第7話 さとりの歩み

聡が目をあけると見知らぬ白い天井が見える。

混濁してまとまらない思考に苛立ちつつ体を起こすと、その場にいた医師から話を聞いた。


ここがイベント会場に隣接している病院であること。

対局中に意識を失って運び込まれたこと。

倒れてから1時間程度の時間が経っていること。


説明を終えて聡を診察した医師は、安静するように伝えて部屋を退出する。

1人病室に取り残された聡は、落ちた瞬間を思い出していた。


伽耶の思考は濁流だった。

あっと言う間に侵食され、押し潰された。

思わず身震いする。


対局前、伽耶は好きな女性。

対局中、伽耶の思考に飲み込まれた。何も考えられなくなった。

対局後の今、伽耶に恐怖している自分がいる。


「あれは、化物だ」


思わず呟く聡。

同時に伽耶の笑顔やここ数週間のやりとりを思い出す。


「好きな女性に対して、化物呼ばわりか。ひどいやつだな、俺」


顔を抑えてうめく聡。

伽耶に対する感情がわからなくなってしまっていた。

友情、恋慕、下心。恐怖、後悔、あと何か。


その時、病室のドアがノックされる。

入室を確認する声に心乱れるが、入室を促す。


「神野君、大丈夫?」


伽耶が入室しながら心配そうに尋ねてくる。

平静を装いながら応える聡。


「大丈夫、先生も体調は問題ないって」

「そう、ならよかった」

「あ、対局中断してごめん。あの後どうなった?」

「神野君が倒れちゃって、大変だったの。会場に来ていたお医者さんが病院に連れて行くよう指示してた」

「そっか、ごめん。イベントも台無しにしちゃったな」

「大丈夫よ。他の指導対局は全部ちゃんと勝ってからきたから」


伽耶は軽く笑う。

それを直視できない聡。

善意も悪意もない、思考量という爆弾をもう一度放り込まれたら自分を保てる自信がなかった。

思わず、聡から声が漏れる。


「高木さんはすげえな。あんなに考えられるんだな」

「将棋についてはね。人生かけてるから。神野君もかなり上達してたね」


3面指しに対する賛辞と受け取った伽耶は素直に受け答えしているように見えた。

思考を読まなくても、心地よい感情だけは伝わってくる。

そこまできて、ようやく聡はもう一つの感情を自覚した。


「俺も将棋を指してればあれだけ考えられる様になるのかな」

「うん、神野君は筋いいからね。よければ相手するよ?」

「女流棋士様に申し訳ないけどお願いします。先生」

「うむ、精進したまえ」


聡は伽耶に憧れていた。

考える、考え抜く力。

思考を読める故に必要なかった、自分で考える力。


伽耶のことは好きだが、恐怖と憧憬を抱いている今、隣に並ぶことはできない。

聡は伽耶の隣に並ぶために少しずつ、一歩一歩でも前に進むことを決意したのであった。



後日、大学のベンチで聡が将棋盤を見ながら唸っている。

将棋盤には中断してしまったあの局面。


「指導必要ですか?」

「お願いします、先生」


2人の時間がゆっくりと流れはじめていた。

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さとりの歩み 花里 悠太 @hanasato-yuta

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