第17話 私に通うもの 2

 しばらくの後、私たちはせんの淹れてくれたお茶を嗜みつつ、机を挟んで座って向き合っていた。

 涙は止まったとはいえ、目元は少し腫れぼったい。化粧も落ちてしまっているかもしれないと思うとお色直ししたほうがよいのではとも思ったが、完燦かんさん殿下はなにも言わないし、整え直している間ずっと部屋でお待ちいただくのも忍びないので、とりあえず茜に粉白粉だけを軽くはたいてもらった。

 相変わらず殿下の従者さんは部屋の出入り口あたりで立ったまま微動だにしない。私と彼がひと悶着していた間も動かなったところをみると、本当に職務に忠実というかなんというか。殿下がひとりだけ連れている人なのだし、もしかしたら彼もいろいろな事情を知っているのかもしれないが、それにしても――。


「……それで、その腕のことだよね」

「え? あ、はい、そう、ですね」


 少し気がそぞろになってしまった。気を悪くしていないかと思い、お茶を口に運びながらちらりと殿下を見上げてみるが、彼は特段気にならなかったようで、腕を組んでううんと首を傾げていた。


「まあ、僕から教えるつもりはなかったけど、こうなっちゃったら言ったほうがいいかもね。でも、聞いたからってすぐに信じられるような内容じゃないと思うよ?」

「構いません。なにもわからないことが一番恐ろしいですから。お願いします」


 そう言うと、殿下は少しの間私の目をじっとみて、それからふっと息をついた。観念したように肩を落として椅子の背もたれに身を預けながら、どこか独り言のように話し始める。


「……君はさ、あの法央ほうおうの娘だろう?」

「そうですね」

「それはつまり、『珠玉の姫君』の娘でもあるってことだ」


 なにを当然のことを言い出したのだろう、と私は首を傾げた。

 後宮に過ごす者のみならず、王宮勤めの官僚だって知っている、あまりに公然な事実……そんな当たり前のことをわざわざ確認する必要がある話なのだろうか。

 怪訝そうにする私の表情に気づいた殿下は、苦笑いしながら肩をすくめた。


「きみの母親、珠玉の姫君は帝のがなかった、って話は知ってるよね?」

「もちろんです。そうでなければ、臣下に下賜されることなどありませんもの」

「それじゃあ、どうして手つきがなかったかってのは、知ってる?」


 私は思わず言葉に詰まった。

 まさかそんな質問をされるとは思っていなかった。確かに言われてみれば、その理由については父にも聞かされていない。私自身は単純な思い込みをしていたし、後宮内では様々な噂が飛び交っているものの、それもまた憶測の域を出ないものばかりである。

 殿下の口ぶりからすれば、そこに重大な事が隠れている、ということだ。


「……たん皇后様以外にご興味がなかったから、ではないのですか?」

「あはは。いくら興味がなくっても、昨晩の僕らみたいに形式的なことはするはずだよ。国祖邂逅の舞なんてのは験担ぎだ。それを蔑ろにするなんてことは、古貴族たちが許さない」

「では、なぜ」


 思わず眉を寄せてしまった私の問いに、殿下はすぐには答えなかった。ただ、ひどく真剣な目でこちらを見つめ、少しの間を置いて、再び口を開く。

 その瞳にはどこか憐れむような色があった。


「珠玉の姫君は、手つきがなかったんじゃない。父上はね、彼女にんだ」


 殿下はそう言って、私の腕を指差した。

 私は自分の右腕に視線を落とす。

 そこにはまだ先ほどと同じ傷が色濃く残っている。魚や蛇の鱗のような、おかしな模様。

 もう痛みはないけれど、それを見ているとやはり不安や恐怖を感じてしまう。

 殿下は机に片肘をつき、眉を下げた。


「入内の儀で舞った直後から、彼女の腕には、きみと同じ模様が浮かんだ。その夜、お召しに呼ばれたけど、彼女は高熱を出して龍宮から出られなかった。きみも知っての通り、お召しってのは王宮のほうに妃側から出向かなきゃならない。彼女はそれができないくらいに体調を崩してしまったんだ」

「…………」

「その後も父上は何度か彼女を呼んだけれど、結局、彼女と契りを交わすことはできなかった。お召しに呼ばれるたびに彼女は熱を出して動けなくなり、見舞いに訪れた帝が触れようとしたら気が狂ったみたいに暴れたらしい。きっとさっきの君みたいに、触られると痛くてたまらなかったんじゃないかな。まあ、当時から父上はうちの母上――いまの皇后にご執心だったからこれといって問題はなかったけど、他の妃嬪からは相当非難されたみたいだよ」


 私は言葉を失ったまま、殿下の話を聞いていることしかできなかった。

 話の内容があまりに衝撃的ですぐには頭が追いつかない。母が私と同じ痛みに苦しんでいたという話なのに、それすらも漠然と、どこか他人事のように思えてしまう。

 しかし――それならやはり、この腕の模様は一体どういうものなのか、ということは気にかかった。

 私が口に出す前に、その疑問に答えるように殿下はひとつ息をついて続けた。 その表情はいつになく厳しい。けれど不機嫌さや怒りというよりは、やるせなさのようなものが滲んでいる。


「その印は、要するに選別なんだ。王を選ぶための」

「……王を、選ぶ?」

「そう。その腕の模様はね、紛れもなく、神の加護そのものなのさ」


 殿下は、はっきりとそう断言した。

 私の頭の中で、なにかがちらりと瞬いた。

 それはひどく小さな光だったが、確かに私の中に残響して、消えることなく灯り続けた。その光が、かちり、と本来あるべき場所に嵌り込んだような感覚がする。

 私は今度こそ言葉を失って、呆然とすることしかできなかった。

 彼が嘘を言っているようには思えない。むしろ、たったいま感じたおかしな感覚が、暴力じみた確信をもって、それがまぎれもない真実だと告げてくるのである。

 だからこそ、混乱してしまう。


 ――神が、人を、選んでいる。


 そんなことが、この時代にあり得るのだろうか。

 建国時代、歴史書に描かれる神代の時代であれば、そんなこともあるかもしれない。けれど、こと現代においては、そんなことは決して起こり得ないはずだ。

 少なくとも私は、神様などというものが、まだこの世に存在しているなんて思っていない。

 祈りも儀式も確かに残っている。けれどそれは形式的なものばかりなのだ。かつてこの世界を育んだ古のものたちへの敬意を忘れないために繰り返す、誰もが大切だと思っていて、けれど日常の中では忘れ去られていくような、そんな行為に過ぎない。

 だから、神なんてものは、もういない。

 この世界は、この国は、人が人を選び、人のために作り上げたはず。


 ――私は、いま自分が何を考えているのか、わからなくなっていた。


 殿下はそんな私の顔を見て困ったように微笑んでみせたが、それでも説明をやめようとはしなかった。


「珠玉の姫君は、その身に神を宿していた。それが建国伝承の龍女――始祖王がはじまりの湖で出会った龍神。きみたちはその龍神と同じように、この国の王に相応しい者を見つけることができる」

「……ほんとうに、神がいたとして。彼らは私たちのなかに未だに息吹いているというのですか?」

「さあね。僕も実際に君のそれをみるまでは半信半疑だったよ。ただ、そういう言い伝えは確かにあって、帝はこの話をある人物から教えられた。それが――君の父親である、法央だ」


 そこで殿下は一度言葉を切った。私の様子を窺うように視線をまっすぐに向けてくる。

 私は震えそうになる唇を必死に動かした。喉はからからに乾いてしまって、奇妙な動悸が私の体に熱を宿していくような心地がする。

 聞きたいことは山ほどある。けれど、何よりも先に確認しなければならないことがあるのだ。


「――私の父は、何者なのですか」


 絞り出した声は掠れていた。

 殿下は真剣な面持ちのままに答える。まるでその質問が来ることを予測していたかのように。あるいはずっと前から覚悟を決めてきたのだろう、と思えるほどの重みのある声で。

 彼は言った。

 私が知りたかった真実を。


「法央。かつての月下殿の主。彼は、始祖王直系の末裔さ」



第十七話、了。

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