わたしがそこにいたかった

近藤銀竹

わたしがそこにいたかった

 いつの頃からだろう。


 気づくと世界は色褪せていた。


 薄膜を通して見たような色合い。曖昧な輪郭。そして白い小石が飛び交うようなノイズ。博物館で見たブラウン管テレビのような、ちょうどあんな感じの世界。

 いや、もしかしたら私がブラウン管テレビの中に入ってしまったのかも。


「はあ……」


 校舎の屋上。

 わたしはわざとフェンスのないふちの立ち上がりに腰掛け、ため息をつく。

 風が髪をはためかせる。

 後ろに倒れたら四階ぶん落下して即死。でもそれが心地よくて。

 

 もう、日が暮れている。

 最近、気づくとここにいる。

 色褪せた世界の中で、ここから見上げる夜空だけはやけに鮮やかな藍色だった。

 磁器のような月。

 砕いたガラスをぶちまけたような星たち。

 背後は街並み。闇の中に灯りが見え隠れする景色は、まるで星空を映す鏡のよう。

 そんな澄んだ世界に包まれたくて、つい足を運んでしまう。

 

 もうすぐ学校は眠りにつく。今日もまた、最終見回りの教頭先生に送られて校舎を出るのだろう。

 

「君、須藤すどう咲凪さなさんでしょ? なにやってるの?」


 でも、今日は違った。

 気づけば、校舎に入る鉄扉の横にひとりの男子が、壁に寄り掛かって立っていた。

 うちの高校の制服。

 銀に輝くウルフカットの髪が、空から落ちてきたばかりの星のようだ。校則違反……ではない。うちの高校は校則がゆるいから。


「っ……」


 わたしが息を呑んだのは、急に声を掛けられたからではない。知らない男子が名前を知っていたからでもない。

 彼の姿が、やけにくっきりと目に映ったからだ。紫のカラコンも、色素の薄い肌の色も。


「あ……あんたこそ」


 咄嗟に、攻撃的な言葉が口を突いて出る。

 でも彼は、そんなことお構いなしにこっちを見つめている。

 彼が、微笑んだ。


「見てた」

「見てた?」

「君を」

「わたし?」

「そ。とても綺麗だな、と思って」

「は? ナンパ? キモ……」


 褒め言葉と共に近づいてくる奴は信用できない。特に一対一で対峙しているときは自動で排除対象だ。

 でも彼は全く動じるそぶりを見せなかった。


「いや、顔のことは言ってない……まあ、そこそこイケてるとは思うけど」


 彼の、失礼なほど率直な言葉。久しぶりだ。でもそれほど不快じゃない。


「あんた、失礼だね」

「気に障ったんなら謝るよ。でも、綺麗なんだ。君の……魂がね」

「中二病? 中学校は坂を下りて左だよ」

「いや、事実だからなぁ……でも、汚れてる」

「汚れてる?」

「そ。ギットギト」

「ひど……」


 答えながら、わたしは彼の言葉に頷いていた。

 彼の言うことに覚えがあった。

 ずっと、自分に何かを塗りたくって、別な姿を作っていた。

 みんな装う。

 生きていく上で必要な扮装。

 それが汚れだと言われれば確かにそう。

 でも彼は、そんなところまでちゃんと見てくれた気がしたんだ。


「友達がさ……」


 だから……つい、こぼしてしまった。初対面の、しかも男子に。心のロックは一度外れたら止まらない。


「友達と遊びに行くと、みんなすごいお金使うんだよね。それでなかなか遊びに行けなかったら『つき合い悪い』って」

「『つき合い悪い』か……」


 彼は、なにか判断するでもなく、ただ耳を傾けている。


「それで、貯めてたお年玉を下ろして毎日遊びに行ったら、今度は『金持ち自慢?』だって。笑えるでしょ?」

「『金持ち自慢』とか言われちゃったんだ……」


 彼はただ聞いている。

 わたしが口を閉じると誰も声を発する者はいない。風の音と遠くの車の音だけが、潮騒のように耳を撫でてくる。


「あー……なんか、ゴメンね。名前も知らないのに愚痴っちゃって。で、あんた誰よ?」

「俺? うーん……有り体に言えば……死神、かな」

「そういうの、いいから」

「わかったわかった」


 彼はおどけた仕草で両手を振った。


遥斗はるとだよ。宇田うだ遥斗はると

「遥斗……」

「君の魂を刈るために来た。で、余りに綺麗だったからつい見惚れた」

「まだやるの、それ?」


 遥斗が余りに真面目におかしなことを言うものだから、わたしもつい吹き出してしまって。いっそ彼のネタに付き合ってみたくなった。


「飛び降りるとでもおもったんでしょうけど、残念でした。まだ刈られるわけにはいかないよ。まだやりたいことあるし」

「ふうん、例えば?」

「そうだなあ……『好きな人と付き合う』っての、やってみたいから」

「なるほどね」


 遥斗の微笑みは上質なコットンのように柔らかい。と、彼は横の鉄扉に視線を向けた。


「……帰る時間のようだね」


 彼の言葉の直後、鉄扉の内側から微かな足音が近づき、懐中電灯の灯りがちらちらと飛び始めた。


「……ありがと。少し気が楽になったよ」

「汚れて、磨いて、魂はどんどん綺麗になっていくよ」

「その変な考え方、おもしろいって思えるくらいには気が楽になった」


 わたしたちは、呆れ顔で現れた教頭先生のあとについて屋上をあとにした。





 そしてまた校舎の屋上。

 あれからひと月が過ぎていた。

 世界の色落ちが酷い。

 白い小石が飛び交うようなノイズは、いよいよ数珠繫ぎのように並んで飛んでいる。ものの輪郭は二重三重に見える。ときおりその輪郭すらも蝋燭の火のようにふっと揺れる。

 ゆらっ。

 ゆらっ。

 世界はふっと揺れ惑う。


 相変わらず、空と奈落と遥斗だけがくっきりと存在し、薄らいでいく世界とわたしとを繋いでいる。わたしは相変わらず屋上の縁に座り、彼は先月と同じように、壁に寄り掛かって紫の瞳でこちらを見ていた。なんか「お見通し」みたいな微笑みを浮かべているのがちょっとムカつく。


「彼氏、できた」


 別な男子の話をしたらどういう反応するかな、って思ってたけど、彼は動じるそぶりさえなく、微笑んだまま立っていた。


「よかったじゃん」

「でもさ」


 わかってるくせに。

 遥斗は意地悪だ。話に続きがあることには勘づいてるくせに。


「『わたしのどういうところが好き?』って聞いたら『可愛いところ』って言ったんだ。あげくに『部活終わりに可愛い子が待ってると疲れも吹き飛ぶ』だって。可愛ければわたしじゃなくてもいいのかなって思ったら、急に冷めちゃった」

「そ、か。『咲凪』じゃなくて、『可愛い子』……か」


 遥斗がわたしの言葉を噛み締めている。

 わたしはゆっくりと背伸びした。


「あーあ。恋がうまく行ったら、少しは世界が輝いて見えるかと思ったんだけどなー。『彼のキレイな彼女』を演じるのなんて、わたしにはむりだもんな……」

「いや、懊悩にまみれながら必死で清くあろうとする咲凪の魂こそ至高の美しさだよ」

「褒められてると思っとくね」


 ひと月が経っても謎設定を引きずってる遥斗を見てると、心に引っ掛かったすれ違いなんてどうでもよくなってくる。

 遥斗の妙な話を聞いていると、視界を満たすノイズも心をささくれさせる雑音も忘れられた。まるで喉につかえたものが流されていくように、このひとときだけは意識から消えていく。


「是が非でも俺の手で刈りたい」

「はいはい」


 立ち上がる。

 紫の夕空は消え、お高い墨液をこぼしたように艷やかな夜空へと変わっていた。そろそろここにいられる時間も終わりだ。


「その言葉、わたしがおばあちゃんになっても覚えていたら、魂あげるよ」

「それ、普通は『大人になっても』だろー?」


 遥斗が口を尖らせる。

 ベタなこと言っちゃったかな。でも、こんな他愛のない会話がなんだか楽しくて、いつまでも続くといいなって思ったのかもしれない。


「あげないよ。とりあえず、勉強でもしてみるよ。そろそろお母さんとお父さんに安心してもらうことにする」

「年寄りくさいなー」

「放っといて。……今日は教頭先生が来る前に帰ろ?」

「優等生くさいなー」

「そんな気分なの。もうこんなところでたむろして、教頭先生に叱られないようにしないと」

「違いない」



 わたしたちは笑い合いながら屋上を後にし、ノイズと雑音が溢れる奈落へと帰った。






 またひと月。

 定期テストが終わり――

 わたしは丸めた成績表を握りしめ、手摺の感触を頼りに、足を引きずって校舎の屋上へ向かう。

 世界は風化したコンクリートのように、灰色にしか見えなくなってしまった。

 上下左右に乱れ飛ぶノイズ。雨なのか雪なのか、それとも砂塵なのか虫なのか……わからない。ものの輪郭はぐにゃりと歪んで落ち着かず、そもそもそこにものがあるのか……わからない。

 わからないし……どうでもいい。


 丸くて冷たい感触――ドアノブを手探りで回して屋上へ。


「!」


 黒。

 ひたすらに黒。

 灰を固めたような校舎の形に切り取られた夜空はただ深く、透明に、黒く広がっていた。星は黒の中で宝石のかけらのように散り、色が失われた世界を不憫そうに照らしている。

 

「……来ちゃったか」


 遥斗はそこにいた。

 彼だけはくっきりとわたしの目に像を結び、その銀髪と紫の目だけが、世界に色があったことを思い出させてくれる。

 わたしは何も答えず、いつもの校舎の縁に腰掛けた。


「はあ……」


 ため息が漏れた。

 安堵の溜息だ。

 遥斗だけがの話を聞いてくれる。


「勉強……定期テスト、だめだった?」


 遥斗は同情するでもなく、かと言って茶化すでもなく、聞いてきた。

 

「学年三位」

「よかったじゃん」

「よかった!?」


 遥斗は悪くない。

 でもその反応に、わたしの心は溢れた。


「うんよかったよ! 今までわたしのこと荷物扱いしてた母さんは急にニコニコしだすし、職場が近いのにアパート借りて家に全然顔を出さなかった父さんは帰ってくるし! 大喜びで『ウチには学年三位 の生徒がいるぞ』ってさ!」

「咲凪……」

「母さんも父さんもわたしじゃなくて、『学年三位』を見てた! わたしはそこにいなかった!」


 まくし立てる。

 止まらなかった。


 制服のスカートに水滴の音。

 気づけば涙が零れていた。


 遥斗は少し目を丸くしたけど、怒るでもなく、わたしのことをじっと見ていてくれた。


「あ……ごめんね。遥斗は悪くないのに怒鳴っちゃって」

「いいんだよ。君は今までとても頑張った。頑張り続けた」

「結局、のことをちゃんと見てくれていたのは遥斗だけだったね」


 また溜息。

 思えば遥斗は、わたしがネガティブなときもじっと話を聞いてくれていた。


「改名しようかな……須藤学年三位に。それとも須藤つき合い良い……須藤可愛い子……」


 白茶けた校舎から目を反らして澄んだ夜空を見上げる。でも涙は零れるし、乾きもしない。


そこにいたかったな……」


 涙の中の星たちは住処を失った魚のようにゆらゆらと空を泳ぐ。


「……だめだ」


 涙を止めることを諦め、視線を戻す。

 気づけば目の前に遥斗が立っていた。彼の笑顔はいつもわたしを優しく包み込んでくれた。わたしはそれに甘えて、いつも愚痴を聞いてもらっていたってわけだ。


「いくかい? 俺と一緒に」


 遥斗が右手を差し出す。


「わたし……遥斗に引っ張ってもらわないと、もう進めないや」

「俺だって、咲凪の魂しか見ていないのかもしれないけど……」

「いいよ。遥斗だけだったから……わたしがそこにいないのをわかってくれた人は。……もしかしたら……遥斗だけがを見てくれていたってこと、初めて会ったときからわかってたのかも知れない」


 いつもわたし自身を見続けてくれた人に、泣きながら、精一杯の笑顔を作る。


「刈って」


 遥斗が伸ばした手を取る。

 背後で微かな衣擦れ。

 微笑む遥斗に促され、立ち上がる。

 体も心も、とても軽い。まるで塗りたくられた汚れが剥がれていくようだ。


 はるか後ろで重たい音。まるで今までわたしを繋いでいた重りが落ちたかのようだ。


 遥斗がわたしを抱きしめる。


「今の咲凪の魂、汚れが削ぎ落とされてとても綺麗だ」


 遥斗の言葉に、ただ頷く。


 ああ、心が軽い。


 溶けていくようだ。


 遥斗の中に……

 どんどん……

 どんどん……


 とても……

 気持ち……が…………い…………





             【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしがそこにいたかった 近藤銀竹 @-459fahrenheit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説