とめられなかった羅針盤
大隅 スミヲ
とめられなかった羅針盤
警察官の職務は羅針盤に似ている。
物事を悪い方向へ導かず、良い方向を指し示す。
まだ刑事になりたての頃、教育担当だったベテラン刑事に教わった言葉だった。
その女性の腕に痣ができているということに気づいたのは、水曜日の昼だった。
昼食を取るために入ったランチもやっている居酒屋で、高橋佐智子はからあげ定食を注文し、同僚でひとつ年上の先輩である富永と冬のボーナスの使い道について話していた。
「そろそろスマホも買い替えたいんですよね」
「この前買い替えたばかりじゃないのか?」
「この前って言っても3年前ですよ」
「俺なんて5年は使っているぞ」
そんなどうでもいい会話をしていると、注文したからあげ定食が運ばれてきた。
佐智子が注文したのは普通盛りでからあげは7つ、富永が注文した大盛りはからあげ15個という状態であり、15つのからあげはピラミッドのように高く積まれていた。
『からあげフェアやってます』
店の前に出ていた手書きの看板に釣られてふたりはこの店に入ったわけだが、まさかこんな大盛りの店だとは思いもよらぬことだった。
からあげひとつ大人の男性の握りこぶしほどの大きさがある。しかも、全部同じ部位のからあげというわけではなく、むね肉、もも肉、ささみと肉の種類も豊富なのだ。
さらには、ごはんとキャベツのおかわりが自由だということで、ランチタイムになれば行列が出来る店だった。
たまたま、ふたりが入った時は並んではいなかったが、席について5分もしないうちに入店待ちの行列は店の外まで続いていた。
からあげはサクサクで、噛むと中から肉汁があふれてきた。
あつあつの揚げたてであるため、前歯の裏を火傷しそうになりながら、からあげを口の中に頬張る。
そこへすかさず、白米を掻き込む。
おいしい、おいしすぎる。
ひとつからあげを食べた後はキャベツで口の中をリセット。
味変用のソースなどもあり、普通盛りの7つを食べるだけでも十分にからあげを堪能できる定食だった。
富永などは痩せの大食いであり、ご飯を3杯とキャベツを5回おかわりしていて、満足げな表情を浮かべていた。
その女性に佐智子が気づいたのは、会計を済ませるためにレジに並んだ時だった。
大きめの長袖Tシャツの袖からちらりと見えた手首には、まだ出来たばかりと思われる赤黒い痣があった。
佐智子はその痣を見逃すことなく見つけ、ちらりとその女性の顔を見る。
女性は20代後半から30代半ばぐらい。どことなく気の弱そうな感じのする顔立ちをしている。ファンデーションでごまかしているが、唇の左端にも痣があることが確認できた。
会計を済ませる時、佐智子はさりげない様子で支払いと一緒に自分の名刺をその女性に手渡した。
「もし、なにか相談したいことがあったら」
佐智子はそう言ったが、その女性は名刺を受け取ると何も言わずに目をそらしてしまった。
彼女の身になにか厄介なことが起きていなければいいんだけれど。
なにか嫌な予感のようなものを佐智子は払しょくできないまま、午後の仕事を迎えた。
※ ※ ※ ※
その連絡を受けた時、佐智子は新大久保駅周辺で発生した傷害事件の捜査を終えたところだった。
事件自体は若者同士の些細なことからはじまったトラブルであり、双方に怪我がなかったことから、お説教だけで若者たちを解散させた。
佐智子に連絡をしてきたのは、警視庁捜査一課の刑事で二宮という巡査部長だった。
二宮によれば、池袋で発生した殺人事件の被疑者である女性が佐智子の名刺を持っていたため連絡をくれたとのことだった。
名刺を持っていた女性は、内縁の夫である暴力団組員を自宅アパートで刺殺していた。
女性は普段からDVを受けていたらしく、何度か池袋署へ相談にも訪れていたそうだ。
佐智子はすぐにその女性が昼間に居酒屋でレジを打っていた女性だとわかった。
もっと早くにあの女性と出会っていて、話を聞いてあげることが出来たら事は起こらなかったかもしれない。
警察官の職務は羅針盤に似ている。
物事を悪い方向へ導かず、良い方向を指し示す。
佐智子は、自分の力では羅針盤をとめられなかったことに対し、無力さを感じていた。
とめられなかった羅針盤 大隅 スミヲ @smee
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