと尋ねた。
「いや、今は夜中に出歩くことはなくなったよ」
「そうか。まあ妙な噂も立ってるし、夜中の海なんて今は来ない方がいいわな」
どう返せば取り繕えるのかと考えて、左慈は結局無言を貫いてしまった。一路もまた何も話を続けないので、左慈は不思議に思って漁網を外に放ってから後ろを振り返ると、一路は何か言いたげにこちらをじっと見つめていた。何も言われていないのに、左慈は得体の知れない焦りで背筋が寒くなった。
「ど、どうしたんだよ」
「俺はさ、みんなが言うように、影海様の祟りかどうかなんて、どっちだっていいんだ」
一路は道具が取り払われて少し広くなった小屋の中を、使わなくなって久しい惨めな見てくれの箒で掃きながらつらつら述べた。
「災いの根っこを見つけて扱き下ろしたいわけじゃない。ただ、また前みたいに何にも心配せずにのんびり暮らせるようになるにはどうしたらいいんだって、ここんところはそればっか考えてさ」
一路が掃いて集めた小石や枯れ葉を戸口に寄せた。左慈が何も言わずに戸口の近くから離れると、一路は雑に塵たちを外に掃き捨てた。
「祟りだって災いだってなんだっていいよ。それ止めてくれんなら、俺は影海様でもなんでも頭下げるし命だって……」
「滅多なこと言うなよ。お前は妻も子もいるだろう」
様子のおかしい幼なじみの吐露を遮ると、一路はまた、彼には不似合いな力のない笑みを称え、それからまた憔悴した面持ちに戻った。
「ま、肝腎要の影海様の御心が分かんないんじゃ、どうしようもないわな。何人かは影海様の御姿を見たって言うが…」
強い風が掘立小屋の外を通り過ぎて、屋根の重石がじたばたと暴れ塵芥が天井から微かに落ちてきた。一路はそれを気に留めず小屋の奥に箒を立てかけた。左慈は、外に出した漁具を中に戻し始めた。
「なあ」
普段は使わない予備の櫂を箒の側に立てかけていると、背後から呼ばれた。
「ん、なんだよ」
「清潮祭に現れた女の噂、知ってるか」
左慈は手を止めた。動揺しつつも、顔を見られなかったことに心底安堵を覚えつつ、一路にばれないようにこっそり息を飲んだ。
「知ってるよ……その噂で持ちきりだろ」
怪しまれないようすぐに片付けの作業に戻ったが、一路は左慈の応えを待っていた。
「岩場に女がいたんだってな。それが影海様だって信じてる奴も多いみたいだぜ」
「そう、なのか」
「あとよ、うまく言えねえけどよ。海の調子が悪くなったのって、確か夏の終わりくらいの高潮が初めだったんじゃないかって、親父と話してる時にさ」
左慈に話題を返る機転などなく、追い込まれてゆく獲物の気持ちで一路の話が早く終わるようにと心内で唱え続けた。
「あの頃、変わったといえば、お前の調子が戻ってきた時だったなって思い出して」
「眠れる、ようになったから……」
左慈は網針を積んだ籠を取ろうとしたが、いつの間にか戸の前に立っていた一路に阻まれて動きを止めざるをえなかった。砂に埋もれた敷居を挟んで、二人の間に緊張がぴんと張り詰めた。
「それからしばらくして、お前に女がいるって、けど人には言えないとかなんとかって話聞いたよな」
「何が……言いたいんだよ」
分かっているのにはぐらかす左慈の癖を、一路はよく知っている。彼は目を伏せて、ふ、と自嘲気味に笑った。
「…………俺だって、自分でも考え過ぎて頭おかしくなっちまったんじゃないかって思うさ。けど、もし、もし万が一にも、お前が何か知ってんなら……なあ」
左慈には、左介との約束がある。しかし、次に左慈を見上げた時の一路の瞳は、揺れて左慈に哀願していた。左慈の腕を掴む力からは、まるで物乞いにも似た惨めさが伝わった。
「前に話した相手……彼女が、村でいうところの「影海様」なんだよ」
兄との約束も、目の前の親友への憐憫と申し訳なさの前には脆かった。一路なら、口外するなと頼めば聞いてくれるという信頼もあった。
「俺なんかと会うから、海が怒って荒れてる……らしい」
「どうすればいいんだよ」
いつもの彼なら、疑問の一つや二つぶつけてくるだろうに、一路は左慈にそう迫った。
「お、俺が彼女に会わなければ、いずれ」
「いずれっていつだよ!」
聞いたことのない剣幕に、左慈の体が反射的に跳ねた。目を丸くして、小屋の中へ一歩後退りをすると、彼はその分一歩踏み出して敷居を跨いだ。
「すまない……分からないんだ」
「二月近くだ。もう二月近くもまともに漁ができてねえ。俺たちはまだいいさ。けど、俺の子は……かみさんの乳が出なくなって、もう何日も重湯しか吸ってねえ……」
唾を飛ばしまくしたてたかと思うと、一路はとぼとぼと背後に下がり出した。
「い、一路」
一路は、徐にしゃがみ込み小石と松の枯れ葉ででこぼこの地面に両膝をついて頭を垂れた。左慈が彼の気性の揺れに困惑していると、一路はそのまま手を前に突き出して、その場に深々とひれ伏した。
「お願いだ……お前から、影海様に頼んじゃくれないか。子が飢えて死んじまう」
「やめてくれっ、おい!」
地面に頭を擦り付ける男の傍に跪き、左慈は彼を強引に起こした。髪に砂と一本の松葉を付けた一路に、海からやってきた冷たい風が砂を叩きつける。
「一路、俺だってどうにかできるならしてやりたいさ。けど……俺にも彼女にも、どうにもできないんだよ」
「影海様に、どうにかできねえわけねえだろっ」
「できないんだよ! 彼女だって苦しんでる」
「俺たちだって苦しいさ! お前と影海様が発端なら、お前たちでどうにかしてくれよ!」
「だから、これは海が——」
「影海様がお前を気に入ってんなら、この災いはお前を呼んでいるんじゃないのか」
言うや否や、一路の太い腕が左慈の首を掴んだ。左慈を見下ろす一路の目は虚ろで、それでいてぎらぎら激しく殺気立っている。喉仏が押しつぶされた痛みに耐えつつその腕を引き剥がそうとするが、背丈ばかりの左慈が一路の力にかなうはずがない。左慈は血管の浮いた腕を引っ掻いただけであった。
「お前が……お前が向こう側に行けば、影海様は満足するんじゃないか」
「ちが……落ち着け一路、話を」
「碌に話さねえくせに、もう手遅れなんだよ」
左慈の肩を叩いて励ました手が、からかい混じりに脇腹を小突いてきた手が、今は左慈の喉を押し潰している。息苦しさに勝手に出てくる涙が、一路の顔を歪ませた。
「俺から……大切なもんを奪わないでくれ」
泣きそうに震える一路の声を聞きながら目の前が暗転しかけた時、潮の匂いに柊木犀の甘い芳香が混じった。
一路の手から力が抜けて、ゆっくりと左慈から身を離した。左慈は大きく咳き込みながら上半身を起こす。一路の視線は左慈ではなく、そのすぐ後ろ。
「はあ、あ、あんた」
一路は浅い呼吸を繰り返しながら彼女に釘付けになっていた。左慈もまた、凍てつく視線を一路に向け、轟々と唸る風の中微動だにしない彼女の姿に目を奪われた。
「私から奪うなら」
海の底を思わせる、静謐で冷酷な声音が一路に向けられた。
「返して」
ウシオがくいっと首を捻った。きゅ、と奇妙な音がなる。
それが一路の呼吸の詰まった音だと、左慈は気がつかない。そんな些細なことには気付けなかった。
ウシオが唱えた途端に一路が身体を硬直させたかと思うと、彼の口から鮮血があぶく混じりに溢れ出た。苦しそうな男の目からは、涙の代わりに赤い滴が伝う。
「一路!」
咄嗟に駆け寄ったが、彼は事切れて酷い亡骸と化していた。
「ウシオ……どうして」
遺体を抱いて蹲み込んだままウシオを見上げると、彼女は俯いてそっと左慈の側に寄った。
「償うから…………だから、いなくならないで」
そうして、左慈の喉を撫でた。先ほどの鬼気迫る様相とは一変して今にも消え入りそうな声にたまらなくなり、左慈はそっと彼女の肩を抱いた。
「左慈!」
すると、呼び声と共に左介が向かってくるのが見えた。彼だけではなく、和一、そして子を抱いた一路の妻も小走りでこちらに近づいてくる。
「あんたはここから離れて」
「私はあなたを……」
左慈は遺体を抱く腕に力がこもった。彼女には、きっとこれから起こることを見せてはいけない。左慈がこれ以上引き留めて、彼女の過ちを増やすわけにはいかない。
「俺はなんとかなるから」
「でも、左慈、」
「俺にとっての「良いこと」だよ」
うまく笑えただろうか。そんなことを気にしつつ左介の方を見ると、彼はほんの一瞬ぎょっとして左慈よりももっと後ろを見た気がしたが、すぐに左慈と一路の様子に気づいて駆け寄ってきた。
ちらりと振り返ると、彼女はその場から跡形も残さず消えていた。
「左慈、何があって……ひっ」
「一路、あんたいったい」
「美代、見るな!」
左介が止めたが、もう遅かった。
「あ、ああぁあ」
幼子の頭を胸に押し付けたまま、一路の妻はその場に頽れて嗚咽とも絶叫ともつかない声を上げた。左慈は血塗れの亡骸を抱えたまま、それをただ見ているしかできなかった。
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