第18話 私に通うもの 3
「初代が始祖『王』であるのに、なぜ今は『皇帝』と呼ぶのか。父親のもとで学ぶ機会があった君なら知ってるよね」
父の蔵書の中には、国の歴史がつづられている歴史書『国史記』というものがある。官僚になるための試験、科挙にも必要とされる、公的な歴史の記録。
その書の中には、この国の頂点に二つの血族があることが記されている。
一つが始祖王をはじまりとした『王家』。
もうひとつが、当時の国民から絶大な支持を受けて三代目として即位し、自らを王でなく皇帝と名乗った
三代目以降はずっと皇家が王権を握って国を栄えさせている。だから現在の主上も、その御子である完燦殿下も、『皇家』の血筋。
王国でありながら、頂点に君するのが『皇帝』である理由はそこにある。
この国は、『王』と『皇帝』が同じ立場にありながら、明確に違う意味をもっているのだ。
「問題は、さ」
殿下は視線を落としたまま、独り言のように呟く。彼の瞳には暗い影が宿っているように見えた。
彼がこれから口にしようとしている言葉がわかるような気がする。けれど、それを否定してほしいと思う自分がいた。
今までの話を、全て噓だったといってほしい。ただ私をからかっているだけなのだと、いつもの張り付けた笑顔で笑いながら言ってくれはしないだろうか。
でも私は知っているのだ。
こういう時の想像というのは、往々にして当たるものなのだと。
「――皇家はいままで誰ひとりとして、君たち龍神に認められていないってことなんだ」
殿下の言葉は、予想通りのものだった。
私は思わず唇を引き結ぶ。殿下はその反応を見てか、自嘲するように口元を歪めた。
「知っての通り、玄粛以降の君主は、すべて彼から繋がっている血筋だ。一応、玄粛は始祖王の家系から妻を迎えていたけど、結局のところ僕らは始祖王の直系血族じゃない。龍神が認めた本当の王、その血筋は既に絶えているんだよ……表向きはね」
でも、残っていた。
それが私の父親。私の体に流れている、赤い血。
「王家の血筋が残っていると世間に広まれば、必ずその復権を目論む者たちが現れる。だから玄粛が即位する際に、始祖王の血を引く者を密かに保護して、それを現代までずっと隠し通してきた。月下殿――かつて、王のための龍宮があった場所に、神事を行うための宮司という名目を着せて残したんだ」
殿下は私を見つめている。けれど私は、彼の瞳を見返すことができなかった。
混乱しているわけでも、恐怖を感じているわけでもない。
ただ、理解してしまったのだ。
父が、この国の影で生き続けていた理由。皇帝陛下に取り立てられ、月下殿を出て、母を下賜された理由。
そして――誰にも父には逆らえない、その本当の理由が。
私はそっと息を吐きだす。
そうしなければ、体が震えてしまいそうな気がした。
「……父が、始祖王の子孫」
「ああ。だからこそ
殿下の言葉を聞いて、私は再び記憶を遡る。
七つの頃にきいた父の言葉。第二の龍宮城、月下殿。
それは、暗くて寂しい場所だと、父は言った。
「でも、彼女が現れた。生まれも育ちも一切不明の、天が遣わしたとしか思えないほどの美姫。それが『珠玉の姫君』。彼女によって、法央は王としての資質を見出されてしまった」
殿下はそこで一度言葉を区切る。
それから、苦いものを飲み込むように喉を鳴らして、告げる。
「法央は、はじめは断ろうとしたらしいよ」
私は思わず顔を上げて殿下を見た。殿下は少しだけ困ったように微笑んでいて、それが私の顔を見てさらに色濃くなる。
「だけど彼女の願いは強くて、法央は折れざるを得なかった。……そうしないと彼女が死んでしまうかもしれない、と思ったから」
「どういうことですか?」
「ほら、帝は彼女に触れることができなかっただろう。そのまま後宮に残っていたら、彼女はいずれ心身ともに病み、衰弱して死んでいてもおかしくなかった。だから法央は、王にならないことを条件に彼女を娶ることにしたんだ。彼女のためにも、自分のためにもね」
「…………」
「彼は王権を望まなかったし、既に皇家の跡継ぎがいる以上、国に混乱を招くようなことはしたくなかった。当時の皇太子――つまり
殿下は淡々と話す。まるで他人事のように。
いや、実際に他人事でしかないのだろう。彼にとっては自分が生まれる前の出来事であり、今さらどうすることもできない。
「でも、功績もない者にそれほど美しい姫を下賜するというのは前代未聞。だから彼は月下殿を出て、政治の中枢に立つことになった。帝の寵臣という触れ込みで」
それでも彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。
「そして法央と『珠玉の姫君』の間には子どもが生まれた。母親によく似た、美しい娘――それが、
私は唇を噛む。そうしていないと叫び出してしまいそうだった。
私が生まれたとき、父はどんな気持ちでいたのだろうか。
父が母のことを愛していたことは間違いない。はじまりはどんな形だったとしても、今の父を見ていればそれは明白だ。
けれど同時に、父の人生は、母との出逢いから狂ってしまった。ただ静かに一生を終えるはずだったその人は、政治という表舞台に立たされることになり、今もその渦に吞まれている。
そして、それを止める術が、私にはない。
「……顔色が悪いね。少し、話を戻そうか」
殿下に言われて、私は自分の体が強張り続けていたことに気づいた。
彼が手を伸ばして壊れ物を扱うように私の頬へ触れる。その手のひらの温度にようやく息ができるような心地がして、私は何度かこくこくと頷いた。
殿下はこちらを窺いつつ、また口を開く。
「玄粛という皇帝は、建国の龍女がいなくなった後に即位した人物なんだ。龍に認められる必要はない、人間は人間だけで社会と国を作り、繁栄させるべき――そういう理念のもとに彼は国を一新し、新たな国の君臨者として『皇帝』を名乗ることにした。当時はそれでよかったし、実際に国は栄えたのだからその選択も正しかったと言えるだろう」
「…………」
「けれど、現在はそうもいかないんだ。人間だけの力で栄えた国は、ときに間違った方向へ傾いてしまう。それを防ぐために、建国伝承の龍女のように、人知を超えた力を持つとされる天啓の象徴が必要だった。要はそれを旗印にすることで国を一つにまとめようってことだね。だからこそ、僕ら皇家には『珠玉の姫君』が必要だったんだけど」
「……」
「けれど、蓋を開けてみればこのざま。結局、父上もまた『珠玉の姫君』には認めてもらえなかった。まあ、きみたちにとってみればいい迷惑だよね。体調を崩して苦しむことになるんだから」
殿下は言い終えると小さく息を吐き、顔を上げた。
その表情からは先ほどまでの悲壮感のようなものは一切消え去っていて、代わりにどこか清々しいような笑みを浮かべている。
それは、私が初めて見る、彼の素顔のようだった。
彼は冷え切った茶器を両手で包みこみながら、ほんの少しだけ眉を下げた。
「ごめんね」
「え?」
「きみには嫌な思いをさせてしまった。本当に申し訳ないと思ってるよ。でも、こうするしか方法がないんだ。僕はどうしても、この国の王になりたかった」
「……どういう意味でしょう?」
「そのままだよ。さっき言ったろう。人間の力だけで栄えた国は、ときに間違った方向に傾いてしまうって。この国は結局、玄粛が目指していた理想から離れて、ただ腐り落ちるだけになった。父上はそれを立て直そうと必死だけど、あの人の命の時間ではきっと間に合わない。だから、それを僕は引き継がなきゃならない」
殿下はひとつ大きく背伸びをして、それからゆっくりと窓の外へと視線を向けた。
空はいつの間にか薄暗くなり始めている。太陽は既に半分以上が沈みかけており、室内は橙色に染まり始めていた。
彼は自らの瞳と同じ色に染まる空を見上げている。
まるで何かを探すような、あるいは、探し出すことを諦めたかのような、不思議な表情で。
「昔、約束をしたんだよ。僕はその役割から逃げずに、ちゃんと王さまになるって。そうしたら彼女は解放されるから」
「彼女?」
「そう。『珠玉の姫君』の代わりに、いまも後宮に囚われているひと。僕の大切なひと」
――なるほど。その人が、彼の恋の相手。
つまり、彼にとっては私ではなく、その女性が運命の人というわけで。
私は心の中で呟く。胸の奥底で小さな炎が揺れた気がしたけれど、気づかなかったふりをした。殿下はそのまま言葉を続ける。
私はその声に耳を傾けながらも、彼に倣って外を眺めてみた。彼がなにかを言っていることはわかったけれど、そこに見えるのは夕暮れだけで、なんだか虚ろになった体に響くことはなくて。
いつもと変わらない、ありふれた光景。彼にとっては無情に流れる時間と、いつまでも変えられない世界の凝縮。
遠いものだ。確かに私に関係しているのに、それは私とはまったく別のところで回っている。この場所に踏み入れる前、ただ家の中で開いていた本を眺めていたのと同じこと。
そこには私の意思なんてちっぽけなものが介入する余地はない。
大きな河の上で、私を載せた小さな舟は、滔々と流されていくことしかできない。
――それが運命というものなのでしょうか。
諦めにも似た気持ちでそんなことを思ったとき、殿下が私を呼んだ。
私はハッとして顔を上げ、無意識に姿勢を正した。彼は目を細めてこちらを見ている。
ああ、似ている。その顔は、私の父が浮かべるものと同じ。
「ねえ、
「…………」
「耐えられなくなったのなら、いつでも出て行って構わない。でも、せめてそれまでは、もう少しだけ僕のわがままに付き合ってくれないかな」
殿下は改めて私のほうへ向き直り、じっと真剣なまなざしを送ってきた。けれど声色はいつもよりずっと弱々しく感じる。
私は殿下の言葉を頭の中で反駁していた。
――私がここを出て行く?
どうしてそんな話になるのかわからない。
殿下は、自分が王になるために私を利用しようと考えていたのではなかったのだろうか。
少なくとも私は、彼に求められればそれを断れるはずがないと思っていた。それがたとえどんな内容であったとしても、私はそのためにここに連れてこられたはずなのだ。それなのに、殿下は今、私の意思を尊重するようなことを口にしている。
「本当に、今更なことを仰るのですね」
私は呆れて呟いた。すると、殿下は困ったような笑みを浮かべ、「そうだね」と小さく笑う。
「正直、自分勝手なことをしている自覚はあるよ。けれど、こればかりは仕方がないことなんだ。僕はどうしても王になりたいし、そのために必要なものは全部利用したい。そのためには君の協力が不可欠だった。それだけの話なんだ」
「いえ、そうではなくて。私は……いいえ、わたくしは、最初に言ったはずですよ」
私はそこで一度言葉を区切り、真っ直ぐに彼を見た。そして、はっきりとした声で告げる。
「わたくし、貴方様の恋を応援いたしますよ。そのお飾りとして生きる覚悟もございます」
この場所に足を踏み入れた瞬間から、私は自分の意志よりも尊重すべきものがあると覚悟している。
彼がどんなに気にくわない相手でも。どれだけ嫌いでも。私は彼のために生きる覚悟を、きちんと持ってここへ来た。
たくさんの感情の波に晒されて。嫌なこともたくさんあって。逃げ出したいことばかりだったけど。
それでも、ここで生きていこうと決めた、その矜持だけは捨てたくないと何度も奥歯を噛んで飲みこんできたんだから。
「あなたがわたくしを利用してくださるというのであれば、喜んで協力致しましょう」
だから、私はそう答えた。
殿下が驚いた顔をしてこちらを見る。
「――君は」
「はい」
「……ああ、うん。なんでもない。ありがとう、法藍晶」
彼は何故か一瞬だけ言葉を飲み込み、それから穏やかな笑顔を見せた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、今日はこれくらいにしておこう」
「はい」
私もそれに倣い立ち上がり、一礼する。
殿下はそのまま部屋から出て行こうとしたところで、ふと思い出したかのように足を止めた。
「そうだ、一つ言い忘れていたことがあった」
振り返った殿下は子どものように悪戯っぽい笑みを浮かべて、ぱちんと片目を閉じた。
「これからよろしくね。これで僕たちは運命共同体、共犯者だ」
私は思わず目を丸くしてしまった。
どうやら、彼は思った以上に強かな性格の持ち主らしい。
私は何とも言えない気分になりながら、そっと息をつく。
本当に厄介な相手に捕まってしまったものだと思ったけれど、不思議と後悔はなかった。
それに、私はあの日、彼と出会ってしまった時点でもう後戻りはできないところまで足を踏み入れてしまっている。
ならばいっそのこと、最後まで彼を見届けようと心に決めた。
けれど。なによりも。
――彼に従うことは構わない。もとよりそのつもりでここにいるのだから。
けれど、それ以外のものに従うつもりなんて、初めからないんですからね。
第十八話、了。
龍宮珠玉の娘 高田あき子 @tikonatu
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