ハッピーエンドにさよならを

間川 レイ

第1話

1.


「先輩、私は思うんですよ」


 そんな私の声がポツリと文芸部の部室に響く。部室には私と先輩、2人きりしかいない。夕暮れが差し込み、血のような真紅に染まった部室の中に、私と先輩の息遣いが溶け込んでいく。


「何を?」


 先輩は次から次へと書きかけの原稿用紙の束を自分の鞄に突っ込む作業をやめて私を見る。決して日の目を見ることのなかった作品たち。私だけがその魅力を知っている作品たち。今日は先輩の卒業式の日。先輩が部長としてこの部屋に現れる事はもう2度と無い。


 そうわかっていた筈なのに、今正に先輩が最後の後片付けをしているのを見ると、熱いものが目頭に込み上げてきそうになる。私は先輩に見られ無いように咄嗟に顔を拭うと、何事もなかったかのように続ける。声が震えないよう最大限に注意しつつ。


「ハッピーエンドって嫌いだなーって」


「それ、いつも言ってるね。」


 先輩はそう苦笑する。だが、決して私の意見を無碍にしているわけでは無い。その証拠に、忙しなく動かしていた手を休め、私の前に回転椅子を引っ張ってくるとどっかりと腰を下ろす。続けて。そう無言で示す先輩に一つ頷き、私は続ける。


「だってハッピーエンドなんてご都合主義じゃ無いですか。現実味がありません。」


 そう、ハッピーエンドなんて絵空事だ。現実にはハッピーエンドなんて存在しない。そんな事は私がよく知っている。そんなことをたくさん殴られてズキズキと鈍痛を放つお腹を撫でながら考える。昨日沢山父親に殴られた場所。私が女であることを示す部分。何度も何度も執拗に殴られた。


「わかるよ。」


 小さく頷く先輩。カーディガンの袖からは無数の水平に走る傷跡。今はスカートに隠れて見えないが、その太ももには無数のタバコの火を押しつけた跡がある事を私だけは知っている。


「そうですよね。」


 私は小さく微笑む。正直、私のハッピーエンドが嫌いという価値観が中々異端であることは我ながら承知している。それだけに、先輩みたいに、私の価値観を受け入れ、肯定してくれるような人は貴重だった。私はほっと小さく息を吐く。


「うん、私もハッピーエンドは嫌いかな。」


 そういう先輩に、「知ってます。」と私は小さく微笑む。先輩もまた、筋金入りのハッピーエンド嫌いだった。先輩の書く短編では、頑張る人は報われず、正義のヒーローは多くの人間を見捨て、栄光を掴んだ人間も必ず破滅する。そんなドロドロして、陰鬱な先輩の書く小説が私は好きだった。そんな先輩の作品が賞を取ることはなかったけれど。デビューすることも。


「何でこんなにハッピーエンドって人気なんですかね。」


 私は小さく呟く。それは訊ねる訳でも無い小さな呟き。だけど先輩は暫く思案した後ポツリと言った。


「幸せになりたいからじゃない?読んで、自らを主人公達に投影して。」


「そういうもんなんですかね。」


私は小首を傾げながら小さく頷く。


「だから、私はハッピーエンドが嫌いなんだけどね。」


 そういう先輩の言葉。先輩はいつものように微笑んではいるけれど、その言葉は鋭くとがっていて。いつもの先輩らしくない。思わず先輩の顔を見る。先輩はごめんね、と拝むように片手をあげると続ける。


「所詮、『幸せ』なんて幻想にすぎないくせに。まるで『幸せ』なんてものが存在するように見せかけるから。」


 その語気はどこまでも鋭くて。やっぱりいつもの先輩らしくないな、なんて頭の片隅では思う。それでも。それでも。


「わかります。」


私は知らず知らずのうちに頷いていた。


『幸せ』。そんなものは実在しないのだ。


 勿論、私が世間一般的に『幸せ』者である事は理解している。親がいて、家族がいて。こうして高校にだって通わせてもらっているし、きっと大学にだって行かせてもらえる。それは先輩だって同じ。


 だがそれは所詮外部の定めた『幸せ』に過ぎないのだ。家族がいるから、大学まで進学できるから、あいつは『幸せ』者に違いない。そうでない人はたくさんいるのに、あいつは違う。だからあいつは『幸せ』者に違いない、なんて。多くの人々だけでなく物語までもがそう規定する。家族がいることは幸せなことです、家族みんなで仲良くしましょう。学校に通えることはありがたいことです、親に感謝しましょう。ハッピーエンドはあるべき幸せの形を規定する。規定は規範としてのしかかる。恵まれていることを喜びましょう。自らの幸せを謳歌しましょう。生きていることは幸せです、みたいに。


 ああ、うるさい。ハッピーエンドの物語に囲まれているとそう叫びだしたくなる。お前らが勝手に私の幸せを規定するな、なんて。私たちみたいな人間の存在も知らない、顔も見知らぬ他人があなたは幸せです、だなんて知ったような顔して口を挟んでくる。


 私は、私たちは自分が幸せだと思えた事なんて一度もないのに。毎日馬鹿みたいに殴られて、なぶられて。創作に於いて多々出てくる家族愛だなんて一度も感じたことなんてない。あるのは今日ぐらいは殴られないといいな、なんてささやかな願いのみ。そんな願いだって毎日のように裏切られる。


 ならばせめて救いを創作の世界に求めようにも、書店に並ぶのはハッピーエンドハッピーエンドハッピーエンドのオンパレード。そこでは頑張る人は報われて、大勢の仲間に囲まれて、美味しい料理を貪り毎日和気藹々と生きていく。頑張ることは善、仲間に囲まれていれば幸せ。押し付けられるメッセージ。


 もう、うるさい。放っておいてくれ。そう怒鳴ったところで世間に私たちの主張が受け入れられることはない。押しつけがましくハッピーエンドはやってくる。これがあるべき幸せの形という顔をして。それだけに、どうしてハッピーエンドがこれだけ人気なのか理解できない。


 そして理解できない事は不快だ。イライラする。ムカつく。どうしてそこまでハッピーエンドに憧れる。所詮、それらは誰かが定めた幸せの形に過ぎないのに。


 それに第一、私たちには『ハッピーエンド』に至る結末すら用意されなかった。現実の私たちは最も近い肉親にすら甚振られ、成績はどれだけ勉強しても上がる事なく、ご飯だって両親の気分次第では出てこない。それどころか気分次第では寒風吹き荒ぶ空の下着のみ着のまま放り出される事すらある始末。フィクションで見られる光景なんてどこにもない。だから所詮『ハッピーエンド』なんて、虚構なのだ。どれだけ憧れても届かぬ遠い夢。そして、そんなありもしないものを素晴らしいと持て囃すこの社会。ああ、うざったい。


 だから私はハッピーエンドが嫌いだ。ハッピーエンドを愛する人も嫌いだ。でも、そんな事は勿論人前では言わない。先輩以外の前では。だって世界にはハッピーエンドを好む人の方が圧倒的に多いのだから。そんな事を口にすればあっという間に彼らを敵に回してしまう。自分の愛するジャンルを悪く言われる不愉快さは私だってよく知っているつもりだから。


 でも先輩の前では特別だ。先輩はこんな私の話でもきちんと聞いてくれる。同意してくれる。分かる、分かるよと頷いてくれるのだ。そして、それは口先だけではない事は、先輩の黒々とした目を見ればすぐに分かる。そのどんよりとした目。先輩は私側の人間だ。世界に虐げられ、居場所なんてどこにも無いと心のどこかでわかっている私側の人間。


 そんな先輩だからこそ、私の話に頷いてくれるのかも知れない。そんな先輩だからこそ、暗い話を書けるのかもしれない。社会に認められずとも。誰も先輩の話を評価しなくても。いや、きっとそうなのだろう。だから私は先輩のことが好きだ。先輩と話している時だけは、私はまだ生きていていいと思えるから。こんな歪みに歪んだ私でも、私にだって居場所はあるのだと思えるから。だから私は小さく微笑んで言うのだ。


「私、先輩のこと結構好きですよ。」


「知ってる。」


 そう微かに微笑む先輩。ああ、やっぱり先輩は最高だ。卒業しても。大学に進学しても。連絡を取り合おうだなんて、そんな贅沢なことは言わない。ただ、どうかありのままの、今のままの先輩でいてほしい。私と同じく、ハッピーエンドを憎む私の同志として。たった1人の私の大切な仲間として。だから私は、重ねて言うのだ。


「先輩のこと、好きですよ。」


「ありがとう。」


 先輩はふんわりと笑う。儚げに、小さく。どうせ、私たちは変われない。まるでそういうように。そんな先輩の姿がたまらなく愛おしく見えて、私は先輩の胸の中に飛び込む。急なスキンシップに先輩も少しは驚いた様子だったけれど、おずおずと後頭部に回された優しい手の感覚が印象的だった。










 先輩から、今晩死ぬつもりだとLINEがあったのは、その晩のことだった。


2.

 先輩がここで死ぬつもりと指定していたのは、学校の裏山。その頂上だった。私はそこに向かって走る。走る。どうか間に合ってくれと心の中で繰り返しながら。


 そして先輩は、いた。小さな焚火の前で、小さく膝を抱えて。ちょこんと、そこに座って。気が向いたように、時折焚火に何かを放り込みながら。


「先輩!」


 私はそう叫びながら駆け寄る。間に合った、その安堵を押し殺して私は小さく叫ぶ。


「急に死ぬつもりだなんて、いったい何を考えてるんですか!」


 だけど先輩はおかしなことを言うね、といつものように小さく微笑むといった。


「私がいつも死にたがってたこと、知ってるくせに。」


 思わずうぐ、と言葉に詰まる。確かにそうだ。いつだって先輩は死にたがっていた。手首もしょっちゅう切っていたし、死にたいが口癖の部分もあった。でもこんな急にだなんて思ってもみなかったし、まさかここまで直接的に行動に移すなんて考えてもみなかった。こんな真夜中に家を抜け出してまで、なんて。バレればただじゃすまないのに。先輩は本気だ。そう確信し、言葉が出てこない。それでも何とか絞り出すようにして言った。


「何で、今日なんです?」


こんなめでたい日に、との意を込めて。


「今日、ハッピーエンドの話をしたでしょう。」


先輩はいつものように微笑んでいった。


「私たちの人生にハッピーエンドなんてない。だったら一つ、節目に区切りをつけるのも悪くないのかもしれないと思ってね。」


「でも……!」


 私は思わず言葉に詰まる。だって私は知っている。先輩は親元を離れ、東京の大学に進学すると聞いた。先輩はやっと自由になれる。そう思っていたのに。


「違うよ。」


先輩はゆるゆると首を振る。


「私はあの人たちの娘であることから逃れられない。」


 先輩は言う。所詮子供なんてあの人達にとって体のいいラジコンに過ぎないのだ。親元を離れたところで干渉は続く。取る教科、就職先、結婚相手。何から何に至るまで。ある時は金銭を代価に、ある時は暴力による脅迫で干渉は続く筈だ。その証拠に、進学の条件として一週間おきの行動報告が義務づけられていると言う。それを怠れば学費は払わないと。笑っちゃうでしょう?そういう先輩に私は何もいうことができない。


「それにね。」


先輩は続ける。とても静かな声で。


「私は大人になんかなりたくないの。だって未来がないから。」


 先輩は言う。私はこれまでずっと頑張り続けてきた。雨の日も、晴れの日も。魂をすり減らすようにして。そして、大学に入ったところで頑張り続けなければならないことには変わらない。いい就職先を見つけるために。そして、いい就職先を見つけたところでそれが終わりではない。リストラを避けるためにも、今後の生活のためにも、努力を続けていかなければならない。


「人生って、賽の河原なんだよ。」


 そう先輩は言った。終わりのない努力。努力しても努力しても、先は見えない。努力を止めれば地獄の底まで一直線。地獄から這い上がる道なんてどこにもない。だから私たちは頑張り続けなければいけない。生きるために、生活するために。


「でも、もう。疲れちゃった。」


 そう、儚げに微笑んでいう先輩。ただでさえ、今こんなにも頑張ってくたくたなのに。まだ頑張り続けなければならないなんて。私はそういう先輩に、私はかける言葉が見つからなかった。


「それだけじゃないの。」


 大人になったら、私は結婚し子供を産むことが求められる。親の性格からみて、それは確定した未来。


 だが子供となんてどう向き合えばいい。私はまっとうな子供との向き合い方なんて知らない。だって自分がそうされたことなんてなかったから。きっと私は子供に手を挙げる。気に食わなかったら殴り、怒鳴る最低な親になってしまう。私はきっと子供たちを傷つける。私が憎んだあの人たちと同じになってしまう。


「それだけは嫌なの。」


先輩はとても凪いだ声で言った。


「それに、無責任だとは思わない?」


バサバサとスカートを風にあおらせながら先輩は言う。


 こんなに素晴らしくない世界。私たちがこんなに憎んだ世界。こんな世界に新たな命を生み出すなんて。生きていたっていいことなんてないのに。生まれてきたって、良いことなんてないのに。


「だから私は死ぬの。」


 そう言いながら先輩は鞄の中から次から次へと何かを取り出しては火にくべていく。それは、先輩の書いた原稿たちだった。所々赤線で斜線や修正の文言が入れられた、先輩の努力の結晶たち。そうした結晶たちが、赤い舌にとらわれ砕け散っていく。


「これは私の火葬なの。」


 あの世には持っていけないからね。そういう先輩の横顔がどことなく寂しそうに見えて。私は思わず先輩の手を握る。先輩の手は、すでに死んでいるかのように冷たかった。


「あと、これも。」


 そう言って先輩は懐から一冊の文庫本を取り出す。ページの端々がおり曲がり、全体的にくたびれた印象を受ける本だった。タイトルは『ハーモニー』。


「ありがとう。」


 そう言いながら先輩はその本も火にくべる。パッと散った火花にあおられてみた先輩は、今にも泣きだしそうに見えて。


気付けば私は言っていた。


「私も、お供しますよ。」


「無理しなくてもいいんだよ。」


 そういう先輩に、私は黙って首を振る。どうせ生きていたって、未来がないのは私も同じだったから。どうせ生きていたって、碌な結末なんて迎えない。私たちには、最初からハッピーエンドなんてなかったのだ。だったらせめて、先輩と一緒がいい。


 だから。私は先輩の手を握りなおす。先輩にはそれで充分通じたようだった。先輩は呟く。


「ありがとう。」


いいんですよ。その言葉は、声に出さなかった。


 先輩は鞄からロープを取り出す。頑張れば二人分ぐらいはあるかも。そんなことを言いながら渡してくる先輩に礼を言って受け取る。しばらくロープと格闘すると、不格好ながらもロープを二人分木につるすことができた。


 私と先輩はロープに首を通す。最後に先輩と目を見交わす。どことなく、濡れたように光る目と。先輩ははにかむように言った。


「でもさ、やっぱり私は思うんだ。」


先輩は続ける。


「人生にハッピーエンドは必要だよ。」


 たとえ偽りに過ぎなくても。押し付けに過ぎなくても。それで間違いなく、救われる人はいるのだから。碌でもないのが人生だけど、救いがあれば人はまだ生きていけるから。そんな事をぽつりと言う先輩。


私たちにはその救いすら与えられなかったけれど。それでも。私は溜息を吐くと、頷く。


「そうかもしれませんね。」


 私は町のほうを見下ろす。私のかつていた場所。私たちがかつていた場所。炎のように真っ赤に輝いていた。間もなく夜明けのようだった。

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ハッピーエンドにさよならを 間川 レイ @tsuyomasu0418

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