ある暑い夏の日のこと、突然恋人が大学の近くのカフェに私を呼び出した。彼女の行きつけだったこのカフェを私は嫌っていた。無造作な店内と独特の臭いがとにかく不快だった。まるで汚らしいこの街のように思えて。尤も、恋人に遠慮してそれを言い出せなかった私も悪いが。 


 どうでもいい世間話も話し尽くすと、彼女は少しばかり黙り込んでから、私に別れを切り出した。彼女はひたすら言い訳を述べた。いかに私を愛していたか語り始めた時には思わず制止した。どうせその愛に応えなかった私を暗に非難する意味があるだろうから。今目の前にいるこの女は、まるで自分を不幸のヒロインだと思い込んでいるようだが、本当に惨めで不幸な人間はもっと打ちのめされたようにくたびれているものだ。


(君はまだくたびれてはいない。新しい幸せを作るだけの元気があるのだから)


 きっと私以外に男ができたのだろう。そう思うと怒りとも哀しみともつかないような感情が心の中に広がっていった。これが傷心なのだろうか。もしそうだとするなら、やはり私はこの女を愛していたことになる。愛していたからこんな気持ちになるのだろう。この気持ちこそが失恋の痛みなのだろう。でも、それは本当だろうか? 私は本当にこの女を愛していたのか? 初恋の痛みは今よりもずっと辛いものだったはずだが……。


 それから彼女とどんな会話を交わしたのかよく覚えていない。突然水を浴びせられた。水をかけられたことよりも、その動作があまりに静かだったことに私は驚いた。自分の中で「怒り」は常に雷のような「激しさ」と結びついていたから。なぜ彼女が怒っているのか全く分からなかった。勝手に傷ついて、勝手に悲しんで、勝手に怒る。その勝手さが私には羨ましかった。いっそ私も……。


 その後どうなったか私はよく覚えていない。彼女は無言のうちに席を立って姿を消した。服が乾くのを待っているうちに眠気が差してきた。乾ききらないうちに眠気眼のまま会計を済ませた。いくら支払ったのだろう。出際に見た店主である中年男の気の毒そうな顔が印象に残った。 


 店を出てからどう歩いたのか。気がつくと大学の裏手にある神社の鳥居の下にいた。服はもう乾いていた。どうやってここまで来たのか全く覚えていない。蝉の鳴き声がいつもよりずっと静かに思えた。昔ある友達が「彼らは命を燃やして鳴いている」と評した。毎年夏になるとこの言葉を思い出す。彼は今どうしているだろうか。きっと私のことなど忘れているだろう。


 鳥居をくぐって石段を上がる。今年の夏祭りはもう終わった。祭りの日には多くの屋台が広がり沢山の人が訪れる。雑踏を嫌う私は決して来なかったが。樹齢数百年の神木の下に一匹の白い雑種犬が寝そべっていた。人間が大切にしている木でも犬は意に介さないらしい。私が近寄っても起きる気配はない。背中を撫でてやる。腹を撫でてやる。頭も撫でてやる。指先に温かい毛の感触が伝わった。犬はそれでも寝息を立てて眠っている。こうして犬を撫でるのも久しぶりだった……。


(帰りたい……。故郷へ帰りたい……)


 どこからともなく心の中でそんな気持ちが沸き起こった。

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