第2話:本文

第1章

「ふあーっ!」


 僕は誰もいない隙を見計らって大きなあくびを一つぶちかました。窓の外からは今日も夏日がさんさんと照りつけ、室内なのに日焼けしそうな勢いだ。木製のカウンター前に座っているとつい居眠りしちゃいそうな真昼時の陽気だったが、カランカランという涼し気なカウベルの音で、僕はすぐにシャキッとなって、身に着けた白衣の襟を正した。お客さん、もとい患者さんだ。


「こんにちは!」


「おや、驚いた。この治癒所は子供が受付けやってんのかい? しかし猫型獣人の子供とは可愛いねぇ」


 入って来たばかりのトカゲ頭のリザードマンが、普段は細い眼を満月のようにまん丸に見開いて、僕の顔を穴が開くほどマジマジと見つめる。初めて見る顔だが、革鎧と布袋、そして腰に下げたダガーから察するに、きっと職業は戦士なんだろう。ややびっこを引いているが、どうやら左足を怪我している様子だ。


「はい! ロマンといいます! マイお婆ちゃんの手伝いをしているんです!」


 僕は元気よく声を出してヒゲをピンと張り、はきはきと答えた。この商売、第一印象はとっても大事だ。


「ほう、そいつは大したもんだ。まだ小さいのに立派だねぇー」


 話す度に二股に分かれた舌が蛇のようにチロチロと口元から覗く。


「もう五歳です! 小さくありません!」


「いや充分小さいよ! 大丈夫かよ!? 椅子に座っても床に足届いてないよ!」


「とにかく大丈夫です! そんなことよりも、それでは受け付けを致しますので、お名前と種族と年齢、そして現在お困りのことを話してください!」


「ああ、そうだな。俺の名はオリオール。見ての通りリザードマンで、20歳だ。今日ちょっと遺跡探索中にドジって左足をやっちまってな……」


「えっ、てことはトゥルースシーカーの方ですか!?」


 途端に僕の好奇心にメラメラと火が付き、前のめりになって椅子から転げ落ちそうになった。魔染前の遺跡を探索するトゥルースシーカーは僕の将来なりたい職業ナンバーワンだった。お婆ちゃんに言ったら心配するから内緒だけど。


「おっとっと、だから言わんこっちゃない少年! 怪我したらどうすんだよ!?」


「大丈夫です! 最悪怪我してもここは治癒所だから!」


「大丈夫ってそういう意味かよ!」


「それよりも本当にトゥルースシーカーなんですか!?」


「まあ、確かにその通りだが、まだ駆け出しのぺーぺーよ。ところでここはすぐ診てもらえるのかい? 早くて安くて上手いってどこぞの飯屋みたいな文句が売りだと聞いて、やってきたんだが……」


「えーっと、今お婆ちゃんが一人患者さんを診察しているので、しばらくそこに腰かけてお待ちください!」


 僕は居間くらいの広さの待合室にテーブルを挟んで向かい合わせに置かれた二台のソファーを指差した。年季の入った色褪せた革製のソファーだが、座り心地は中々良いとの評判だ。現在は誰も座っておらず、ぬるま湯のような空気だけが古い木製の室内に漂っていた。


「おう、じゃあお言葉に甘えてちょっくら待たせてもらうぜ。それにしてもすっげえ上手い折り紙だなぁ、これ……」


 オリオールはソファーに行きかけながらも、カウンターの上にある物に興味を惹かれたようで、クイッと首だけ振り返った。そこにはお婆ちゃんが今までに折った、非常に精巧かつ緻密な折り紙作品の数々が並んでいる。可愛いらしい白い兎や前脚を跳ね上げたリアルで逞しい茶色の馬、鱗の一枚一枚まで表現されている蛇のように長い身体をくねらせた龍等々、一見粘土細工かと見紛うほど見事なものが多く、彫刻にも引けを取らない出来栄えだ。コンプレックス折り紙っていうらしい。比較的簡単な折り鶴等と一線を画す、非常に細かく紙を折り込み、完成までに数時間どころか数十時間かかるものまである、複雑な折り紙のことだ。僕もお婆ちゃんに教えてもらって、彼女の足元にも及ばないけど結構折ることが出来るようになった。


 ところでこれは自分でも不思議なことなんだけど、僕は大人が使うような難しい言葉を年齢以上に色々知っている。一体何故なんだろう? どこかで昔聞いたような気がするんだけど……気のせい?


「おい少年よ、待ち時間はどれくらいかかるんだい? 俺、これから彼女と会う予定なんだよ」


 尻尾を横に垂らしてどっかり腰を下ろしたオリオールが、ちょっと不安そうな声で僕に尋ねる。その足でデートに行くのはどうかと思ったけど、個人の勝手なので目をつぶっておくことにした。


「そうですね、もうちょっとだと思いますけど、今確認してきますね!」


「おい、ちょっと待てよ! 他の患者が来たらどうすんだよ!?」


「適当にあしらっといてください! お願いします!」


「無茶言うなよ! 初診の俺に任せるな!」


 リザードマンのシューっという苦情を背に受けながらカウンターを飛び出すと、僕はきしむ廊下を一足飛びに走って診察室のドアを開けた。


「お婆ちゃん、次の患者さんが待ってるよ!」


「うるさいわねロマン! 殺すわよ!」


 途端にドスの効いた甲高い声が、古い机と椅子とベッドが置いてあるだけの殺風景な狭い室内に轟き、僕の胃はひっくり返りそうになった。黒いローブをまとった巨乳の兎型獣人のお姉さんがベッドに横たわり、猫型獣人のマイお婆ちゃんに頭を押さえつけられている。時々治癒所にやってくる人で、お婆ちゃんとも顔なじみのようだが、僕はいつもお姉さんの豊満なおっぱいに目が行ってしまって、名前を何度教えてもらっても右から左に抜けてしまう。彼女はこっちをオーガのような目つきで睨みつけているが、その首は何故か無理矢理右側に向けられている為かあまり怖くない。


「さっきも受け付けであんたに言ったでしょ! めまいが酷いんだからあまり大声出さないでよ!」


「はいはい、今はあなたの方が大声だから、静かにしましょうねー」


「うっ」


 気配を消し去ったかのように側に立っていた白衣を着たマイお婆ちゃんの突っ込みをくらって、巨乳お姉さんは一瞬絶句した。しかし再び眦を吊り上げると苦しい体勢のまま、僕と、ついでにお婆ちゃんにもガンを飛ばす。


「ていうか何よこのヤブ! めまいによく効く体操って言ってたけど、全然治らないじゃないのよ! ボケたんじゃないのあんた!? 金返せヤブ!」


「まだ払ってもらってませんよ。じゃあ三十秒経ったから次の体位に移りましょうね」


「グガボキ!」


 胸と同じくらい凶悪な暴言もどこ吹く風、お婆ちゃんは彼女の首をゴキゴキ動かし、長い耳をユラユラ揺らし、今度は左側のほうに向ける。おかげで僕はお姉さんの怖い視線攻撃から逃れることが出来た。


 そんなこんなで、いつの間にか僕もお婆ちゃんを手伝って、お姉さんの豊満な身体を大根みたいに横向きに寝っ転がしたりベッドに座らせたりし、その度にお姉さんは、「ゴギャア!」だの「ウゲエ!」だの死にかけの鶏みたいな悲鳴を上げたけど、腰掛けたままで右側を向かせた途端に、「あれ?」っと言ったきり静かになった。


 やがて彼女は先程までとは打って変わって満面の笑みを浮かべてお婆ちゃんに抱きついた。


「ありがとうマイ! 完全に良くなったわ! やっぱあんたって名医よ! 天才だわ!」


「あれあれ、ついさっきまでヤブとか言ってたくせに……」


 そう突っ込みながらも、お婆ちゃんもクスクス笑っていた。二人は本当に仲良しのようだった。


「でも凄いわ! あんなに悩まされためまいが綺麗さっぱり消え失せたわ! あれってどんな神秘の技なの!?」


 ようやくお婆ちゃんを解放したお姉さんは、細い顎に手を当てて真剣に悩んでいる。それは僕も同じだった。見ていてもさっぱり理屈がわからない。


「あなたのめまいは、魔染前には良性発作性頭位めまい症と呼ばれた病気です。これは特定の頭の向きを取ることによって起こるめまいで、その原因は耳の奥にある内耳と呼ばれる器官にあります」


 お婆ちゃんは自分の小さい頭の耳の中を指し示す。僕とお姉さんは神妙にしてお婆ちゃんの話を聞いていた。


「さて、内耳は全体的にカタツムリみたいな形をしており、その触覚に当たる部分の三半規管という場所では身体の回転を感知する役割があるんですが、そこでは耳石という小さな粒が膜の上にくっついており、この耳石が頭の動きに合わせて動くことで脳に情報を伝えるのです。ここまではわかりますか?」


 お婆ちゃんの不思議な講義は身振り手振りを加えて行われる為、結構患者さんには評判が良い。僕ら聴衆二人は黙ってコクコクと頷いた。


「さて、この病気ではその耳石が何故か膜から剥がれ落ちて三半規管の中を転がり続け、ちょっとの動きによって身体が回転したという誤った情報が脳に行ってしまうのです」


「わかったわ! ひょっとしてさっきの首振り体操は、その耳石とやらをどっか隅の方に追いやるってわけね!」


 途中でお姉さんがくちばしを挟むもお婆ちゃんは相変わらず穏やかそのものだった。


「ええ、ほぼその通りです。耳石をあまり影響のない場所、つまりは三半規管の外へと出すわけです」


「えーっと、それって靴の中に入った石っころを、靴を逆さまに振って取り除くような感じ?」


「あら、あんた上手いこと言うわね!」


 つられて僕も会話に参加してしまったけど、お姉さんに感心されたのでちょっと、否、とっても嬉しかった。


「そうですねロマン。でもこの方法を思いついたお医者さんは靴ではなくてホースっていう水を流す管を使って三半規管の模型を作って自宅の納屋で実験したそうですよ。賢い人がいたものですね」


「「へー」」


 僕とお姉さんは同時に感嘆の声を上げた。


「おーい、まーだ待たせる気かーい!?」


「いっけね! 忘れてた!」


 慌てて僕は廊下へ飛び出すと、声の方へ向かって全力で駆けていった。



「ありがとよ婆さんと少年! また困った時に来るからな!」


「それはありがたいけど、また怪我しないように気をつけてくださいねー! 後、デート頑張ってくださーい!」


「おうよ、任せとけ! んじゃなー!」


 僕は炎昼の巷に威勢良く去り行くリザードマンに向かって大きく手を振り見送った。彼の症状は比較的軽かったので傷口に軟膏を塗って布を当てた後から包帯で巻いただけで処置はすぐに終わった。今日もちゃんと売り文句通りの仕事がこなせて喜ばしい限りだ。ちょっとは待たせちゃったけど、あのくらいなら合格点だろう。


「へーえ、結構上手いことやってるじゃない。少しは様になってるわよロマン、フフン」


 いつの間にか待合室のソファーに陣取っている黒い鞄を肩から下げた巨乳魔術師が、僕を横目で見ながらほくそ笑む。褒められたのは嬉しいけど、相変わらず高飛車で上から目線のお姉さんだ。その真向かいには、診療を終えたばかりのマイお婆ちゃんがニコニコ笑顔で腰掛けている。もう患者さんもいないし、小休憩といった趣きだ。


「その調子だと、めまいの方はすっかり良くなったみたいですね。お会計も済んだことだし、とっとと帰って休んでくださいね」


「おいコラ少年、患者に対してそんな邪険にすることないじゃないのさ!」


「フフ、昔を思い出しますね」


 お婆ちゃんが待合室の壁を見つめながら遠い目をする。そこに妖精のノミで掘られた過去の浮き彫りがあるかの如く。


「昔って……どういうこと、お婆ちゃん?」


「いえ、何でもないわよ、ロマン。忘れてちょうだい。最近疲れが溜まっていて、余計なことを言ったりしてしまうのよ」


「マイ、あんた大丈夫? 確かに顔色がちょっと悪いわよ。なんか水不足で枯れかけてる道端の草みたいよ。ちゃんと水分補給してる?」


「相変わらず失礼な例えですが、お気遣いなく。薬草茶を良く飲んでますし、これくらい少し休めば治りますよ。ところで頼んでおいた例の物は持ってきてくれました?」


 お婆ちゃんは僕の問いには答えず巨乳お姉さんと会話し、なし崩し的にうやむやにしてしまった。


「はいはい、例のアトリビュートならこれこの通りよ。これ発見するのとーっても苦労したんだからね! 大事に扱ってよ!」


 兎お姉さんは鼻息荒く鞄を引っ掴んで開くと、中から小柄のまな板程度の大きさの薄い黒い板のような物を取り出した。板の下部からは赤やら青やら白やら色んな色の紐のような物が何本も垂れ下がっている。今まで見たことも聞いたこともなく、何に使う物なのか、僕には見当もつかなかった。


「おお、遂に見つけたのね! 凄いわ! ありがとう!」


 途端にマイお婆ちゃんの顔が爆発する夏の太陽よりも明るく輝いた。


「アトリビュートって何?」って聞く僕に対し、二人は意外そうな表情でこちらを凝視した。


「あれー、この子ったらトゥルースシーカーを目指しているくせにそんなことも知らなかったのかねぇ……」


「まぁ、まだまだおこちゃまだからしょーがないわよ、マイ」


「ななななんでお婆ちゃんがそのこと知ってんだよ!?」


「だってうちに来るトゥルースシーカーの患者さんの対応しているあなたの様子を見たらそりゃ嫌でもわかりますよ。もっと気持ちを表に出さない術を身に着けることだわね、フフッ」


「……」


 落ち込む僕の頭に手を置いて、お婆ちゃんは優しく毛づくろいするかのようになでなでした。


「さて、アトリビュートっていうのは魔染前の遺跡から見つかる遺物の中でも非常に珍しく貴重な物のことを呼びます。そもそも本来の意味は神様の持っていた不思議な力を持つ道具のことで、人間たちの技術力の結晶である様々な機器類が、あたかも魔法のような力を秘めていることからトゥルースシーカーの間で言われるようになったそうですよ」


「へー」


 僕はお婆ちゃんの説明を聞きながら、さっきまでとは違ったまなざしでそのアトリビュートを見つめた。薄汚い古ぼけた板だった物が急に輝きを放ったように感じるから、現金なものだ。


「で、これはどんな凄い力を持ってるの!? 僕にも貸してよ!」


「あんたねぇ……玩具じゃないのよこれは。これを手に入れるためにどんだけあたしが遺跡の螺旋階段を上り下りして目玉がぐるんぐるんになったかわかってんの!?」


「ああ、それでめまいが……」


 気の毒そうな目付きになった僕に対し、巨乳お姉さんは胸を更に突き出して偉そうにふんぞり返る。


「まあまあ、まだ子供なんですから、そのくらいにしてあげなさい。いいですかロマン、これは脳の中にある自分の記憶をこの板に映し出してくれるという、信じられないほど素晴らしい機能を持っている『ムネモシュネ』というものです」


「えええええ!?」


 あまりの衝撃に、僕の猫目が明らかに普段の三倍くらいに開かれたように、自分でも確信出来た。


「このコードと呼ばれる紐を頭の然るべき位置に着け、板を日光に当てると作動するそうです。かつて私が古い医学文献で見かけたため、ありそうな遺跡をピックアップして探してもらったんですよ」


「ま、あたしほどの名うての実力者じゃないとそんな情報だけじゃ雲をつかむようなものだけどさ。感謝しなさいよ!」


 相変わらず鼻高々のお姉さんだったが、そんなことよりも僕はそのアトリビュートの方に興味津々で、全く話を聞いていなかった。



 かつてこの地に別の高度な文明が栄え人間という種族が世界を支配していたが、「魔染」の日を境にどこからともなく現れた魔族が魔物を従え人間達を大量虐殺した。それ以降世界に魔力が満ち、人間が変化した魔法を使える獣人が現れ、人間は姿を消した。そして獣人と魔族の争いは今も続いている。因みにトゥルースシーカーとは、「魔染」以前の世界について調査し、魔染の原因を究明する者達のことである。これらの知識は昔話のようにマイお婆ちゃんが寝床で僕に語ってくれた。


 僕には両親がいなくて、物心ついた時からずっとお婆ちゃんにここルネスタ国の王都シングレアで育てられてきた。両親はどうやら何かの事故で亡くなったらしいけど、お婆ちゃんは何故か詳しくは教えてくれない。お婆ちゃんの職業は低級治癒師といって、上級治癒師のように魔法ではなく薬などを用いて治療するものだ。割と地味目でなり手の少ない職だが、お婆ちゃんの営む治癒所は腕がいいと評判で、馴染みの患者さんも多くて賑わっている。人に感謝されてやり甲斐もあり、僕も決して嫌いじゃないんだけど、冒険を夢見る年頃なので、どうしてもトゥルースシーカーの方に心の天秤が傾いてしまうのだ。ま、仕方ないよね!


 しかし心配なのは僕自身の将来よりもお婆ちゃんのことだ。ここ数ヶ月、別に咳をするわけでもないんだけど体調が優れず、治癒所を休むことが増え、あれだけ毎日折っていた大好きな折り紙もほとんどしなくなったし、昼寝している時は、僕がいくら揺さぶっても叩いても死んだように眠ったままだった。巨乳お姉さんがいみじくも指摘した通り顔色も患者さんより悪いことが多い。治癒師は自分の身体のこともわかっていると思うんだけど、お婆ちゃんに、「何かの病気なの?」と尋ねても、「単なる老化現象だよ。皆歳をとるとこんなものなのよ」と答えるだけで、つまりは相手にされていない感が強い。家族なんだから正直に言って欲しいんだけど、まだ5歳の僕なんかじゃ相談相手にもならないんだろうか? 正直、早く大人になりたい。


 そんなモヤモヤした日々を送っていたが、あのアトリビュートがうちに来た日から10日後、ようやく暑さも少しばかり和らいで来た日の夜、急にお婆ちゃんの容態が悪化し、倒れた。



「お婆ちゃん、お婆ちゃん! しっかりして!」


「ありがとう、ロマン……大丈夫だよ、ちょっとフラッとしただけだから……休めば良くなるわ……」


 こじんまりした質素な部屋のベッドに横たわり、もはや萎びた水草色となったお婆ちゃんが気息奄々と僕に答える。だが、僕にはその言葉が嘘だとわかった。こう見えても僕だってお婆ちゃんの助手をやってきたんだ。そしてその経験には亡くなる人を看取ったことも含まれている。皆、亡くなる間際には荒い息をし、呼吸するたびに下顎や肩が動くようになり、全身で迫り来る死に抵抗した後で燃え尽きたように動かなくなるのだ。


 お婆ちゃんはまだそこまでの呼吸状態ではないけれど、いずれ時間の問題だということが手に取るようにわかった。何も出来ない僕は目の前で人が死ぬ度に無力さを噛み締めたが、今回はそれどころの騒ぎではなかった。彼女は僕のたった一人の肉親で、世界中で一番大切な人なんだ。死神なんかに簡単にくれてやるもんか!


「お婆ちゃん、元気出して! 僕、お婆ちゃんが死んじゃったら生きていけないよ!」


「あらあら、まだ若いのに『生きていけない』なんて台詞簡単に使っちゃダメよ……それよりもロマン、あなたに一つ頼みがあるの」


「わかったよ! 何でも言うこと聞くから無茶しないで!」


 青息吐息のお婆ちゃんは無理に身体を起こそうとするので僕は慌てて制止した。


「ありがとう、ロマン……ほら、この前兎の女性が届けてくれた物があったでしょう? あれをここに持ってきて……そこの窓際に立てかけてあるから」


「それって確か……アトリビュートってやつ!?」


「そう……ムネモシュネのことよ。そして今から説明するからコードを私の頭に繋げてちょうだい。人間と私達獣人の頭部構造はちょっと違うけど、猫型獣人なら形状が似ているしほぼ問題なく使える筈よ……理論上は」


「え……!?」


 僕はその場に石化したように固まった。それが何を意味するのか理解するのに時間を要したから。


「つ、つまり……」


「ええ、今から私の過去の記憶を全てあなたに見せます。どうしてあなたに両親がいないのか、あなたと私の本当の関係は何なのか、今まで何度話そうと思っても、この春の日差しのような温もりを壊したくなくてどうしても伝えられなかったの……ごめんなさいね。でも、いよいよ私もお迎えが迫ってきたことだし、真実を隠し続けるわけにはいかないものね……」


「……」


 ショックで次句を継げなくなった僕だったが、お婆ちゃんがゴホゴホと苦しそうに咳までし出したため、急いで窓際に走り、言われた通りテキパキと用意をした。今は何も考えず身体を動かしたい気分だった。


「よしよし、ちゃんとまだ動くようね……すごいわね、五百年前の骨董品なのに……」


「うわああっ!」


 少し調子が戻って身体を起こし、頭から色とりどりのコードをぶら下げたお祭りのお飾り状態のお婆ちゃんが、板の横にある小さな出っ張りをポチッと押すと、ブーンという虻の羽音のような音とともに今まで墨を流したように真っ黒だった板の表面が突如白く輝いたので、僕はひっくり返りそうになった。


 板はしばらく部屋のランプよりも明るくそのまま発光したままだったが、そのうち徐々に落ち着いてきて、やがて一つの非常にリアルな絵を結んだ。


「こ、これは……ここ!?」


 何とその絵は正に今いる部屋そのものだった。但し今より少し綺麗で新しい気がする。しかもその絵がまるで現実世界のように刻一刻と移り変わり、動いており、何と音まで聞こえるのだ。詳しく言うと部屋の窓側の机に座っている誰かの視点のようで、分厚くて古い本を広げ折り紙を折りながら何やら怒鳴っている。因みに視界の隅に置かれた手鏡には、猫型獣人の少女が鬼の形相を浮かべていた。


「ったく何でぇこのわけわからんクソ折り図はよぉ! 一時間こねくり回してても全然進まねぇぞこん畜生! 誤植じゃねぇのかこのクズ本!? 大体こんなに引き剥がし折りなんぞしたらマジで引き剥がれちまうわボケェ! 腐れ◯◯◯本め水に沈めてウェットフォールディングしてやろうかゴラアアア!」


「……」


 お婆ちゃんは無言のまま、板の別の出っ張りをプチッと押した。途端に像はモヤのようにぼやけ、崩れていった。


「ひょ、ひょっとして今のって……」


 僕は恐る恐る質問した。普段の温厚な性格とは掛け離れてはいたが、あの姿は……


「ホホホ、あれは昔の私です。あの頃は難しい折り紙を徹夜で折っていると、つい興奮して我を忘れてしまったのよ。お恥ずかしいわ」


「ってか人格変わってるレベルだよあれ! 兎お姉さんよりも酷いよ!」


「さ、次行ってみましょう」


 僕の全力の突っ込みを軽やかに置き去りにして、彼女は板のあちこちをいじっていた。するとまたもや板に何かの画像が出現した。


「げっ、魔物!?」


 僕はそこに映し出された巨大な茶色いミミズのような醜悪な姿に慄いた。全身にできものみたいなボコボコがあり、口からは粘液の糸を引いている。どうやらミミズの怪物はどこかの遺跡の中のような石壁に囲まれた、宮殿の大広間よりも広い室内で暴れ回り、その攻撃から数人の冒険者と思しき人影が逃げ回っている様子だ。室内には所々石像が立っているが次々にワームに砂糖菓子の如く破壊されている。


「ああ、これは私が初めて『折り神』に目覚めた時の記憶よ」


 お婆ちゃんは懐かしそうに微笑むと、まるで吟遊詩人のように、この世界の秘密に関する、想像を絶する壮大な物語を紡ぎ出した。


第2章

「皆、一箇所に固まるな! バラバラになれ! 無理に出口に近寄るな!」


 戦士のアーテンが大振りの剣を右手だけで振りかざしながら牙の尖った狼の口を大きく開いて咆哮する。このパーティーのリーダーにして狼型獣人の熟練のトゥルースシーカーだ。左腕を失うまではSランクの冒険者だったらしい。年季の入った金属製の鎧がそれを雄弁に物語っている。全身を波打って荒れ狂うワームに果敢に立ち向かっていく様はまるで凶暴なドラゴンに挑む伝説の勇者のように私の目に映った。だが、敵もさる者。怪しげな緑色の粘液を吐き出すため、容易に近づくことは出来ない。


「アーテン様! 今、補助魔法をかけますからこちらに来て下さい! あれって接触してないと使えないんです!」


 部屋の隅から、兎型獣人のルテナの悲痛な叫びが響く。黒ローブ姿の魔術師の彼女は修行を積めば様々な便利な魔法を駆使出来るのだが、まだまだ若手のため、現在は火球や防御率上昇、高速化など簡単な初歩的魔法しか使えない。因みに彼女がアーテンにほの字なのは全メンバーが知っていることである……アーテンを除いて。


「そんなの無理に決まってるだろルテナ! それよりもあのデカ虫をとっとと丸焦げにしちゃえよ!」


 私の傍らに立って盾を構える狼型獣人の少年ことイムランが、ルテナに鋭く突っ込む。革製の鎧を身に着けた駆け出し戦士の彼はアーテンの親戚の子供で、幼い時に両親を亡くしたらしく、捨て子だった私とは何かと共通点がある。アーテンに育てられ、同じ道を進んだ彼だが、おっちょこちょいなのがたまに傷で、幼い頃からしょっちゅう怪我をして、うちの治癒所によくやって来た。お陰でとても親しくなったのだが、当時から騎士道精神が強く、近所の悪ガキ達に親無し子だと虐められる私をよく庇ってくれたものだ。現に今も私のことを守ってくれている……私がこのメンバーで一番足手まといってのもあるんだろうけど。


「無理よ! 今火炎魔法なんか使ったらアーテン様を巻き添えにしちゃうわ! そんな簡単なこともわからないの、イムランのクソボケアホんだら! もしアーテン様のお美しい毛並みが少しでも焦げたらあんたの皮を剥いでトイレ用の雑巾にしてやるわタコ!」


「うっ」


 突っ込みのお返しに言葉の刃が降り注いできたため、イムランはつい胸を押さえてうずくまりそうになったが、さすがに持ちこたえた。だが、確かにルテナの言う通り、目まぐるしく移動するアーテンを避けてワームにだけ攻撃魔法を命中させることは至難の業だろう。


「ああ、こんな時私に力があれば……」


 低級治癒師の私は戦闘能力が一切なく、しかも体力も魔力も少ないときている。珍しい遺物やアトリビュートに目が無いためパーティーに入れてもらったとはいえ、はっきり言ってお荷物以外の何者でもない。戦闘中に仲間が怪我をしてもすぐに治せるわけでもないし、せいぜい松明を持って邪魔にならないようこうして立っているくらいが関の山だ。情けなくて死にたくなる。


「気にすんなマイ! お前の治療が役に立つことは皆が知っているし、戦いなんか俺達に任せてお茶でもしばいていりゃいいんだ! お前のことは何があろうとこの俺っちが守ってやる!……ってうがああああ!」


 落ち込む私の前で格好良く宣言したイムランだったが、私が頬を染めるよりも早くワームの長い尾部の先端が鞭のようにしなって私を刈り取ろうと襲ってきた。イムランは一声絶叫しながら即座に私の前でかばい、そして盾ごと壁に向かって吹き飛ばされた。


「イムラーン!」


 絹を裂くような私の悲鳴と同時に彼は石壁に激突し、白目を剥いて床に崩れ落ちた。どうやら気絶したようだ。


「あああ……」


 私の足元から絶望が全身に向かって這い上がり、松明を持つ手がワナワナと震える。私のせいだ。この遺跡に折り紙関係のアトリビュートがあるかもしれないなんて言って皆に探索を頼まなければ……。


「挫けるな! 目ん玉かっぽじって石畳をよく見ろ! 凡人からすれば単なる床でもお前ならその真価がわかる筈だ!」


「!」


 突如私のすぐ側から聞きなれぬ少年のような声が響いたため、私は思わず松明を取り落とした。急いで見渡すも仲間の3人とワーム以外の存在は見当たらない。謎の声は上着のポケットから聞こえた気がしたけれど……恐怖による空耳?


「ここだよここ! 早くしろ!」


「ま、まさか……」


 私は恐る恐るポケットに上から触れた。そこにはさっきここで拾った皮で折ったドラゴンの折り紙が入っているだけだったが……何とモゾモゾと蠢いていた。

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③ORIKAMI モロ平野 @moroheiyaaaaa

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