ある男

澄田ゆきこ

本編

 男は詩を書いていた。

 苦悶し、唸り、時には汗すら滲ませていた。戦傷のためにうまくペンを握れず、綴られた文字は醜く崩れ、それすら男を苛立たせた。男は石から雫を絞り出すように言葉を綴り、そして破り捨て、暖炉にくべた。暖炉の底に溜まった灰の分だけ、男は摩耗していくようだった。

「あなた、もうそのくらいにしたら」

 妻のやんわりとした制止も、男の耳には入らない。男は躍起になって文字を綴るが、すぐにその拙さに辟易し、紙を丸めて暖炉に放る。紙にはすぐに火が回り、端から炎を伴って黒くなり、灰になった。


 男が何者であったのかを語るのは難しい。男がそれほど多くを語らなかったからである。妻の知っている限り、男はかつて、とある職人の弟子だった。寡黙だがいい仕事をする人だったと心得ている。結婚して間もなく、男は兵隊にとられ、前線で戦った。戦争が終わってからは、傷痍軍人として年金を受け取りながら、不自由な腕で小さな土地を耕して暮らした。農作業が戦傷を悪化させ、まともに鍬も握れなくなってからは、男は家に籠った。

 やがて男は、何かに憑かれたように机に向かうようになった。

 確かなのは、男が何者であるときも、妻は男の妻としてありつづけたということだった。

 男は心にも大きな戦傷を負っていた。前線は過酷だったのだろう。塹壕での銃撃戦だけでなく、病や寒さ、飢えにも人は倒れたと聞く。男は多くの仲間を殺され、同時に多くの敵を殺した。数少ない生き残りとして、男はそれらの死を一身に背負っていた。

 毎夜のようにうなされる男の身を、妻は案じた。脂汗をかいた額をふいてやり、うわごとに耳を傾け、背中をさすってやった。男がようやく落ち着いて眠りにつく頃には、空は白み始めていた。そんな生活が長く続いた矢先、ある日突然、男は筆を執るようになったのだった。

 男は自分が書くものを決して妻に見せようとしなかった。一度だけ妻は男の背後から内容を覗き見た。そこには、口にするのも憚られるような、おどろおどろしい言葉ばかりが並んでいた。妻は息を呑んだ。男は、悪夢のような記憶を言葉にしてしまうことで、自身に憑りついた亡霊を必死に祓おうとしていた。生き残ったことを罪科のように感じながら。それを妻が悟った瞬間、男は紙をぐしゃりと握り潰した。

 やがて変化が訪れた。妻が病に倒れたのだった。

 今度は男が看病をする番だった。戦傷で片方の手指が固まっているにも関わらず、男は手慣れた様子で看病をした。妻がそれとなくわけを訊いたとき、男は訥々と、子供の頃、病身の母を看病していたことを話した。妻が男の子供時代の話を聞くのは初めてのことだった。

 妻の看病をしながらも、男は詩を書くのをやめようとはしなかった。妻はその背中を眺めながら、男がどうして詩を書けないのか、はっきりと理解していた。寡黙な男にとって、元来、なにかを言葉にするのは得意ではないのだ。それが死者への鎮魂であれ、己への慰めであれ、男に流暢な詩を紡ぐことができるようには思えなかった。

 事実、妻の考えていた通り、男は一片の詩すら完成させることはできていなかった。苦しんで苦しんで紡いだ言葉さえ、納得できず捨ててしまう。それは子どもの癇癪のように見えた。妻は胸を痛めた。詩を書くことを手放せば、男も楽になるだろうと思った。けれど、男が妻の看病以外にしていることは、詩を書くことしかなかった。それを捨てろと言うのは、自分の看病に専念しろと言うようで、気が咎める。

 ――あの人は、今もずっと闘っているのだわ。

 祈ることしかできないまま、妻は未だに戦場に囚われている男の背中を見ていた。

 そのうち、妻は臥せる時間が長くなり、病床から身体を起こすことも難しくなった。男は妻を看病しながら、合間合間で詩を書き続けた。妻は目を開けるのも億劫で、男の背中を眺める代わりに、男が走らせるペンの音にじっと耳を傾けた。ずっと苦悶に溢れていたペンの音は、ある時から変化を始めた。ゆるやかで、優しい響きを伴うようになったのだ。それでも納得はいかないらしく、紙が捨てられ燃えていく音は頻繁に聞こえてきていた。

 日を追うごとに妻の昏睡は長くなった。臨終のときが近いことを、妻は悟りはじめていた。夢と夢の間で、妻は穏やかなペンの音に聞き入った。その音は病の痛みを取り去ってくれる気がした。

 やがて、音が止まった。

 男が近づいてくる足音がした。「書けたの?」と妻が訊いた声は、声にならなかった。けれど男は、きちんと言葉を聞き取った。

「いいや。でもいいんだ。俺の伝えたいことなんて、最初から、一つしかなかった。今になってやっと気づいた」

 妻は薄く目を開けた。男の持つ紙に何が書かれているのかは、すぐにわかった。男が書いたのは、たった一行。『愛している』。それだけだったから。

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