第2話 地の国編ー2
まったくこの物語の場面展開は、幾度となくこの男の目覚めから始まる。
どれほどの時間気を失っていたのか、彼には分からない。
仰向けのまま目を開けて、冴えない頭で頭上の暗闇をぼんやり眺める。
——あれ、俺、どうしてこんなところに。背中が痛い。砂? 地べたで寝てたのか……? あぁ、いや……、違う、そうだ、そうだった!
落雷が如き衝撃で絶望の全てを思い出し、寝坊を予見したサラリーマンのような瞬発で上半身を起こした……と、同時にである。すぐ隣、神大和の耳元にて、女の叫び声が放たれた。
「きゃあっ!」
「うわぁ!」
互いに背をのけぞらせ、暗闇の中で
初対面。ほとんど裸体の若い男女。性欲。
女はともかく、神大和は、そんな居心地の悪さや邪心を感じる余裕もなく、ただひたすらに、感動し、安堵し、崩壊しかけていた精神が救済され、保持しきれない涙がすぐに顎先にまで至った。人はひとりでは生きていけないとは、よくいったものである。
女は、気を失い倒れていた神大和の介抱をしているところであった。
神大和と同様に、ひとり、暗闇の洞窟を
そこで裸の男を発見した女は、憐れみ半分、目のやり場の確保を半分、自身の衣服——動物の毛皮の継ぎはぎで作られた野性味溢れるワンピースである。骨盤や背中の辺りの一部は破け、闇をも照らすかのような、といえば過言ではあるが、そう比喩したくなるほどに透き通った肌が露わになっている——のスカート部を切り裂き、彼の腰に巻いてあげた。そうして目覚めを待ち、
ところで、作者はさきほど女の悲鳴を「きゃあっ!」と表現したが、実際は言語が違う。
「〇ψ? ЙЖ×△Ёщ?(大丈夫? あなた、どうやってここに来たの?)」
「ここがどこなのか教えてほしいんですけど、出口を知らないですか?」
タイミングが重なった互いの第一声で、神大和は、彼女とのコミュニ―ケーションが不可能であることを察した。とても人が住んでいるような場所には思えない洞窟で、女ひとり、裸体の自分を助けたというからには、彼女にも余程の事情があって、つまり自分と同じ境遇であることを想像したのだが、英語、ハングル、ロシア語、フランス語、どうにも自分が生前に聞いたことのある言語の何れにも該当しないように感じられた。
女の方はというと、まるで理解が出来なかった。洞窟育ちという特異性によるものが最もだが、言い換えるのであれば、彼女はこの上ないほどの箱入り娘である。人間は地域によって言語を変える、という概念がないのだ。いや、実際、この中国という世界はひとつの言語だけで統一されているから、それすらあまり関係のないことではあるが。
ジェスチャーを主に意思の疎通を試みるが、9割9分伝わらず、さてどうしたものかと無言になると、いよいよ気まずい。
半ば進展を諦めて、神大和は食糧問題に関して思慮することにする。依然、「異世界転生だワーイ」だとか、「こっちの世界では自由に生きてやるぜ」だとか、高揚感に浸る余裕はない。
飢え死にに対する恐怖。それにどうやら、先ほどの不思議な力の使用によって随分とエネルギーを消費したようだ。湧き立つ空腹感に一度意識を向けてしまうと、より一層腹が減った気になる。
グゥ~~と、如何にもな腹の虫の鳴き声が洞窟内に響き渡った。
恥ずかしいものだ。隣に座ったままの女に向けた神大和の顔は、少々赤い。
虫の声を聞いた女は、ニコり、目を細め、母のような優しい笑みを浮かべた。この地で育った彼女だ。神大和と違って不安や焦燥の気配はない。
立ち上がり、男を見つめる女。
優しい笑みを保ったまま片手でちょいちょいと男を手招きすると、随分と丈の短くなってしまったワンピースのスカート部の前後を両手で抑え、緩やかに振り返り、前をいき始めた。いじらしい所作である。
置いていかれないように急いで後を追う神大和。
目の前には常に女の後ろ姿。
スカート丈まで伸びた
ついつい目がいってしまうと、前を向いたままのはずの女が両手を後ろに組み、再びスカートの裾を抑えたものだから、罪悪感に駆られ、湧いてしまった性欲を抑制することに思考の数割をもっていかれた。
案内された場所に着いたのは、出発から3時間後である。
歩数でいえばそれほどでもないのだが、歩きっぱなしの一日である。足を指さして「疲れた」と一応口にしては、頻繁に休憩を挟む進行となった。
ふたり座り込んでは暇つぶしがてら、例えば石を指さし、「石」と言う。すると女も特殊な言語で「石」という意味の言葉を発す。
そうして赤子の言語学習のようなことを繰り返すうちに、神大和は、あのアメジストの能力に次ぐ新たな可能性を自覚した。
僅か3時間にして、女が発する謎の言語の意味を理解できるようになってきたのだ。
しかし何も、不思議な力で、不思議な言語を、不思議と理解出来るようになってきたわけではない。正確には、一度認識した言葉を、物事を、確実に記憶することが出来るようになっていたのだ。その能力は生前の自分を振り返ると、明らかな違和感である。神大和の学力は並みレベルであったし、何なら英語などの言語学は苦手な方だった。
人間の脳が持つ本来の力とは、地国でいうところの天才のそれなのだ。
石の呼称を共有したら、今度は女の方が同じ石ころを指さしたまま「小さい」という意味の言葉を発す。
神大和は理解出来ない。首を傾げて分からないアピールをすると、今度は形状の酷似したワンサイズ大きい石ころを隣にもってきて、「大きい」という意味の言葉が発せられる。
それでも神大和は理解できない。
女は顎に指をかけ、ぶつぶつと独り言を言うと、明らかに何か閃いたように顔を明るくさせ、両椀を広げてまた「大きい」と、先ほどと同じ言語で言った。
神大和はようやく理解する。
こんなことの繰り返しばかりである。
されど、覚えた言葉を二度と忘れないのだから、見通しのつかない洞窟生活を生き抜いていくためには、有意義な遊びであった。
さて、神大和が案内された場所。
周辺の環境は変わらず、引き続き暗闇の洞窟の中であるが、女のワンピースと作りの似た毛皮の布団が一枚、寂しく敷かれている。それを囲うように本棚が4つも。上中下段、ほとんど隙間なく、背表紙に不思議な言語が書かれた本で埋められている。しかしもっとも目を引くのは、枕の奥に据え付けられた祭壇のようなものだろう。台上には火のついていないロウソクが二本と人の形をした木像が置かれただけの質素な祭壇だが、洞窟内の人間の住み家としては特に異質である。
——どうしてこんなところで暮らしているのか。どうやって生きてきたのか。まさかずっとひとりで……。
孤独の暗闇に蝕まれ、1日経たずして発狂寸前にまで至った神大和である。恐らく「ただいま」と言って布団に腰を下ろした女の
それから実に半年もの期間。神大和と女はここで共同生活を送ることになる。
彼と彼女の出会いは、この半年という長い期間を経て、本当の「出会い」となるのだ。
中でも3か月が経った頃の出来事だ。神大和はカタコトながらも、不思議な言語を扱えるようになっていた。(尚、今後の登場人物も含めて会話文はこの不思議な言語となるわけだが、当然日本語で綴っていく。主人公のカトコト具合も、いちいち訊き返しの
布団の上にふたり並んで座り、この日の言語学習を終えて、女がパタンと教材の本を閉じる。こじんまりとだが、周囲1メートルは彼女の能力で宙に浮かされた石ころによって、明かりを灯されている。
「そろそろ、しゃべれるようになったかな。あなたについていろいろと訊きたいの。まず、名前。私の言っていること分かるかな? 答えれるかな?」
「お姉さんが教えてくれたおかげです。はい、えっと、名前ですね……」
神大和は返答に悩んだ。大したことではない。住居と飯にありつけ、ようやく落ち着いて転生という事実を実感するようになっていたから、生まれ変わりの意気込みとして名前を変えるのもありかなと考えたのだ。前にも言ったが、彼は生前、人に怒りの感情を表すことが出来ない気弱な男であった。学校では虐められがちだったし、勤め先で誰かがミスをすれば文句のひとつも言わずに黙々とフォローする。そういうタイプの人間が損な立ち回りを強いられることは、これ以上説明する必要もないだろう。そして彼は自身のアイデンティティに対して否定的だ。
「カミトっていいます」
神大和はオンラインゲームなどで使っていたハンドルネームを名乗った。
転生、よく分からない不思議な力、暗闇の洞窟で女と出会う。ちょうどゲームのような展開だからこそ、咄嗟に浮かんだのだろう。
「へぇ。不思議な名前だね。じゃあ改めてよろしくね。カミト君」
「はい。あの、お姉さんの名前も訊いていいですか」
神大和改め、カミトがそう訊くと、女はしばしば彼の前で見せてきた侘しい笑顔を浮かべて、軽く握られた右手の拳を自分の胸に乗せる。訊いてはいけないことだったのかと思わされる所作である。
「私はね、名前なんて……ないの」
「そう……なんですか。でも、じゃあ、そうだな……、お姉さんのことなんて呼ぼうかな」
ハハハ、と
それに気が付いた女は表情を変えず、彼に目を合わせた。
「そのままお姉さんがいいよ。なんだかね、毎日言葉を教えてあげてると、こういうのを姉弟っていうのかな。分からないけど、そんな気になってきたから、しっくりくるんだと思う」
締めにニコり、侘しさの消失したお姉さんの暖かい笑み。
カミトは少々雑味の含まれた安堵の思いで、
「分かりました」
と、それを承諾した。
こんな状況でお姉さんのことを性の対象として捉えるような真似、奥手で気弱なカミトは自制を働かせているわけだが、やはり若くて綺麗な女性が「姉弟」のような立ち位置に自分を据えているということを聞かされると、男としての自信が失せるものだ。少々雑味である。
「それで、カミト君はどうやってここに?」
「あ、はい。実は——」
互いが互いに気になっていること、言語の修得によって、ついに共有が叶った。
「——という感じで、僕にもよく分からないんです。こことは違う世界で死んだはずなのに、急に神が現れて、なんの目的も告げられずに、この洞窟に召喚されて……」
※カミトの「僕」という一人称に違和感を感じられただろうか。プロローグからしっかりと読んでいただけていることに感謝する。そう、彼は心理描写においては「俺」を使用しているが、基本はそうなだけ。人前では「僕」を用いる。
決して後付けではない。
神との対話時点では「俺」だったじゃないか? 彼はかなりテンパっていたのだ。
決して後付けではないぞ。
あぁ、神とタイトに対話するカミト。チェケラ。
すいません。重厚な雰囲気に戻します——。
どうせ信じてもらいえないだろうと思っていたカミトは、頭のおかしいことをぬかしている自分の姿がどうにも恥ずかしく、終始伏見がちに語った。しかしいつまでたっても反応のないお姉さんに気が付き、彼女の様子を伺ってみると、そこにはぽっかり口を開けて固まってしまっている顔があった。懐疑的な様子でもない。馬鹿げた話に呆れた様子でもない。純粋にびっくりした様子である。
そして、
「その神様は、力に己惚れる人々がひどいものだと、そう言ったの?」
明らかに何か思い当たるところがある様子である。
「はい。僕がいた世界では人間の能力なんてせいぜい……、なんでしょう、考えること、くらいでした。だけど、ここは違うみたいですね。その知力自体もすごいものになってますけど、物を浮かすような念動力とか、お姉さんがいつもやってるような、水を出したり、火を点けたり、僕にとっては全部、いまだに理解しきれないことです」
「そう、なのね……」
心ここに在らずである。
お姉さんの癖。何か考え込むときは右手の拳を軽く握り、それを自身の胸に乗せて、右下に黒目を向ける。
既にその癖を理解していたカミトは空気を読み、会話をやめた。
毎日目にしても慣れないお姉さんの短いスカートから一生懸命目を離して、散らかっていた本の一冊を読むつもりもないくせに手にする。
奥手で気弱な分、彼は物語の主人公に似使わず、少々ムッツリだ。
そうして無言のまま数分経った。
手持ち無沙汰になって、読むつもりもなく手にしたはずだった本にいよいよ目を通し始めた時、お姉さんが口を開ける。
告げられた言葉は、ある意味、カミトが今まで現実逃避してきたともいえる事柄だ。
「カミト君。この世界の地上ではね、争いが絶えない……らしいの。理由はその神様? が言った通り、力に己惚れた人たちの横暴だけど、もうひとつ、人種間による差別ね。だから、それを告げられてカミト君がここに、私の前に召喚されたということは、きっと、あなたはこの状況を打開する人として選ばれたんじゃないかしら」
もちろんカミトも薄っすらと考えていたことだ。
神を自称するピンクジャケットラッパーによって蘇生され、抽象的ではあったが、何やらひどい状況だという世界の説明をされ、「期待しておるぞ」である。
自分に何らかの使命が下されていることは予想できるし、ならば、お姉さんがたてた仮説が最もしっくりくる。
だからこそカミトはあまり考えないようにしてきたのだ。
さぁさぁ、3回目の、読者の皆さんにも、考えてもみてほしい。
世界を救えと言われて、よしがんばるぜ! なんて意気込む人間は、どこかの国の大統領なり、慈善団体の長なり、よっぽど拗らせた中二病患者なり、それくらいのものだろう。(最後の例えで随分とそのレアリティが薄れたかもしれないが)
実感など湧きやしない。何より、嫌である。きっと命の危険もあるだろう。
妄想は妄想だからこそ楽しいのだ。
考えるほどにカミトは憂鬱な気分となっていくが、しかし、お姉さんの言葉にはひとつ、気がかりなところがある。
「お姉さんのいるところに召喚されたから……、というのは、どういうことですか?」
その至極当然な疑問を引き金に、奇しくも、カミトにとっては望みもしない世界の救済に向けた歯車が、回り始める。
「うん。そうだね。そろそろ私の話もしないとね」
聞かない方がいい気がしたが、お姉さんの艶やかな唇の動きは止まらない。
カミトはゴクリ、唾を飲んだ。
「私もね、神なの。世界の争いに嫌気がさして、国を捨てた地神。その生まれ変わり、なの——」
死んだら記憶を継承して「現世」に召喚された。あと、神になる。 林堂 悠 @rindo-haruka
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