いつの間にか夏は終わっていた。暑さも蝉の声も風鈴の音もいつの間にか消えていた。汗を掻いたのかすらも覚えていない。気づけば秋になっていた。もう二度と私は夏を感じることはないのかもしれない。遠い記憶の中だけの存在……。


 あの女……初恋の人、雪の人、桜の人。春以来会っていない。名前を思い出した時、私は人間ではなくなる……。あの言葉はきっと真実だろう。人間でなくなることを私は恐れているのか? 人間でいることにまだ未練があるのか? 


 日が経つに連れて過去のことが朧げになっていく。まるで遠くへ消えていくように。同時に人間への執着も少しずつ朧げになっていく。かつて私を苦しめたあの狂気も今は懐かしい。モノクロの映像。現実と非現実が曖昧だからモノクロなのだろう。この世を彷徨う人間たちも自分がモノクロだとは信じないだろう。


 山道を私は一人で歩いている。葉も紅く染った。時折肌寒い風が音を立てて吹き抜けていく。その度に木漏れ日も揺れる。歩みを進めるにつれて頭がぼんやりとしてくる。もう何もかもどうでもいいような気がした。心に浮かんでいたものが一つずつ消えていく。心地のよい気分のまま私は歩き続けた。


 どこまで歩いたのかもう分からない。どこまで歩こうが同じことだ。ふと耳を澄ますと、遠くから川のせせらぎが聞こえた。谷の下に細い川が流れていた。喉が渇いた。


 ゆっくりと斜面を降りて、両膝を突いて身を屈めた。土と水と草の匂いがした。両手で水を掬った。心地よい冷たさ。そして、一気に飲み干した。まだ渇きは癒えない。三回目にようやく喉は潤った。


 手を浸していると一枚の紅い葉が流れていくのが見えた。それを摘み上げようと手を伸ばした時、水面にあの女が映っていた。女……? その頭には確かに二本の角が生えている。前に会った時の美しい容貌とは全く違う醜悪な顔──怒り、哀しみ、不安、恐怖、憎しみの混じった狂気の顔。


 私はゆっくりと後ろを振り返った。そこに立っていたのは、水面に浮かんだ顔とは全く違う美しい女だった。春の時と同じく、女は悲しそうな微笑を浮かべた。


「私のことを思い出しましたか?」


 私は静かに頷いた。


「涼華」


 彼女の名前を呟く。涼華は伏し目がちに顔を背けた。


「ずっと思い出せなかった。でも今思い出した。どうして忘れていたんだろう」


「私が忘れさせたの。もう戻って来ないように」


「……貴女を愛していた。小さい頃に出会ってから。例え貴女が鬼だったとしても」


「幼い貴方はただ無邪気だった。無邪気な故に鬼である私すらも愛してくれた。でも貴方は人間で、いずれ私を恐れるようになる。お互い苦しい思いをするくらいなら、忘れてしまった方がいい」


「でも忘れ去ることはできなかった。貴女のことを夢でも見た。名前を思い出せなかったことがもどかしかった」


「どうして戻ってきたの?」


「人間でありながら人間として生きることができなかったから」


「……そう……そうなのね……」


 そして、沈黙が流れた。私はそっと彼女に近寄って手を握った。涼華の手は川の水のように冷たかった。頭上を見上げると紅葉が風に揺れていた。木漏れ日も揺れている。そして、ひっそりと葉が落ちた。


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再会 武市真広 @MiyazawaMahiro

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