最終話 給餌


 ふわり、とすこし埃っぽいような、湿気っぽいような香りがして、耳元でざらざら、とした音が鳴った。身をよじらせると、手触りのいい毛布の感覚がして、どこだろうと瞳を開けた。


「え」


 目の前に、黒くて長い髪の頭のようなものがあった。ざらざらとしていたのはそば殻の枕のようだった。オレ昨日何をしていたんだっけ?と記憶を何とか思い出そうとするが、夜勤明けからの記憶がよく思い出せない。もぞり、と動いたその人影がなんとなく彼だということは理解できるのだけれど、どうしてこうなっているのか、ぷっつりと記憶が途切れている。


「……っ」


 起き上がろうとして左手をついた瞬間、びりっとなにかを割くような痛みが走った。そちらに目を見やると、自分の左腕が包帯でぐるぐる巻きになっていて、そういえば今着ている服も自分の家にあったものではないような気がしてくる。


「ん……なに、起きた?よく寝れた?」


 起こしてしまったのか、その長い黒髪をかきあげながら、彼が半分上体を起こす。毛布がめくれあがって、温かい空気と外のすっきりとした空気が入れ替わる感覚を肌で感じた。


「ねれ、た、けど」

「よかった。おはよ……顔色もまだ白いけどだいぶましか」


 なんとなくうっすら記憶がつながってくる。嫌気がさして、100円で買ったカッターで腕を切りつけた記憶と、川の中に入っていったような記憶。さっきまで脳のほんの片隅にあって、妄想なのか記憶なのか夢なのか、どこのカテゴリーだったかすら曖昧になっていた情景がつい昨日のもので、実際にやらかしてしまったことだったのだと、少しずつ思考がつながっていく。


「え、あ……えっと……」

「ここは今のおれの実家。来客用の布団姉さんに持ってかれて今一枚しかなくてさ、別におれは自分の部屋で寝てもよかったんだけど、目が覚めて知ってる人が誰もいなかったらユキびっくりするでしょ」


 なんとなく彼の家かもしれない、というのは思っていたけれど正解のようだった。つまり、オレは死のうとしていたところを彼に見つけられて、そのまま彼の家に連行され、手当をされ、一晩寝かしてもらった……ということらしい。どんどんまた彼らに迷惑をかけてしまったと頭が冷えていく。そもそもなんであんなことしたんだっけか。


「……やっぱり顔色悪いな。無理に上体起こしてないで横になってたほうが良い。多分頭にまわす血が足りてないんだ。多分母さんご飯作ってくれてるから少し待ってて、動くの辛いだろうから持ってくるよ」

「え、いや、あの……その、わるいって」

「悪いとか言わない。体調よくないんだからこういう時は大人しく横になってなさい」


 彼はそう告げて立ち上がると、引き戸の向こう側に消えていった。

 若干声に怒りというか、こればっかりはいうことを聞かないとキレるぞ、という凄みを感じたので大人しくまた布団をかぶる。意識すると左手が痛いが、自分で刺したのだから仕方あるまいと、畳のイ草を目でなぞって意識をそらした。



「ほら、あーん」

「……自分で食べれるって」

「いいから大人しく食べなさい」


 無理やり、少しぬるくなった雑炊を口につっこまれる。そういえば弁当のおかずとか、そんなものを彼にいつも貰っていた。なんだか子供に強制的に戻されたような気持ちになる。脳をよぎった自分の年齢を見なかったことにした。


「おいしい」

「よかった。母さんね、久々にユキに会えてさ、生きててよかったって言ってたんだよ」


 彼曰く、死のうとしていたおれを彼が見つけて、ご両親が車で迎えに来てくれたらしい。本当は病院に運びたかったけれど、万が一入院なんてことになった場合オレの母親が出てくる可能性があったから、いったんオレの目が覚めるまでは彼の家に置いておこう、ということになったようだった。


「……ほら、母さんも中途半端に手だししちゃったこと、少し後悔してたみたいでさ。あの後何も食べさせてもらえなかったらどうしようって思ってたみたいで」

「なんで親御さんが後悔するんだよ。十分よくしてもらったし……今だってそうだし」


 むしろ、あの頃がなかったらそれこそ野垂れ死んでいたかもしれない。彼にも、彼のご両親にもオレは感謝することしかないのだ。

「優しすぎるでしょう。嫌になるくらいだ」

「……嫌だったんだ」

「君の前でそんなこと、言いたくなかったんだけどね」

 ため息をついて、彼は食器をおいた。オレの食べるスピードが遅くなったのを見て、一度手を止めたようだ。味はおいしいのだけれど、どうにもこみあげてくる吐き気の方が強くて、上手く飲み込めない。


「我儘だって思うだろ。おれだって思うよ」

「……ごめん。オレはそれ、わからないから……なんなら羨ましいって思うし、でもまあ、そんなもの願ったってどうしようもないしね。気を遣わせたのは、ごめん」

「こっちが勝手に遣った気だから……可哀そうだなって思うけど、それはそれで君に失礼なことでもあるし」


 すこし、しゅんとした様子で布団の脇に座る彼を見てなんだか子供みたいだな、と思う。変わったなんて言ったけれど、まあ見た目くらいしか変わってないんじゃないか?とさえ思う。昔から変に斜に構えたところもあったし、危惧していたほどじゃなかったんじゃないというか。


「どうしようもないって、本当に思ってる?」

「……どう、だろうね……諦めきれてないところも、周りが憎くなることもないわけじゃないけど……それを思うと余計に自分が辛いんだ」

「……難儀だね、ユキも。……あの、さ」

「なに」

「その……親に、殴られたって……言ってたじゃん?」


 彼がまるで探り探り、と言った言葉選びでこちらに問いを投げてくる。


「え、あ、そうだっけ」

「……何があったのか、聞いても、いいやつなの」

「え?殴られるなんていつものことだったよ」


 母親に殴られることも、母親と付き合ってる男に殴られることもあった。なんなら町中で年上の人たちに難癖をつけられて殴られたことだって何度もある。なんなら当たり前のことくらいで、怪我をしているのを見たことがあるんだから、彼だってそのことくらいは知っていたはずだ。


「……」


 彼は呆気にでも取られたかのような顔をしたあと、黙りこくってしまった。


「どうかした?」

「いや……あのさ、今まではこういうこと、してないんだよね?もしくは、死にかけた、とか」

「死にかけてたのなんていつものことだったじゃん」


 当時はあまり自覚はなかったけれど、今振り返ればよく生きていたものだ、と思う。それが当たり前だったのだから仕方のないことなのだけれど。


「…………そう」

「うん」


 なぜ今更こんなことを聞いてきたのかわからないけれど、彼はこちらに体を寄せると、オレの頭を抱えてきた。


「……生きててくれて、ありがと」

「なんでツバサがそれを言うのさ」

「言いたかったから」

「……恥ずかしいんだけど」


 身じろぐと彼はあっさりとオレのことを開放してくれる。


「よくなるまでウチにいなよ。いきなり突き放したことへの責任も取らせて欲しいし」

「だから、その、あの……それは、責任とか」

「じゃあ言い換えるけど……おれさ、ユキが思ってるよりもユキのことが心配なの。自分ではそこまでじゃないって思ってしまうんだろうけれど、お前何回も死にかけてるの。それにまあ……性格もある程度わかってるから何考えてるかも大体は予想がつくんだけどさ」


 自分にそこまで好かれる謂れはないと思うのだが、どうにも彼はオレのことを構いたいらしい。あまりにもそれは、無償のそれすぎないだろうか。


「親みたいだなぁ」

「だから、うちの子になっちゃいなよ。でもおれお母さんじゃなくて、お兄ちゃんの方がいいなぁ。こんなにでっかい子供は産んだ覚えがない」

「男なんだから産めないじゃん。なんでもいいよ、もう。……オレだって、ツバサがどっかの誰か知らない人と死んじゃってるんじゃないかって、不安だったんだから」


 もし、彼をあちら側へ連れて行く人間がいたとしたら、オレはきっとその人間に対して嫉妬もしたし、憎んだと思う。なぜオレじゃなくてお前を選んだのだと、そしてどうして引き留めなかったのだと、知ったら絶対に余計なことを口走っていただろう。


「君がおれを終わらせてくれる存在じゃないってことはもうとっくの昔に諦めてるから。……死ぬときは、1人で死ぬよ」

「……」

「それでいいだろ?」


 それでこの話はおしまい、と言いたげだがそれはあんまりにも酷くないだろうか。オレだって黙って聞いてるだけの人間じゃない。


「それも嫌だよ」

「おれの人生、何したって勝手だろ?」

「……その勝手で、オレのこと、助けてくれてるんだろ」

「そう。だから助けられてるとか思わないで」

「…………そんなこといえないくらい心配かけてやろ」

「え」

「こいつのこと置いて死んだらやばいって思わせてやる」


 それで、彼が少しでも生きなきゃいけないと思ってくれると言うなら、迷惑かけるのもまあ悪くはないのかもしれない。飼われてやろうじゃないか、水を変えてくれないと死んでしまうぞ、とおどしをかけてやろうじゃないか。


「それで、お前が自分のことを保てるって言うなら」

「…………限度は守ってくれよ?」


 困ったように笑う彼の顔は、昔から変わってない。


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優しさに溺れて死ぬ前に 籾ヶ谷榴萩 @ruhagi_momi

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