釣瓶落としの後始末

夢月七海

釣瓶落としの後始末


 真横の窓を開けると、湿った風が入ってきた。排気ガスに交じって、微かに潮の匂いがする。車の群れやごみごみとした建物の向こう、見えていなくとも、あそこに海があるのだと意識させられる。

 幼馴染の拓海とやんばるまで足を延ばし、釣りに行った帰り道だった。オレンジ一色の空が、だんだんと夜闇に落ちていく。そんな状況下で、渋滞に嵌ってしまっていた。


「カズヤ。日曜のこの時間になると、いっつも混むよな」

「国道だから、仕方ないさ」


 溜息をついた拓海とのそんな会話も、毎度のことだった。

 ただ、俺は渋滞に嵌るのがそれほど嫌いじゃない。このまま家に帰って、月曜のことを頭の片隅に置いた憂鬱さと共に、日常の些事を片付けるよりも、友達とできるだけ長くいて、どうでもいい話をしたかった。


 ちまりちまりと愛車は進み、北谷ちゃたんに入った。この街のシンボルマークである赤い観覧車がそびえている。

 いつ見ても立派だなぁと思っていると、拓海もあの観覧車を指差した。


「あれ、今度解体されるらしいぞ」

「え、そうなのか?」

「下の建物が閉まるからな。寂しくなるな」

「だなぁ。俺たちが子供頃からあったから」


 そう返すと、色々な思い出が物悲しく胸に去来する。その中の一つを、口に出していた。


「初デートも、あそこだったし」

「ああ、ハツエちゃんとの」


 さすが、幼稚園から高校まで、俺と同じ学校に通っていた拓海は、淀みなく相槌を打った。訳知り顔で頷いている理由を、彼は語る。


「高校からの彼女と今まで続いているなんて、すごいよな」

「まあ、な」


 多少ぎこちない返しになってしまう。それは、そんなに付き合っているのなら、結婚すればいいのにというツッコミを、自分でしてしまうからだ。


「そういや、ずっと訊きたかったんだけど」

「ん? 何?」

「どうして、ハツエちゃんだったの?」

「うおっ、それ訊くのか」


 思いがけない角度からの質問に、変な声が出た。ピッチャー投球だったら、捕手が落とすレベルの暴投だ。


「いや、二人が付き合ったの、すごく意外だったから。ハツエちゃん、確かに良い子だけど、ちょっと地味というか……。あ、自己主張しないという意味で、目立たないっていうか……」

「お前、言えばいうほど、墓穴を掘ってんぞ」


 呆れながらも、その拓海の言葉よりももっとストレートな僻みを言われたことがあるので、あまり気にしていない。自分で言うのもなんだが、高校時代の俺は野球部のピッチャーで、結構きゃあきゃあ騒がれていたからだ。

 一方で、拓海は純粋な印象を口にしているだけだとは分かっているので、俺も初江が気になりだしたきっかけを、正直に話そうと思った。まあ、自分のことをここまで曝け出せる相手は、家族や恋人以外だと、こいつしかいないのだが。


「二年の時だったな。やっとレギュラーになれたって時に、肩を痛めて、病院通いしていて」

「そっか、一番大変だった頃か」

「うん。何とか、治せたんだけど、どれだけ気を使っても、投げられるのは高校の内だけだって言われて」

「あ、だからお前……」

「だから、卒業しても、プロは目指さなかった」


 拓海が気を遣って飲み込んだ言葉を、俺ははっきり引き継いだ。心配そうにチラチラ見ている拓海に申し訳ないが、俺の方はもうプロ野球選手になれないということを受け入れて、見切りをつけている。

 当然、ここまでは色々あった。親が野球好きなので、ずっと応援してくれていたことへの申し訳なさとか、自分が幼稚園の頃から追ってきた夢を諦めないといけないとか、そう簡単に飲み込めないなんやかんやがあったのだが、その過程はちょっと割愛して、初江とのことだけを話す。


「エースになって、甲子園を目指すのが、今の夢。だけど、その先は? そんな気持ちになって、挫けそうなときに、ふと、マネージャーだった初江と部室で二人きりになることにあってさ」

「うん」

「俺がテーピングをしているのを見て、大丈夫? って言ってくれたんだよ。そのすごく心配そうな顔を見てたら、なんか、込み上げるもんがあって。高校で野球辞めるかもしれないって、初めて部活仲間に言っちゃったんだよね」

「おおっ」

「俺から、野球が無くなったら、どうなるんだろうって呟いて。その時、初江は何て言ったと思う?」


 ブレーキを踏んでから、そう拓海に尋ねてみると、彼は突然のクイズに「えー?」と驚きながらも、真剣に悩み出した。


「俺だったら、野球以外でも、良い所があるよって言うけど」

「いいや、全然違う」

「じゃあ、これから、新しいことを始めて行こうよ! って、励ますとか?」

「あー、惜しくもないな」

「正解は? ハツエちゃんは、なんて言ったの?」


 痺れを切れたように尋ねた拓海に、当時のことを思い出して笑いをこらえながら、あの瞬間の初江の言葉を真似して言う。


「正解は、『野球をやっていない方の人生が長いから、未来の自分に失礼だよ』でしたー」

「えー! ハツエちゃん、意外と言うね!」


 目を丸くする拓海の反応は、思った通りで、俺は満足して何度も頷く。


「俺もびっくりしたよ。口調はもちろんだけど、そういう考え方もな」

「なるほどねー。そんなこと言われたら、気になっちゃうよね」


 それから、ちょいちょい話す回数が増えて行って、甲子園の予選直前に告白して、付き合い始めたというのが、初江と恋人になった過程だった。

 恋人同士になってから、初江の人生が、俺の想像以上に波乱万丈なものであり、その為、ちょっと達観している部分があるのだと知った。例えば、彼女の血の繋がらない兄の存在とか……。


「もうだいぶ暗くなったなぁ」


 拓海の声で、はっと回想から我に返る。流れ去った観覧車の前方の空は、地平に近い部分が暗い赤色に燃えていて、空の殆どが宵闇に落ちている。

 少し前の天気予報で知った「秋の日は釣瓶つるべ落とし」という言葉を思い出した。釣瓶と呼ばれる、井戸に落とす桶のように、秋はあっという間に日が沈むという意味らしい。


「秋だもんな。夜もだんだんと長くなっていくよ」


 車のヘッドライトを点ける。列をなした車が、ぽつぽつと明かりを灯していく様子は、どこか寂しい風景だった。


「……青春時代も、そうやってあっという間に過ぎて行ったな」

「ど、どうした、カズヤ、今日はセンチメンタルだな」


 拓海がビビってしまうほど、純粋な気持ちが口から洩れた。別に、と誤魔化しても良かったが、なんとなく続けてしまう。


「俺たちが高校生だった三年間って、振り返るとあっさり終わってしまったなぁって。俺がエースのピッチャーだったのも、ほんの一瞬だけだったんだ」

「まあな。けど、スポーツをずっとやっていくのも、大変だぞ」


 拓海が珍しく真剣な口調で言う。そう言えば、こいつはこいつで、昔からの夢を叶えて、今はプロレスラーをやっていた。

 一方俺は、野球と縁を切って、イベント会社のサラリーマンだ。つくづく俺たちは、正反対の人生を歩んでいるのに、不思議と仲良くしている。


「カズヤはさ、自分における黄金期は過ぎてしまったみたいな言い方しているけど、そういう考え方自体がいけないって、ハツエちゃんは言いたかったんじゃないか?」

「……確かにそうだな」

「それに、日が落ちて暗くなっても、また日は登ってくる。むしろ、自分から太陽を引っ張り出す気持ちでいないと」

「お前……結構良いこと言うな」


 隣を見ると、拓海は鼻をピノキオ並みに伸ばしたドヤ顔で腕を組んでいたので、掛け値なしで褒めたのをすぐに後悔してしまった。ただ、今の一言で感銘を受けたのも事実だ。

 夕暮れの残滓も消え果てた夜空を見上げて決意する。青春の後始末をするのなら、今がチャンスなんじゃないかと。


「今度、プロポーズするよ」

「おっ」

「今決めた」

「おおー、歴史的瞬間に立ち会えた」


 こちらの顔を覗き込む拓海の目は爛々と輝いていて、折角の真剣な表情も崩れて笑ってしまう。大袈裟だとは思いつつ、こいつの反応は、素直に嬉しい。


 ずっとずっと、初江へのプロポーズを先延ばしにし続けてきた。彼女と、あまりに仲が良すぎる血の繋がらないその兄との関係とか、気にしすぎている部分はきっと多大にある。

 それでも今は、この停滞した暗闇を、晴らしたいという気持ちになってきていた。太陽を引っ張り上げようとして、こちらが燃え尽きてしまっても構わないという、大胆さも芽生えている。


「……上手くいくかどうか、確率は半々なんだけど」

「大丈夫だって、ハツエちゃんなら、受け入れてもらえるからさ、自信持ってよ」

「今の、忘れんなよ」

「へ?」

「駄目だった時、お前が背中を押していたからって、一生言い続けるから」

「えー、そんなの酷過ぎるよ」


 真面目過ぎる顔で言い切ると、拓海は涙目で抗議してきた。だが、こんなやり取りもわざとだと分かっているから、途端にお互いに大声で笑いだす。


 釣瓶は落ちた。青春は終わった。

 でも、後始末が残っている。そして、きっと、もうすぐ夜が明ける。




























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