本編からいくつかのシーンを抜粋
◆主人公が脱出艇で強制射出されるシーン
『緊急脱出シークエンス開始。搭乗者はシートに座り、体を固定してください』
無機質ながら大人っぽい女性の声とともに、けたたましい警報音が鳴り響き、まどろみの中にいたナギは無理矢理に叩き起こされた。
「な、なんだ!?」
目覚めた第一声がそれだったのは実に間抜けな話だが、こればっかりはナギが悪いわけではない。
まさかリーマンが緊急脱出艇を射出するなど誰が想像できるだろうか。
慌てたナギは状況を理解できないまま、流れて来る音声に耳を傾ける。
『射出まで五秒。各員、衝撃に備え』
端的な指示は意味不明ながら、何か良くないことが起きるということは分かる。
運が悪いのは、椅子に座って体を固定しろという指示がナギが眠っているときに発せられたことだろう。寝ぼけた頭にその言葉が残っているわけもなく、ナギは衝撃に備えるために椅子に全力でしがみつくことしかできなかった。
本来ならば安全ベルトで腰と胸を椅子に密着させるように固定し、衝撃を椅子で受け止めなければならない。不格好な姿勢で椅子にしがみついてどうにかなるわけもないのだが、それにナギが気づくことはないまま、無常なアナウンスが流れた。
『射出』
果たしてその言葉がナギの耳に入ったのか。緊急脱出艇がアストラから射出された衝撃は船首から船尾へと突き抜けるように発生し、無様にしがみつくナギを一瞬で椅子に叩きつけた。
耐衝撃の姿勢で備えても、体を固定もしていないナギの全身が悲鳴を上げた。骨という骨が軋み、息が詰まる。唯一の救いは椅子に押し付けられた際に頭を打ったことだろうか。意識を手放したおかげでその後の苦痛を味わうことはなかったのだから。
そうして誰も動かなくなった船内に、緊急脱出艇に搭載されたAIオータムの声が響き渡る。
『射出シークエンス、正常に完了。周辺環境、広域戦闘状態と推定。ショートジャンプにより戦域を離脱します』
それはリーマンによる脱出艇の射出モードの選択による影響だった。
選択されたのは戦時モード。移民船アストラが外部より攻撃を仕掛けられ、船外が戦闘状態にある場合の脱出モードだ。一分一秒の遅れが脱出艇の生存率を下げる以上、周囲環境の確認のために光学レーダーで精査する過程すら切り捨てられている。
オータムはありもしない戦場からの早急な脱出のため、射出後わずか二秒で
緊急脱出艇が長期間のサバイバル活動が可能なように設計されているとはいえ、あくまでも救助を前提に設計されているのだ。アストラが戦闘状態であったとしても、脱出艇はアストラの生存を信じて進行方向へと向かうわけだ。
だが、ここで再び運命の悪戯が訪れる。
ようやっと重力圧から解放されたナギの体が脱出艇の振動でバランスを崩し、椅子のひじ掛けに設えられた操作ディスプレイを叩いたのだ。なんという不運というべきか、そこに表示された文字は「緊急ジャンプ」だった。
『全工程破棄指示を確認、ショートジャンプを開始しまぁぁぁぁぅぁあぁぁぁ――』
妙に間延びした不可思議な音声が船内に流れ、脱出艇は座標設定が不完全なままにショートジャンプを実行、
いわゆるワームホールに分類される
彼らの船が通常空間に再び出現するまでに要した時間は、言葉通り瞬きの間だった。
ただし、その被害は看過できぬものだった。
通常ではありえない座標設定が不十分な状態で突入した
『Fa〇k』
ナギの意識があれば恐らく自分の耳を疑うに違いないAIらしからぬ発言とともに、緊急脱出艇は船体をきしませる勢いで急制動を繰り返した。
この空間はかつて
だが、オータムの巧みな操船はその予想を真正面から裏切ってのけた。
脱出艇が空中分解するギリギリの回避を繰り返し、あわや正面衝突の危機を何度も回避したのである。それでも幾つかの船との接触は避けることができなかったが、脱出艇としての形を保ったまま通常空間へと戻ることができたのは間違いなくオータムの手柄だった。
『ショートジャンプ成功を確認。現在地……不明。周辺環境を精査……完了。人類居住可能惑星を発見。仮称惑星アルファと定義。本艇は遭難モードへ移行、生命活動維持のため惑星への降下を推奨します』
オータムは搭乗者に回答を促したが、意識を失ったナギが返答をするはずがない。
しばしの沈黙の後、船内を精査する赤い光の線が走り、頭から血を流して椅子のひじかけに体を預けるナギで止まった。赤い線は入念にナギの上で往復し、やがて満足したのか姿を消した。
『搭乗員の行動不能を確認。AI特例、第四項に基づき独自行動が許可されました。搭乗員の生存のため惑星アルファへ降下します』
AIには人間に害が及ばないよう自立行動を禁止するAI特法という制御ルーチンが設定されている。
オータムはナギの意識がないことで一時的にAI特法の制御を離れ、最適と考えられる行動を遂行した。
すなわち、広大な青に支配された惑星へと降下を始めたのである。
人類が居住可能な環境であることは確認できたが、果たしてそこに何が待ち受けるのか。
船の墓場を強行突破したことで船体は少なくない損傷を負っている。
詳しい精査を待たねばならないが、ショートジャンプ機能は通常空間への脱出とともに完全に沈黙していた。
これが人間であれば不安を感じるか、あるいは逆に未知の世界に心躍らせるのかもしれない。オータムはAIらしい理性的な感情を維持したまま、レンズ越しに急速に近づく青い惑星を見つめ続けていた。
◆惑星に不時着し、目を醒ましたナギとオータムの初会話シーン
どこかで聞いたことがあるような、しかし耳馴染みのない音がしていた。
ざぱん、ざぱん、という音は、少なくともナギの十六年の人生ではほとんど聞いたことがない。
どこで聞いたんだったかと記憶を掘り返してみようとしても、なかなかうまくいかない。寝ぼけたように思考がまとまらず、時折襲ってくる鈍痛が考えることを阻害するのだ。
それでも何とか思い出そうと頑張っているところに聞こえてきた『覚醒波を検知。おはようございます』という無機質な機械音声に驚き、一気に目が覚めた。
移民船アストラで機械音声といえば管理AIであるアストラの男性的な声で、大人の女性のようなその声は初めて聴いたのだ。
だが、起き上がってすぐその疑問は消えた。
というよりも、もっと大きな疑問と驚きに塗り替えられたと言うべきだろう。
なにせ、眼前に広がっているのは広大な海だった。
呼吸をすればなんともいえない匂いが鼻を刺激する。
ただ、不快には感じなかった。臭いという点で言えばアストラに軍配が上がる。資源の節約に暇がないアストラでは、空気中の臭気のろ過も最低限なのだ。年中臭い空間にいたナギにしてみれば、どこまでも自然な風が吹き抜けるこの場所の匂いは刺激的ではあれ、清々しく感じられた。
それと同時に、ざぱんざぱんという不可思議な音の正体にも気づく。
金属製の大地――いや、恐らくは脱出艇だ――に打ち寄せた波が砕ける際に発する音だった。
『おはようございます。名前を伺えますか』
ナギは思わず辺りを見回してからそれがスピーカーから流れるAIの言葉だと気づき、顔を赤くして答えた。
「僕はナギ・Hayashi・フランドルだよ。あなたは?」
『緊急脱出艇AQ32-AHの管理AIオータムです。搭乗者の意識覚醒を確認したため、現時点をもってAI特例第四項に基づく独自行動の権限を返上。ナギ・Hayashi・フランドルを脱出艇の最上位船員と認め、指揮権限を委譲します』
「え?」
分かりやすいはきはきとした口調ながら、流れるような言葉に頭が追いつかない。
というより、明確に脳が理解を拒否していたのかもしれない。
「ごめん、もう一度……できるだけわかりやすく言ってくれる?」
オータムは一瞬考えるように沈黙を挟んだ後、端的に言った。
『あなたが艦長です、ナギ』
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
◆海に不時着した脱出艇に謎の巨大生物が接近してくるシーン
「うわっ、な、なんだよこの音!」
どんな人間でも意識するよう、あえて嫌悪感を覚える音を混ぜてつくられた特殊な警報音は、人によって聞こえる音が違う。ある者にとってはガラスをひっかく音であり、ある者にとっては口を開けて何かを咀嚼する音であったりする。
ナギにとってはリーマンの意味不明な絶叫が幾重にも重なったような音に聞こえていた。
とはいえ、実のところその音は実際に音として鳴っているわけではない。
伝意通信でナギにしか聞こえていなかった。
傍から見れば静寂の中でいきなりナギが飛び上がって喚き散らしているように見えるわけだが、そんなこととは露とも知らないナギは焦りながら両手を振ってオータムに呼びかけた。
「オータム! 音、音止めて! いったい何が起きたの!?」
(本艇に急速に接近する未確認の巨大物体を感知。距離二キロメートル、約二十ノッ
ト。およそ三分十秒後に到着と推定。偵察ドローンを射出しますか?)
「射出! 今度から必要と思われる措置は独断でやっていいよ! あとで何したかだけ教えて!」
(了解しました。AI特例法第二項に基づき、緊急時権限の限定解除を承認します……偵察ドローンが目標を捉えました。映像を表示します)
偵察ドローンは飛行タイプのようで、壁に嵌めこまれたディスプレイに映し出されたのは海を上空から映し出した俯瞰映像だった。
「波しぶき……?」
海の中に何かがいて、海面に背びれを出して波を立てているのは分かる。
しかし、比較対象がないためにその大きさも分からなければ、海の中の全体像もぼんやりとしか判別できない。ただ、生物であることは間違いないだろう。
「あれ、何か分かる?」
(形状と速度から地球の生物に該当する種が存在します。恐らくあれは――)
言葉が終わる前に、何の気まぐれか真っ白な肌を持つ生物が海上にその姿を見せた。
鯨だ。
全身に古傷があり、歴戦の猛者という言葉がよく似合う。
ずんぐりむっくりな体を器用にくねらせて飛び跳ね、偵察ドローンの直近まで迫られ、ナギはあまりの迫力に思わず声を漏らした。
「びっくりした……もしかして鯨かな?」
(同系統の種と考えられます。推定全長はおよそ百五十メートル。現状の速度のまま衝突した場合、脱出艇の破損は危険域に達します)
それでも沈むとは言わない辺り脱出艇の頑丈さは凄まじいものがあるが、断固として試したいとは思わない。
「逃げれる?」
(エンジンの精査が終わっていません。精査なしで始動した場合、致命的な破損をもたらす可能性は三十パーセントです)
一瞬逃走を選択しかけたが、三十パーセントは無視できない数値だ。
ナギはすぐに携帯端末のタッチパネルを操作し、現状で使える脱出艇の装備を確認した。ずらりと並ぶ項目のほとんどはグレーアウトしており、〈精査中〉の文字が躍っている。緑色に点灯している項目は数えるほどだった。
「武装……致死性武器は全部ダメ。あっても殺したくないから別にいいけど……非致死性武器は……精査中、精査中、これも精査中……あった、これだ!」
ナギの目が止まった文字は〈音響爆弾〉。
急いで効果説明を確認する。
水中での使用を前提に作られ、魚雷としても使用可能。陸上に設置して時限爆破も可能。あらゆる音域の音波を発射し、近くにいる敵性生物の三半規管を一時的に麻痺させることを目的にした非致死性武器だ。
ナギの読んだ地球の生物について書かれた図鑑によれば、鯨はエコーロケーションと呼ばれる超音波で物を見ているらしい。音波を感じ取れるのであれば、嫌がる可能性は十分に考えられた。
「これ使える!?」
『可能です。弾数は一発のみですが、発射して構いませんか?』
「いいよ! できるだけ鯨にダメージを与えない距離で爆発させて! 準備できたらすぐ発射!!」
『了解。発射します』
がこん、と脱出艇下部の発射口が開き、スクリューの
鯨が脱出艇に到着するまですでに一分を切っている。
最悪の場合は七十パーセントの可能性にかけて緊急発進するしかない。
ナギは祈るような気持ちで海に残る白い航跡を見つめた。
そして、それから十数秒後。
音響魚雷の爆発を知らせる電子シグナルとともに、遥か遠方の海がわずかに盛り上がったように見えた。
『対象の転進を確認。脱出艇から離れていきます』
どうやら危機を脱したらしい。
ほっと息を吐くと全身から力が抜け、へなへなとその場に座り込んでいた。
◆ナギとアクタの出会いのシーン
それからは白鯨の再接近もなく、オータムの高精度レーダーによる監視網のおかげでナギはぐっすりと眠ることができた。
我ながら太い神経だと思うが、この一日は色々ありすぎて疲れていたのだ。
目覚めてすぐに水を一杯。朝食は食べない主義のナギはそれだけで朝の用意をすませ、脱出艇の拠点化作業に取り掛かる。
元々が搭乗定員の六人で半日作業なのだ。
ナギ一人ではまだまだ作業は山積みで、疲労の蓄積もあってオータムの予測ではあと四日ははかかる予定だった。
『楽しそうですね。積極的な行動はとても良いことです』
「わかる? なんだろうな……一人っきりなのも、誰も助けてくれないのもアストラと変わらないからさ。それなら誰にも干渉されないで自由にできる環境っていうのもいいんじゃないかな、とか思ってさ」
『なるほど。遭難しているというのに平気そうにしていると思っていましたが、そういうことですか』
「強がりもあるんだけどね」
オータムは元気に動き回るナギの様子を観察しながら健康状態をチェックしていたが、明るい彼の様子とは裏腹に、精神状態の項目に『要経過観察』と記載した。
どれほどに冷めた人間でも、一人で生きていくことは限界がある。
特に自分を守るべき帰属していた社会集団を失った人間は、すぐに心の平衡を失うものだ。ナギの明るさが現状に適応したがゆえか、それとも極度の興奮状態からくる一種の錯乱か、判断するには慎重に確認する必要があると判断したのだ。
人間というのは脆い。
アストラでの生活環境がどれほど劣悪だとしても、それは変わらないのだ。
丁寧に観察し、導かなければなるまいとあれこれと今後の方策を考えていたオータムだが、それでもAIである彼女の並列思考能力は凄まじい。目まぐるしく回る思考とは別に、鋭敏な高精度レーダーに感知された影に瞬時に気づく。
警報を出すか?
いや、昨日のナギの警報への過剰な反応を見るに、本当に危険でなければ鳴らすべきではない。
オータムは一瞬でそこまで考えると、ごく冷静にナギに声をかけた。
(報告。何かが近づいています。北北東、一キロ先です)
それが、ナギと彼女の出会いの始まりだった。
◇◆
近づいてくる生体反応が一つであること、そして体格が小さく、十ノットという速度もあって、オータムは危険性は低いと判断した。
ナギは少し考え、危険を感知したら緊急発進するように命じた。
まだ危険と決まったわけでもないのだ、それまではひとまず観察と決め込む。
「どうせ何も分からない惑星なんだ。情報を集めるっていうのは大事だよね?」
(肯定。ただし、そのための方法には疑問が残ります)
「信じてるよ、オータム。危険な時は全力で逃げてくれるってさ」
(最善を尽くします)
無味乾燥になりがちな人工知能の言葉に苦笑している間にも、それはどんどんと近づいて来た。十ノットといえばかなりの速度で、そのままぶつかるようなことになれば大惨事になりかねない。
オータムは白鯨と違って船が沈むことはないと言うが、それにしたって怖いものは怖いのだ。
エンジンの精査の大部分は終わっているが、まだ完全に安全が確認されたわけではない。致命的な破損が発生する可能性は十パーセントにまで低減しているか、それでも必要もないのに危険をおかしたくはないのだ。
とはいえ、その心配はないようだった。
距離が詰まりそろそろ発進を考えないとまずいという頃合いになると、それは近づくのをやめ、こちらを伺うように脱出艇を中心に円を描き始めたのである。
よく見ると、波間に浮かぶ何かは生物の頭のようだった。
少し丸みを帯びた薄青い頭部は、イルカやシャチといった海洋生物のようなのっぺりとした質感に見える。ただ、その大きさはイルカなどよりも小さく、どちらかというと人間の頭程度の大きさに見えた。
きっかり三周して敵意がないことを確認したのか、すぽん、と海の中に頭が消えたかと思うと、しばらくして脱出艇の間近に再び浮上してくる。
女の子に見えた。
丸みを帯びた頭部からは小指ほどの太さの紐状の器官が何本も生え、まるでボブカットの髪の毛のようだ。それだけではなく、海面下に見える姿は人の姿をしていて、人間の少女のような愛嬌のある顔立ちをしていた。
「ケキャ?」
彼女――性別は分からないが、少なくともナギは女性だと感じた――は、小首を傾げて不思議そうにナギを見つめ、それから再び口を開いた。
「ルエガ、キルルク、ケキ? シールー、ガナ?」
(言語?)
意味の分からない音の羅列に反応をしたのはナギではなく、オータムだ。
人類が生存可能な惑星に存在し、言語を操るだけの知能を持つ現地生物。オータムは蓄積された膨大な人類の英知の結晶から、一つの結論を導き出した。
(ナギ、〈
ナギは驚きを隠せず、思わずその言葉を復唱した。
それはあたかも彼女に話しかけるようであったかもしれない。
「
彼女は再び首を傾げ、大きな目を丸くして自分を指さした。
「アクタ?」
「あ、うん。
考えてみればいきなり先住種族なんて呼ぶのはいかにも失礼だが、彼女はどうやらその呼び名が気に入ったらしく、何度も反芻して笑顔を見せた。
「アクタ、アクタ!」
「う、うん。アクタ……?」
楽しそうに笑う一風変わった先住種族の少女に、ナギは困惑を隠しきれなかった。
もしかしなくてもやらかしたかもしれないという思いは、どうやら現実のものとなってしまったようだった。
自分のことをアクタという名前だと認識したらしい彼女――アクタは、嬉しそうに大きく口を開いて笑みを見せる。
そうすると、口の中のギザギザの歯がよく見えて少しだけ恐ろしく感じた。
イメージとしては
(ナギ、
(どこにそんなのあるのさ?)
(ありませんが、しかし――)
珍しく言い淀むオータムに、ナギはやれやれと首を振った。
確かにどんな文化や生体を持つか分からない
都合よく現れた少女は可愛らしい容姿で愛嬌があり、なおかつこちらに興味を持ってくれているとくる。
ならばこれ幸いとアクタと関わり、情報を得ることは重要ではないか。
決して彼女が可愛かったとか、物語の主人公達が
なぜかオータムの無言に意味深な圧力を感じながら、ナギは警戒心を与えないようににっこりと微笑みながら汎用端末を操作して弦壁を開いた。
元々は搭乗ハッチだった部分で、開くことで海へ下りるためのタラップができる。海に飛び込むにしても、船に乗り込むにしても、海面から一メートルほども高い弦壁では難しいために、船というものには海へのアクセスをしやすい工夫がされているのだ。
この脱出艇の場合、波が落ち着いている時は搭乗ハッチを海面まで開くことでタラップとし、波が荒れている時は弦壁の一部をせり出させて
「アギャッ!」
突然壁の一部が海の中へ開いたことに驚いたアクタは飛び跳ねるように海の中に潜ってしまったが、しばらくするとまた浮かびあがった。
ほんの少し距離が開いたが、それでもまだ好奇心が優っているようだった。
「大丈夫、怖くないよ」
ナギがおいでおいでと手招きした効果か、アクタは不思議そうに首を傾げてから、大きく頷いて海からナギへ向かって飛び出した。
海中から海上へこんなにも予備動作なしで飛び上がれるのかとびっくりするほどの大ジャンプに、ナギは微動だにできない。
(ナギ!)
危険を知らせるオータムの叫びが耳をつんざいた。
ナギはアクタを受け止めるというのか、押し倒されるというのか、とにかく抱き合うようにして船上に転がった。全身びしょ濡れだが、なぜか不快感はない。
ナギの腕の中から見上げるようにしていた少女は、目が合うと楽しそうに相好を崩した。
「アクタ!」
「うん、アクタだね。っていうか、ちょっと待ってね。色々当たっちゃいけないところがね……」
体で感じる予想外に柔らかいアクタの体の感触に赤面するナギだったが、彼女はそんなことは気にせず、眉根を寄せて自分とナギを交互に指差し、何かを伝えようとしているようだった。
「アクタ! リーア、アガ、ケキャ?」
「やばい、何言ってるかわからないな」
(オータム、翻訳できる?)
(十分な言語サンプルが取れれば可能です。いまの調子で会話を続けて頂ければ、一週間ほどで十分なサンプルが取れます)
(いま必要なんだけど!?)
(不可能です。AIは便利道具を出す猫型ロボットではありません)
一瞬、意味の分からない単語が出てきて首を捻ったナギだが、それよりもいまの現状に意識を集中することにした。
翻訳機能が使えないなら、ボディーランゲージでなんとかするしかない。
アクタもそれを察したのか、もう一度自分を指さして言った。
「アクタ!」
それからナギを指さし、「ケキャ?」と首を傾げる。
さすがにそこまでされれば、鈍感なナギでも分かった。
名前を聞いているのだ。
ナギはできるだけ大げさに口を動かし、アクタが分かりやすいような発音を意識した。
「僕は、ナギ」
「ボクハ、ナギ」
「あ、違う違う」
慌てて首を振り、自分を指差しながら今度は余計な言葉を挟まないように気を付ける。
「ナギ」
「ナギ?」
「そうそう。ナギ!」
どうやら伝わったらしい。
アクタはナギの胸の中で楽しそうに手を叩いた。
「アーリャ、ケ、グリィア! ナギ! ナギ!」
なんだかそうしていると
(そろそろ離れてはいかがですか?)
そんなナギに冷静に突っ込むオータムは、さすがAIと言いたくなるほど空気が読めていなかった。
◆アクタに調理デバイスで地球の食事をご馳走するシーン
「はい、お待たせ。熱いから気を付けてね」
二人の前に並んだ煮込みハンバーグとライスは、とてもプランクトンでできているとは思えないほどに美味しそうだ。
ナギのこだわりでライスは平皿ではなく茶碗だが、そこは洋食といえど米は茶碗で食べたい日本人気質ということで納得してもらうしかない。
ただし箸はアクタが使えると思えなかったため、二人ともフォークにしておいた。
不思議そうに渡されたフォークを見つめていたアクタに、「こうするんだよ」と自分のフォークを使ってハンバーグを切り分け、熱々の一切れに息をふきかけて冷ましてから口に運んで見せる。
できるだけ彼女が真似しやすいよう、わかりやすくを意識していたが、口に入れた瞬間広がったハンバーグの肉汁と濃厚なデミグラスソースの味わいに思わずアクタのことを忘れてしまった。
「うんまぁい! なんだこれ、アストラのより美味しいよ!?」
『アストラのプランクトンは養殖プラントで養殖されていて、品質よりも栄養価と量を重視されています。その分、自然のプランクトンよりも旨味成分が減少していますので、それが味の違いとなっているのでしょう』
そんなことは初めて知ったが、とにかく美味いに越したことはない。
昨日の夜は疲れ果てていたから調理デバイスを使う気になれず、備蓄のチョコレート味の栄養バーを食べたkら気づかなかった。これはうれしい発見である。
「ほら、アクタも食べてみて。美味しいよ!」
促せば、アクタは恐る恐るという様子でフォークを握りしめた。
子供のように柄の部分をしっかと握り絞める姿にほっこりにっこりだ。
アクタはナギの食べ方を真似ているようで、悪戦苦闘しながらハンバーグを切り分け、フォークの先に突き刺した一切れに息を吹きかけようとしている。しかし、息を吹くという習慣がないのか、ぶふぅ、ぶふぅと変な音がしてあまり息が出ていない。
見かねたナギが変わりに息を吹いて冷ますと、「ニヒ!」と頷いてハンバーグにかぶりついた。
「……どう?」
フォークを咥えたまま微動だにしないアクタに、ナギは恐る恐る声をかける。
それが功を奏したわけではないだろうが、アクタの大きな瞳は徐々にまん丸く形を変えていき、それが限界に達したかと思うと、無言でハンバーグにフォークを突き刺し、口の中へと次々と放り込んでいき始めた。
「気に入った……んだよね?」
(分かりません)
「ほら、アクタ。ご飯も食べて……ああ、違う違う。ご飯だけ食べるんじゃ味が薄いから、ハンバーグを食べてすぐごはん、ハンバーグを食べてすぐごはん、そうそう、その繰り返しで相乗効果がね……あれ?」
(皿が空になったようですが)
(見ればわかるよ! ああ、皿を舐め始めた……これ、お代わりが必要?)
(知りません)
まったくアドバイスしてくれないオータムにぶつくさ言いながら、ひとまずナギはまだ手をつけていない自分の皿をアクタの前にずらし、再びすさまじい勢いで食べ始めた彼女に目を細める。
喜んでくれてうれしいと思う反面、少しだけ自分の分のハンバーグが消えていくのが悲しかったとはとても言えない。とはいえ、これは自分の分だけでは足らなそうな勢いだ。
結局都合四人分を作り、アクタは三人前、ナギは一人前を食べてようやく人心地がついた。
ちょっとだけぽっこりとしたお腹をさすって幸せそうなアクタに、ナギとしては苦笑するしかない。
しかし食事の効果もあってかアクタとの距離はぐっと縮んだ気がした。
言葉は通じないなりにコミュニケーションも取れていて、この調子ならオータムの望む翻訳のサンプリングも順調だろう。
彼女が海に帰る素振りを見せたのは、陽がずいぶんと傾いてからだった。
「アキャ、ラガ、ニギー!」
別れの挨拶なのか、弦壁の側でぱたぱたを手を振るアクタに手を振り返す。
と、そこで何かを感じたようにアクタが海の彼方へ目を向けた。
(どうしたんだ?)
(危険域ではないため報告していませんが、レーダーで巨大な生物が感知されています。大きさから推定して、昨日の白鯨だと思われますが……しかし、彼女にはレーダーと同等の察知能力がある……?)
そうだとしたらすごい能力だなと思いながら、ナギはアクタの横に並んだ。
白鯨がいる方向を指さし鯨が海から飛び出すジェスチャーをして見せると、アクタは目を見開いて大きく頷いた。
「ラプタ!」
「
頷いて、アクタは身振り手振りで危ないと教えてくれた。
どうやら彼女達にとって
確かに、あの大きさだ。
オータムを有するナギは音響爆弾で退けることができたが、原始的な種族であるアクタ達では対抗する術がないだろう。
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
伝わったのか、伝わっていないのか。
アクタは少し考えるような仕草の後で、「アーリャ!」と叫んで海に飛び込んだ。
④大海のアクタ ~僕たちは世界の果てで出会い、そして恋をする~ ひのえ之灯 @clisfn3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。④大海のアクタ ~僕たちは世界の果てで出会い、そして恋をする~の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます