第14話 三途

 もう顔を合わせたくない、という気持ち半分。そしてもう半分はもう一度会いたいという期待を持って河川敷に向かった。単に好奇心だ。もしくは寂しくなったのかもしれない。どうせ、自分のことを知っている人間は、小説家としてのおれしか興味がないのだ。そうじゃないのは、きっと両親と、姉と、彼だけ。急に埋めたくなった。……流してしまいたくなった。元々この辺りは、おれが夜煙草を吸いながら歩く散歩コースなのだ。鉢合わせても文句は言わせまい。


 おれの目論見通り、彼はそこに居た。そこに居たけれど、それは酷くブレていた。


「は……」


 彼の足元は、大地を削っていく水流のなかに埋もれて、ブレているように見えたのは水面に映る彼の胴体がユラユラと揺れているからだった。一見穏やかに見えるけれど、この辺の水流はたまに水難事故が起こる。

 ──────とめなきゃ。


 そこからは早かった。咥えていた煙草の火を慌てて消して、吸殻を地面に捨てた。ポイ捨てなんていけないだろう、いいや、人の命の方がよっぽど大事だ。息苦しくなるのが嫌だから、義務教育期間を終えてから走ったことなんて一度もなくて、半分走るという行為を忘れていた脚を一生懸命少しでも先に進めるように前に急いで突き出した。


「ユキ!!」


 川べりまで近づいて、出したこともないような大声で叫んだ。人影は緩慢な動きでこちらをよろり、と向いた。少ない街灯のうっすらとした明かりで、その片腕が血まみれになっているのが視界に入った。


「なにしてんの!!さっさとこっちに上がってきて!!」


 こちらを向いたのだから、聞こえていない訳はないだろう。だけども彼は一言も返してこない。上手く表情が見えない。止めないと、止めなきゃ。だって、ユキは、そんな人間じゃなくて。少しでも温かい世界で生きてほしくて、だからおれは彼に餌付けをしたのだ。少しでも元気になって、少しでもその冷たい体に熱が欲しくて、少しでも、幸せになれますようにって。そうだよ。だめだ、そっちじゃない。お前のいる場所は、そっち側じゃない。


「そんなことしたら死んじゃうだろ!!」


 おれはただ、死なないで欲しかったのだ。

 知ってるよ、こんなのおれのクソみたいな支配欲だ。彼に死を選ばせたくないというおれのエゴだ。それでも、それでも、嫌だった。おれがどうしようもないクズだということはわかってるよ。でも、そのくらい願わせてくれたっていいじゃないか。他人に干渉して、干渉されてうんざりするけど、してきた分うんざりされたっていいだろ。

 彼はこっちを向くだけで、寄ってくるわけでもなければ、向こう側に歩みを進めるわけでもない。まだ、間に合うと思った。おろしたてのスニーカーを履いていたことすら忘れて、じゃぶじゃぶと流れの中に足を踏み入れた。脚を取られて、ただでさえ久々にこんな動いていてヘロヘロで、息を大きく吸いすぎて肺がヒリヒリする。けど、ここで引き返すわけにもいかずに、ただただ呆然と立っている彼の方へ向かった。


「そんなことやめて。帰ろ」

「……」


 差し伸ばした腕を彼は取ってくれない。虚ろな目をしたまま、額に脂汗を浮かべて、その顔色は出会ったばかりのまともに食べさせてもらえてないときよりも真っ青になって。


「帰るんだよ!病院に行ったほうが絶対にいいけれど、どうしてもいやだっていうなら家まで送るから。こっちきて」


 できることなら今すぐ救急車に運び込んで、処置をしてもらって、なんなら心理検査だってなんだって受けさせて、一回自分の状態を彼に自覚させたいけれど、搬送されたら親に連絡が行ってしまう。それは……多分誰も望んでない。


「…………」

「死にたいのかよお前は!!」


 両腕で彼の肩を掴んで揺らす。おれよりも少し高い位置にあって、少し広いはずなのに、なぜだかそれは酷く小さく見えた。


「…………殴られたんだ」

「……え」


 殴られた、という割には彼の体にはそれらしき痕はなく、腕にあるのは刃物で切りつけたような大きい傷が二つ、てらてらと血を流している。


「母さんに、殴られた」


 これは、きっと今の話じゃないのだろう。昔の話で、彼は突然何かを思いだして、魔が差したのかもしれない。気が沈むと嫌なことをを思い出すものだ。


「……うん」

「かあさんのこと、まもりたかったんだ。かわいそうだったから。ひとりぼっちでおれのこと、そだててさ」

「そっか」


 別に、大変だからって理由でネグレクトをしていい理由にはならないだろう。けれど、その近くにいたらそれを大変だと認知してしまうのかもしれない。おれはそれをよく知らない。


「幸せにしたかったの、もっとわらってほしかった、安心した顔が見たかった」

「うん、うん」


 それは小さい子供が当たり前に望んでしまうようなことで、一番最初に願うようなことで。自分にも心当たりがあって、それを叶えられない自分に嫌気が差して。だからこそ自分にも突き刺さったような気持ちになる。


「それなのに、怒らせて……死ぬんじゃないかってくらい、殴られて」

「痛かっただろ」


 おれは痛かったよ。姉さんに殴られるのも、姉さんを悪者にして母さんに慰められるのも、痛かった。お前にもちゃんと、痛いのだと自覚してほしかった。


「そのとき、死んでれば……オレも、かあさんも、たぶんしあわせだったんだなぁって」


 彼の口元がゆったりと歪んだ。けらけらと乾いた笑い声が漏れて、煩い水流の中その音だけが酷く浮いていて、それが酷くいたたまれなかった。


「死ねなかったから、オレ、わかんないんだよ。なににもなりたくないんだよ、なににもなれないんだよ。いうとおりだ。死んでるのとかわんないや。じゃあさ、いまここにいる理由って、なんなんだろ」

「……」

「なりたい職業どころか、やってみたいこともない。それどころか明日やりたいこともない。ただ生きるためのお金稼いで、学校に通ってるだけ。貰った残飯食べて、なんとなくしょっぱいとか、すっぱいとか、それしかわかんないから、味がしたら全部おいしいって言ってるだけだし。勉強もやることないと怖くなるから、それに特待生貰えないとつらいからやってるだけで別に好きじゃない。流行りの曲もわかんないし、ドラマだってなにいってるのか全然わかんないし、なんでそれを見て面白いって笑ってるのかもわからない。どこに行きたいとかもないし、何を見てみたいとかもない。なにも綺麗に感じないし、なにもかっこいいと思えない」

「……」

「金魚飼ったんだよ。そうしたらさ、少しは他の人が何を感じてるのかわかるかなぁって。普通のことをしてみたくて、普通になれるかなぁって。でもさ、起きたら、死んでた。オレさ、教えてもらった通りに育ててたはずなんだよ。でも、しんじゃった。だから、ここに流したんだ。酷いよね」

「魚はわりとすぐ死ぬだろ」


 水族館の魚たちを思い出す。水槽の中とはいえ、彼らは本来の姿をなるべく再現できるように飼われているのだろうし、そういう建前がなかったら、そのグロテスクさに存在を肯定できないだろう。実際の環境よりもぬるいかもしれないが、なるべくいるべき場所を再現された世界ですら、管理されている世界ですら普通にああやって死んでいるものだ。素人の飼育なんて、特に彼なんて初めてだっただろうから、そう簡単にいくとは思えない。


「……そうかな。オレがクズだっただけじゃない?母さんと一緒だ。ご飯与えて居場所さえ与えていればいいと思ってしまったのは、オレの方だった。結局同じなんだよ」

「違うだろ。頭に血が行かなくなってるからおかしいことを考えるんだ。はやくここからあがろ?止血もしないといけないし、体温だって」


 彼の肩は外気と水しぶきに当てられて、だいぶ冷たくなっていた。このままだったらいくら健康体だって死ぬ。


「このままなら、冷たくなれる?水でふやけて、腐ることができる?結局一緒なら、オレだってそう死ぬべきなんだ」

「ならなくていい。ならなくていいから。寒いだろ?」


 彼と出会った時、冬場外に追い出されると聞いてものすごく不快な気持ちになった。暖かいところにいようよ、せめて心がそうならば、体だけでも。いたたまれないんだよこっちは。


「……オレのこと、嫌いになったんじゃ、なかったの」

「嫌いになんかなるかよ!」

「じゃあ、なんで。オレのこと、捨てたの」


 ちゃぷん。するりと手元から、ふやけた亡骸が流れていく。

 捨てた、という言葉の重みが、ずんと押しかかってくる。

 彼が何も思わなかったわけがないだろう。あんなひどい言い方をして、おれは彼から逃げたのだから。信頼してもらっていたのに、手を離したのだ。突然ネグレクトに走った彼の母親と何も変わらない。与えるだけ餌を与えておいて、捨て去った。


「おれに、君は重すぎた」

「…………」

「ユキのことを、助けたかった。けど、子供ができることなんて限界があって。おれもおなじだよ、ご飯さえ与えていれば君が元気になるとでも思ってた。話しかけていれば、友達になってくれるって思ってた。……でもそれは、ユキのためっていうより、何もできない自分が、なにかをできるって思いたかったから。ずるいんだ。ずっとずっと、おれはずるい生き方しかできない。そのくせに、他人のことをずるいって言うんだ。ひどいだろ」

「……」

「おれはずるいからさ。何も持ってないのに一生懸命生きてるユキが羨ましかったんだ。もっとまともな環境にいたら、それこそ町一番の秀才になって、有名な大学行って、有名な企業に入ってってそんなことができそうな器を持っているのに、誰も満たしてあげないのがかわいそうに思えた。もちろんこれは勝手な外部からの感情で、でも幸せになるべき人間だって、これだけは絶対に思うんだよ。なんなら、おれの両親と交換してあげられたらいいのにってなんども思った。おれはなんもできないから、こんないい両親を持ってるのがもったいなくて、それで……ずっと、君が羨ましかった」

「…………そんなんじゃ」

「やりたいことなんてなくていいよ、そんなのそうやって生きてきた人たちの詭弁でしかない。その人が偶然やりたいことがあって、それをいいことだって思いたいからそんなこと言ってるだけなんだよ!そもそも人間はみんな詭弁しか言わないんだ。もっと都合よくなっていいよ。みんな都合がいいんだから、お前も都合よくなってよ。いいんだよ、ユキはもう十分頑張ったから、もう……お願いだから……死ぬような、こと、だけは」


 お前は、生きている人間の側に、いてよ。


「………………」

「そんなことにお前が罪悪感を感じることもないし、感じなくていいって思っていいんだよ。みんな自分の醜さなんてみちゃいないんだから。おれだってそうだよ、醜いって思い込んでそれで気楽になりたいだけなんだよ……おれだって、自分勝手で、最低で」


 結局自分の醜さなんて全て見えやしないし、自分から見た善は他人から見た悪だ。何も正しくはないから、考えて、間違えて、今度こそ間違えないと思っても取りこぼす。取りこぼせないことはなくて、そればかりは諦めるしかない。全てにおいてきれいな人間はいなくて、だからきれいなふりをして、そうやってまた敵を増やしておきながら、きれいだから何かを言われる筋合いなどないと振る舞うのだ。それがおれの目には一番醜く見えて、だからこんなことを言って誤魔化してる。俺も結局都合がいい。


「…………オレは、逆に君がそんなに、自分がひどいって、思わなきゃいけないのが、わかんないんだ」

「……おれはそう思ってた方が楽なだけで、それに君をつきあわせてるんだよ」

 彼は納得したのかそれとも理解していないのか、また少しだけ俯いた。

「それが、すこしだけ、しんどい……」


 ふらり、と彼の体が流されそうになったのを慌てて支える。手首を握ると、だいぶ脈が弱くなっていた。

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