第16話 私に通うもの 1
部屋に戻ったあと、私は自分の寝台の上に降ろされた。
なんとか俵担ぎから解放された私は寝台の端に座りつつ、服装の乱れを適当に直していく。腰帯と襟を正しつつながらちらりと見遣ってみると、
居心地の悪さを感じつつ、私はちらりと視線を巡らせる。室内には私と殿下、殿下の従者の方、そして私の侍女頭の
つまりは二人きりではないものの、ほとんど二人きりと言ってもいい状況だ。
――いや、だからといってこの状況で何が起きるわけでもないけれど。
というか、できることならこのまま退散したい。もうお部屋は好きに使っていただいて結構なので。
だがもちろんそんな願いが叶うはずもなく、殿下は私のほうを眺めたままに、おもむろに口を開く。
「浮かない顔をしているけどね、あのまま茶会で過ごすよりはずっとよかったと思うよ」
「……」
「あの場に留まっても退屈だっただろ。皇后の相手なんて疲れるだけだしね」
でもそれとこれとは話が別というか。
そもそも私は最初、
彼女たちが思っていたよりも仲良しであると判明したことは良い収穫といえるけれど、身が縮むような恐ろしい時間もあった。そのうえ肝心の蔡姫は最後にはあの調子。これはまた余計な誤解が深まったのではないだろうか、と思うと胃が痛む。
それにしても完燦殿はどうしてこんなに機嫌が良いのだろう。いやまあ、機嫌が悪いより良いほうがいいのでしょうけれど。
そう思って完燦殿下のほうへ視線を向けると、彼はこちらを見て口端をつり上げた。
それはそれは楽しそうに。
ああ、やっぱりこの人は私が困っている姿を見るのが楽しいだけなのだ。
「……底意地が悪い……」
思わず口からこぼれ出た言葉に、完燦殿下がぴくりと眉を動かした。
「どういう意味?」
「そのままの意味ですが」
「ふうん。まあいいけど。それで、具合のほうはどう?」
「問題ありませんよ。べつに病気ではないのですから、休めばすぐによくなります」
「そう。じゃあもう少しここにいてあげるよ」
そう言って殿下は立ち上がると、私が座っている寝台へと移動し腰掛けた。そしてぽんぽんとその膝を叩いてみせる。
言葉のないそれに私は首を傾げる。殿下はにっこり笑ったまま、もう一度ご自分の膝をぽんぽん、と叩いた。
数拍の間が空く。
どうやら、ここに座れ、ということらしい。
――いや、なんでそうなる。
さすがにそこまでは甘えられない。というか普通に嫌です。
そう思い、私はふるふると首を横に振って拒絶の意を示した。すると完燦殿下は不思議そうに、おめめをまあるくなさった。
ああ、その顔はとても可愛らしくていらっしゃいますね。子どもっぽくて。
なんて皮肉と現実逃避なことを考える私に対し、彼はほんの数秒考えこむそぶりを見せたのち、信じられない行動に移った。
「そう遠慮しないでいいよ?」
そう言うなり、殿下は私をひょいと抱え上げて足の間にちょんと座らせたのである。
「は?」
一瞬何をされたのか分からず呆然としてしまった。
そんな私をよそに、完燦殿下は背後からぎゅっと抱きしめるように腕を回してくる。
――いやいやいやいや、なにをしやがっておられますかこの方は。
私をサイズ感のちょうどいい抱き枕かなにかだと思っていらっしゃいます?
さすがにこれは睨んでもよかろうと振り返ってみると、肩越しに彼と目が合った。近い。近すぎる。背中が密着しているのだから当然ではあるけど、それも思考の端にぶっ飛ぶくらい近かった。
「いまは、腕が痛いなんてことはないの?」
「え、ええ、とくには――」
殿下の声が耳元で聞こえたせいで、私は咄嵯に視線を逸らす。
しかしそうすることで視界に入った自分の手を見て、今度はぎょっと目を見開くことになった。
まただ。
腕に、あの傷が、浮かんでいる。
しかも今度は、はっきりと違いがわかるほどに、その範囲が広がっていた。
今朝よりも確実に広がっている。痛みはないけれど、じわりと、手首から肘まで黒い模様のような線が滲むように現れていた。
ぞわり、と背筋を悪寒が駆け抜ける。
まるで身体の内側を直接見ているような、おかしな感覚がする。言いようのない怖気がこみ上げてきて、思わず嘔気づいた。
――これ、ほんとうに、私の腕?
怖い。
気持ち悪い。
不安と恐怖がぐるぐると体中を巡っていく。
「まだ治ってないね」
「っ!」
すこし心配そうな色を含んだ殿下の言葉で我に返り、思わず捲れている袖を戻した。自分の体を抱え込むように体を丸くしてぎゅっと縮こまる。どうしてかはわからないけれど、彼にこの腕を見られるというのは、なんだかあまり良くないことのような気がするのだ。
けれど殿下はそれを許してくれなかった。少し眉を寄せて、ちょっとだけ不機嫌になりかけた様子で私の腕を掴む。
「別に隠すことじゃないだろ。一度は見たんだし」
そう言いながら殿下は私の腕に自分の手を伸ばして袖をたくし上げる。
その拍子に指先が手首のそれに触れた。
瞬間、まるで火傷を負ったかのような鋭い痛みが走り、そのあまりの衝撃に呼吸が止まる。目の前がちらりと白く染まるほどの激痛。
「いっ……!?」
「え、あ、ごめん。大丈夫?」
私の反応を見た殿下はすぐに手を離して心配そうに顔を覗き込んできたけれど、正直それどころではない。
全身からぶわりと冷や汗が流れ出す。心臓の音がうるさいくらい早鐘を打っていて、頭がくらくらする。
働かない頭を必死に巡らせて、記憶の中にある様々な病気の症状に当てはめてみようとする。これは何の病だろう。身に覚えのないうちについた傷、否、きっとこれは内側から滲みだしている何か。それが何であるかはわからない。でも、それが、とても良くないものだということだけは、わかるのだ。
「なに、これ、なんなの」
声は震えていた。
すこしの感覚に違和感を覚えて頬を触ると、指先がわずかに濡れる。自分が泣いているのだと自覚するまでは、少し時間が掛かった。
「えと、見てもいい?」
殿下は真剣な表情を浮かべてこちらを窺った。
私が頷くのを確認してから、今度は肌に触れないように慎重に袖を捲っていき、じっと観察するように眺める。
私も彼の視線を追って、恐々と自分の腕を見た。
手首から肘のあたりまでびっしりと浮かび上がった不気味な痕。魚か、あるいは蛇の鱗のような、丸とも四角ともとれない模様が腕の表面を覆っている。見ているだけで気分が悪くなりそうな光景だ。けれども――同時にどこか懐かしさも感じる気がした。
そんなことを考えながらぼんやりとその傷を見つめていると、殿下はふと顔を上げてこちら覗きこんだ。
「……見ているだけなら、痛くない?」
そう尋ねられて、私はこくりと小さく首肯する。
すると彼は再び腕へと視線を落として、今度はおずおずとこちらを窺いながら、指先でつうとなぞるように痕に触れた。
途端に先ほどと同じ痛みが走る。今度は覚悟をしていたから先ほどよりは絶えられたものの、やはり激痛であることには変わりない。ぎゅっと目を閉じて唇を噛むと、それに気づいた殿下はすぐに手を離した。
「ごめん。うん、やっぱり、まだダメみたいだね」
そう言ってため息をつく殿下の声には落胆の色が混じっている。
私はおそるおそる目を開け、もう一度腕に目を向けてみた。
相変わらず、そこには奇妙な模様がある。少しばかり尾を引く痛みは、殿下が触れた場所から感じるように思った。
――私はどうしてしまったんだろうか。
わからないことがなによりも恐ろしい。でも彼はなにも教えてくれないし、頼みの綱だった四妃もあの茶会から離れた以上、また尋ねに行くこともできない。
結局のところ、今の私には何もできなかった。
自分の身体がどんどん変わっていってしまうのが怖くてたまらない。
いったい私はどうなるのだろう。このままでは、いつか、この腕のように私の中身までもが黒く塗りつぶされてしまうように思えてならない。自分の内側にあるなにかが私を蝕んでいるような、そんな嫌な予感だけがひしひしと迫ってくる。
この腕といい、異常な揺れ方をする感情といい、私の身体はもうとっくにおかしくなっているのかもしれない。
そう考えると、いよいよ涙が止まらなくなった。
「……っ」
ぽたり、ぽたりと大粒の雫が落ちていく。止めようとしても止められなかった。
嗚咽まで漏れ始めてしまえば、あとはもう駄目だった。
一度決壊すれば、あとはただ流れ落ちるだけ。
泣きたくなくても勝手に溢れてくる。私の自我なんて関係なく。
「――……」
不意に殿下が口を開くのがわかった。しかし何を言っているのかまでは聞き取れなくて、私はゆっくりと顔を上げる。
背後にある殿下の顔を肩越しに見上げると、彼は眉根を寄せて困り果てたような表情をしていた。
目を逸らしたり、またこちらを見たり、手を伸ばそうとしてみたり、でもすぐにひっこめたり。明らかに動揺している様子で、何かを言いかけては口を閉ざすということを何度か繰り返した末に、彼はそうっと私の頭を撫でた。
「……」
そしてそのまま黙って髪をすくうようにして、優しく触れられる。その手つきはとても穏やかで、痛みも感じない。
「ごめん、え、と」
殿下はしばらく迷っていたけれど、やがて意を決したように言葉を口に出す。
今までに聞いたことのないくらい優しい音。揺らいでいる瞳はあの皇后様と同じ橙色だ。眉を下げる彼は、迷子の子どものように泣き出しそうな顔をしていた。
「君に泣くのをやめてほしいわけじゃないんだ。笑ってほしいとは思うけど、それは無理な話だし。だから、うん。泣かないでほしい、けど」
「……」
「でも、そうだなぁ。今、ここで泣いてくれるのは、僕としては、ちょっとだけ嬉しいことなんだ。きみは、僕の前じゃ絶対に弱音を吐いたりしないだろ。だから、ほんのちょっとだけね」
そう言って殿下はくしゃりと破顔した。どうしてなのか、私は、彼が心の底から私のことを案じているのだと感じ取っていた。
その瞬間、私の涙はうそみたいにぴたりと止まる。私はぱちぱちと瞬きを繰り返して自分の頬を触ってみた。不思議な事の連続に思わず振り返って殿下のほうを見やると、彼もまた驚いたようで目を見開いていた。
「え、っと」
私たちは互いに顔を見合わせて困惑した。二人とも頭の上に盛大な疑問符が浮かんでいる。けれども、そんなふうにして見つめ合っているうちに、殿下はふと嬉しそうな笑顔を見せた。
「よかった。気持ちは、ちゃんと通じるみたいだ」
そう言われてもよくわからなくて私は首を傾げる。
ただなんとなく胸が温かくなって、ほっとする。それだけは確かなのだった。
第十六話、了。
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