春になって私は故郷へ帰った。都会は私の居るべき場所ではない。


 あの街で暮らした数年間に得られたものは一体何だったのだろう。勉強して、友人を作って、恋人もできた。しかし、今はその全てを失ってしまった。いつの間にか手元から大切なものがこぼれ落ちていったのだ。気づいていたのに私は何もしなかった。手に入れたものをただ失っただけではない。元々持っていたものも失ってしまった。以前の私にはもっと情熱があったはずだ。都会へ飛び出してきたのも、あの情熱の力があったからだ。しかし今では情熱はどこにもない。感情は鈍麻し、精神は怠惰になった。心の中はいつも虚しくて、時折狂気が私の心をかき乱す。


(情熱を失ってその代わりに得たものは狂気か)


 遠ざかる都会のビル群を眺めながら私はそう自嘲した。


 故郷へ帰りたいと願っていた。そして、今それが叶おうとしている。しかし、果たして故郷に私の居場所はあるのだろうか。私は故郷を捨てた。一度捨てたものに居場所などあるのか。だが、仮になかったとしても、私にはここ以外に帰るべき場所がもうないのだ。


(それもこれも自分の蒔いた種か)


 この一言で全ては足りた。都会へ出たことも、夢が破れたことも、傷心のまま故郷へ戻ることも、全て自分の蒔いた種だった。


 駅を降りて改札を出た。満開の桜並木だけが私を出迎えてくれた。風に舞い散る桜、懐かしい土の薫り、それがなんだか嬉しくて私は思わず駆け出した。何もかもが懐かしい。草木の色も、土の匂いも、暖かな日差しも、全てが懐かしい。都会の中でこれらは全て色褪せた遠い過去の存在だった。それらが今自分の手の中にある。体で感じることができる。無性に嬉しくて私は脇目も振らずに走った。


 桜並木の下を駆け抜けて、家を目指して畦道を走った。風が追いかけてきて、桜の花びらが私を追い抜いた。私も負けじと走り続けた。楽しい競争に私はとうとう音を上げた。膝に手をつく。額からあふれる汗が大地へと滴り落ちた。もうすぐ家だ……。


 実家の門を潜った時、ようやく自分が家に帰ってきたのだと実感した。都会での暮らしの中で家族という言葉は過去のものになっていた。過去へ埋没していく中で、家族の存在はいつしか美化された。私を優しく包んでくれるような人々。そこには一つの温かい家庭があり私はその一員だった。


 しかし、こうして実家へ戻ってみると、私の想念は単に美化されただけのものであったことに否応なしに気付かされる。家族に温かみが無かったと言えば嘘になる。しかし、私が理想とする温かみには程遠かった。厳格な父と寡黙な母と実直な兄。それが私の家族だった。家族の中で私の存在だけが不調和だった。父と母と兄の姿だけがこの故郷に調和していて、私がその均衡を壊すのだ。その違和感に耐えられなくなり出したのはいつだっただろう……。


 玄関の引き戸をゆっくりと開けた。家の中は昔と変わらない。匂いもそのままだ。懐かしいと思う一方で、またあの違和感の中で暮らすと思うと、気分は暗かった。かつて私はこの故郷を軽蔑していたのだ。そして都会へ飛び出して、散々に打ちのめされて、結局軽蔑していたその故郷へ戻ってきた。故郷こそ私を軽蔑するだろう。


 程なくして母が姿を見せた。久しぶりの再会を母は喜んでくれた。心なしか老けたようにも見える。母の顔を見た途端に私も嬉しくなって、頭の中にかかりかけていた靄を打ち払った。


「元気で良かった」


「母さんこそ」


 会話はここで途切れてしまった。私は二の句が継げなかった。再会できて嬉しいはずなのに、言葉が出ないのだ。何を話せばいいのか分からなかった。


 故郷へ戻ってきた私を父も母も兄も歓迎してくれた。都会での成果について家族は何も訊かなかった。そのことに家庭の温かさを感じた。だが、その温かさが私にとっては苦痛だった。この良き人々の生活に、私という存在はあまりにも不似合いだ。都会から戻った私はようやく自分の故郷を愛することができた。昔のように軽蔑することはなくなった。しかし、家庭での違和感は都会から戻っても消えなかった。


 友人や恋人は勿論家族すらも、私にとってはどうすることもできない苦しい存在としての「他者」なのだ。そんな私は果たして「人間」なのだろうか? こんな人間が存在して良いのだろうか?


(もしかすると自分は……人間ではないのかもしれない)


 馬鹿げた妄想だと思う。しかし、そう考えると全ての辻褄が合うような気がし始めていた。友人にも恋人にも家族にも拒絶された。私を受け入れてくれる「仲間」はどこにもいない。


(人間でないなら、私は一体何者なのだろうか?)


 問いかけてみても答えは分からない。


 故郷の桜は散るのが遅い。それが唯一の慰めだ。桜が散るように、私の命も静かに消えていくのだろうか。もしそうなら私はむしろ嬉しく思う。人に拒絶され、人として生きられないなら、人に知られることなく死んでいきたい。


「……あの」


 丘の上の桜の木の下で物思いに耽っていると、誰かが声を掛けてきた。その声には聞き覚えがあった。だが、誰なのか思い出せない。振り返って顔を見た時、私は驚きのあまりに言葉を失った。


 いつの日にか見たあの夢の中の女がそこに立っていた。黒い髪と色白の肌、そして桜色の単衣。私は一目で彼女が人間ではないと思った。


「覚えていますか? 私のこと」


 私が首を横に振ると、女は少し悲しそうに微笑んだ。


「……思い出せません。でも、会ったことはあります。顔を覚えているから。それに声も。でも名前は……」


 私が言い終わらぬうちに女が遮った。


「それを思い出したら、貴方はもう人間じゃなくなります」


 粛然とした声なのにその表情は穏やかだった。その顔が私にはまるで神様のように思えた。


 どういうことか問い返そうとした時、突然強い風が吹いた。思わず手をかざした。風が止んだ時には女の姿はなかった。後にはただ無数の花びらが舞っているばかりだった。

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