東京ダイダラボッチダイラタンシー

鳥辺野九

武蔵境駅にて


 國枝くにえださんは奇行が目立つ。

 彼女曰く、日々どろどろと移ろう世界を相手にするにはこれくらいが丁度いい。だそうで。

 たとえば。恋人にするなら東京スカイツリーがいい。とか言い出したり。

 目覚めの風景は東京スカイツリーに限る。と、わざわざスカイツリーまではるか遠く一直線の中央線武蔵境駅に引っ越したり。

 下から見るのはあまりよろしくなく、対等な目線が相応しい。と、独自の理論を展開して毎朝スカイツリーを遠くに眺めている。

 たとえば。國枝さんは毎朝決まった角度でスカイツリーの画像を撮ってはSNSにアップしているが、フォローやイイネの一切を拒否している。僕でも彼女のアカウントを教えてもらえない。

 情報の濃度と流動性にばらつきが出てしまうと上手くいかない。と、毎朝せっせと朝食とセットのルーティンをこなしている。

 たとえば。夜。眠りに落ちるその瞬間まで、瞼を閉ざしてしまわないよう目は見開いたままだ。

 消灯して、遮光カーテンを締め切った真っ暗な室内。それでもレコーダーの時刻表示やらルータのパイロットランプやら、おぼろげな光がそこかしこに瞬いている。

 暗闇に満ちた部屋はまるで深海に沈んだようで。

 海の底を這う発光生物たちを観察していると、やがて弱々しい光がささやかに揺らめきだす。潮目に流されているのか。捕食者に追われているのか。ゆらりゆらり、まるで夜の雲間に瞬く星。

 儚い光が泳ぎ出す頃には自然と力尽き、意識を失うようにして夢と現の狭間にすとんと落ちる。瞼が閉ざされたかわからないままに。

 それが國枝さんの眠り方だ。いや、眠るのではない。現実世界をアップデートさせない方法だ。

 人は瞼を閉じて44分44秒以上眠ると、新意識へと更新されて旧意識はメインサーバにバックアップされる。世界の根底にある集合的無意識の再構築が始まるのだ。

 あくまで國枝さんの主張だけど。

 そんな意識のアップデートだが、開発者も運営者も気付いていない些細なバグがある。それが自らの意思で瞼を開けたまま眠りに落ちる現象だ。

 集合世界はアップデートされず、環境は上書き再構築される。つまり、自分の意識だけが他の人とは異なる旧世界軸へ取り残されるのだ。

 ところで、その開発者や運営者って誰なんだろう。異世界へ取り残されて何が起きるんだろう。そもそも、自分の意思で瞼を開けたまま眠れるものなのか。

 國枝さんがあまりに自信満々に言うものだから、僕も試してみた。

 初めて國枝さんの部屋に泊まった夜、僕は隣に横たわる彼女の目を見ながら瞼を開けたまま眠ろうとした。國枝さんは照れ臭そうに、それでもちゃんと瞼を開けたまま、僕の目を見つめてこの集合世界について語ってくれた。

 僕たちが活動する集合世界は量子仮想世界である。みんな世界を集合認識させられていて、同時に個人認識もこなしている。だからそれぞれが自分勝手に活動すれば、やがて世界の共通認識にズレが生じるが、それは一日の終わりにアップデートで修正される。この世界はそんな風にできている。

 國枝さんの奇行は運営者に対するささやかな反抗だそうで。

 ひそひそとした國枝さんのウィスパーボイスはとても耳触りがいい。彼女の柔らかな囁き声で鼓膜を撫でられたら、どんな荒唐無稽なストーリーでも受け入れられる。

 どれくらいの時間が経ったろうか。かすかに聴こえる囁きに導かれるように、いつしか僕は夜の海底に沈んでいた。

 瞼を開けたままだったかなんて知る由もない。


 人はさまざまな行動を起こす。そしてとある事象に対応するアクションを最適化するためにそれぞれのルーティンが存在する。

 國枝さんにもここが更新されなかった旧意識世界だと確認するため毎朝欠かさず行うルーティンがある。それが朝食の画像を決まったアングルで撮影してSNSにアップすることだ。


「何も映える朝ごはんを追求してるわけじゃなくてよ」


 細長いわりに起伏のなだらかな身体を器用に折り曲げて、國枝さんは猫がそうやるように四つん這いになって背筋を伸ばした。


「よくわかってるよ」


 僕は國枝さんの小さなお尻を眺めながらそう答えた。そう答えるのが一番しっくりくると思った。

 さて、僕はいつ目を醒ましたのだろう。気が付けばそこはもう明るい朝で、國枝さんがスマホで朝食の撮影準備をしていた。


「わかってるならイイネが欲しいかな」


「アカウント教えてくれたらな」


「それは無理。ルーティンが変わっちゃう」


 誰にもフォローされていないSNSに誰にも見られない朝食の画像を毎日決まったアングルで更新し続ける。奇行でお馴染みの國枝さんならではのモーニングルーティンだ。


「せっかくのいい朝なのに。そんなのもったいないよ」


 パジャマ代わりのジャージ姿で四つん這いになり、フローリングの床に直置きしたトレイの朝食を画像に収める國枝さん。僕は「はいそうですか」と素直に引き下がるしかない。いい朝が変わってしまってはそれこそ一大事だ。


「ごはん、もうちょっと待ってね。この角度が重要なの」


 フローリングにはマスキングテープで位置取りされている。そのマーキングにぴったり朝食のトレイを微調整して、スマホを支える三脚をかなり低い角度にセット。

 朝食の背景はマンションの窓から見える灰色のビル群と青い空。中央線武蔵境駅の高架が空を真っ直ぐ縦に割っているように見える。

 それはまるで額縁に収められた一枚の絵画のよう。そのアングルのど真ん中、大きなタワー状の姿が遠くにぼんやりと突っ立っている。

 日曜日の始まりに相応しいのんびりとした朝の風景が國枝さんによって切り取られようとしている。


「それで、今朝はどんな具合? アップデートされてない?」


「君という新要素が最高にフィットしてる。申し分ない朝だよ」


 だ、そうで。

 瞼を開けたまま眠れたのかわからない僕には、ここは夜が未だ連続しているふわふわした時間だ。ふわふわし過ぎて朝かどうかすら怪しい。

 ここが國枝さんの言う量子仮想世界の自動アップデートがなされなかった世界なのだろうか。集合意識からすぽんと離脱して、何者にも影響されない個人意識が続く朝。

 國枝さんはようやくベストポジションにたどり着いたようで、スマホのカメラアプリを連写させた。連射シャッター音が小気味良く聞こえる。

 僕の前には國枝さんの後ろ姿。そして僕らの朝ごはん。

 スライスされたバゲットはこんがり焦げる寸前の小麦色。バターが溶けてじゅわっと染み込んでいる。焼かれたベーコンはしっとり脂を浮かせている。ちぎったレタスにお好みでマヨネーズを少々。かりかり目玉焼きには粗挽きの塩胡椒が白い砂浜の黒い砂粒のよう。

 そして窓から見える遥かなる巨人、東京スカイ怪獣。全高634メートルの、もはや東京のシンボルとも呼べる超巨大生物である。


「やっぱり二人分の朝ごはんよ。君という強い刺激がキーだった」


 國枝さんはようやく僕に振り向いてくれた。そういえば、この朝初めて國枝さんの顔を見る。こんな風に笑うんだ。


「ダイラタンシー現象が成立したよ」


 集合意識のダイラタンシー流体化。それが國枝さんの奇行のテーマだ。

 ダイラタンシーとは弱い接触の時は液状のままだが、強い衝撃を与えると固体化する現象を言う。たっぷりの片栗粉が溶けた水にゆっくり足を浸せばゆるゆると沈み、速い足踏みで強い刺激を与えると液面が固体化して液体の上でもどすどすと走れるというアレだ。


 遠く、東京スカイ怪獣がのっそりと歩き出した。山へ行くのだろう。丘をえぐり、土を削り、そして海へ運ぶ。山から切り出した土で海を埋め立て、武蔵野の大地を広げる。はるか古来より行われてきた超巨大生物の原始の儀式。それが再び始まった。


「ようこそ、旧世界へ」


 集合意識に流動する情報をある程度まで濃度を高め、強い衝撃と共にアップデートされなかった個人意識へ固体化させる。あとは集合意識へ上書き更新させれば、それが新世界としてすべての人の共通認識となる。


 僕らの旧世界で、東京スカイ怪獣が足元のビル群を跨いで悠然と歩いている。ずっと昔からそうであったようにこれからもそうあるのだろう。


 さて。東京スカイ怪獣がどしんどしんと歩いていったあと、あの跡地が不安定になってしまう。超巨大生物が山を造成し海を埋め立てるまで、誰かが代わりにあそこに立っていないと。それが、僕の役目だ。


 僕は歩き出した。國枝さんの部屋の窓から見える景色。そのど真ん中へ。ビル群から頭ひとつ抜け出して、中央線の高架を踏み破らないよう注意してひと跨ぎ、武蔵野の大地を一直線に横断する。


「いってらっしゃい。私のスカイツリーくん」


 國枝さんが手を振って僕を見送ってくれた。

 あ。しまった。國枝さんの朝ごはんを食べ損ねた。

 東京スカイ怪獣がお昼までに帰って来れば交代で僕も休憩を取れるけど。はたしてランチとして國枝さんの手料理を食べられるだろうか。

 これは困った。

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