故郷を離れて都会へ来てから、私の中に「狂気」が芽生え始めた。声なき狂気だ。


 時折この世界の全てが、月並みで何の面白みのないものに思えて、太陽も月も山も海も何もかもが下らないものに見えた。明日世界が滅んだとしてもそれでいい。この世のありとあらゆる下らないものは灰燼に帰して、私が息を吹きかければ飛んで消えてしまうに違いない。いつかそう遠くない未来にこの世界は崩壊する。身勝手な人間たち、決して幸せになれない人類による壮大な「自殺」が行われる! 私はそれに立ち会って見届けなくてはならない。最後の人間が死ぬ瞬間を!


 こうした妄想が何の前触れもなく生まれるのだ。脳内で唐突に映像として再生される。悲鳴を挙げる人々と音を立てて崩れるビル群、空を飛ぶ飛行機は次々と地面へ激突し、海上を走る船も瞬く間に海へと没していく。私はそんな様子をただ眺めているだけ……。


 この狂気の正体は何だ? 怒りか、哀しみか、不安か、恐怖か、憎しみか。狂気から我に返ってから、私はいつも私自身を軽蔑し恐怖する。恋人は私の理解者にはなってくれなかった。あの女にとって私など優しさを向けてくれるだけの都合の良い存在でしかなかったのだ。そして、私もまた都会の住人である彼女を理解することができなかった。


 冬になった。クリスマスの賑わいを避けて、人気のない神社へ行った。神官に話をつけて、一斗缶を貰い、不要な書類を燃やした。私は恋人との思い出の品を真っ先に炎の中に放り込んだ。面白味のないツーショットの写真や安物のアクセサリーだ。写真はすぐに燃え尽きた。アクセサリーはパチパチと音を立てながら少しずつ燃えていく。夏に別れてから今に至るまでに捨てなかったのはきっと未練があったからだろう。未練? あの忌まわしい女に? 忌まわしいからこそ未練があったのではないか? 忌まわしいもの──あの女も都会の瘴気の一つだったに違いない。


 赤い炎が揺らめく様をぼんやりと眺めていると、故郷にも焼却炉があったことを思い出した。自分の描いた自信作の絵を同級生に貶されて、学校の焼却炉で泣きながら燃やした。どうしてそんなことをしたのだろうか。自信作なら他人に貶されても気にする必要なんてないはずなのだ。きっと認めてもらいたかったのだろう。認めてもらったところで何にもならないと分かっているのに。……あれ以来私は絵を描いていない。


 「認められたい」という欲求と「認められなければならない」という義務感は別物だ。前者を捨てることはできても、後者を捨てることは私にはできなかった。だから私は故郷を出て都会へ来たのだ。都会へ来て努力を重ねれば一人前の人間として認められる。そうでなければ私という存在はどこにも受け入れてもらえない。認められないと一人前になれないという思いは今もある。そして、認められることを諦めた私は、もう二度と誰からも認められないだろう。あるいはその思いが「狂気」の原因なのだろうか。


 考えているうちに燃やすべき書類は全て燃えた。水をかけようとした時、冷たいものが頬に触れて消えた。視線を空へ向けると雪が降り出していた。煙が空へ昇っていくのとは逆に、雪は大地へ降り積もろうとしている。故郷も今頃は雪が積もっているだろう。


 ふと以前見た夢のことを思い出した。雪原と月と女。まるでの一枚の絵画のような夢だ。


(あの女はきっと私を待っているだろう。故郷へ帰りさえすれば会えるに違いない)


 我ながら妙なことを考える。あれは夢の出来事のはずなのに。


 既に夜は深まっていた。寒い手を擦り合わせながら私は神官にお礼を言いに行った。丸顔で頭の禿げ上がった神官は、人懐っこい笑顔を浮かべて「一斗缶はそのまま置いておいてください」と言った。都会にも良い人は居る。狂気ばかりではない。こういう人物を見かける度に苦い気持ちになる。


「ありがとうございます。……ところであの犬は今どうしているんです?」


 夏に見たあの白い犬のことを思い出したので訊ねてみた。神官は残念そうな顔を浮かべた。


「ああ、彼はこの秋に亡くなったんですよ。もう年でしたからね」

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