第15話 揺らぎ
「わたしの息子について、あなたたちはどう思うかしら?」
皇后様の問いに、私たちはすぐには答えられなかった。
まるでなんということはない雑談のように放り投げられた、その質問の意図がどこにあるのか。
私と
皇后様は私たちを急かすようなことはしなかった。明るい橙色の瞳が笑みを浮かべて私たちの答えを待っている。
ただ褒め称え、世辞を述べることが正しいとは到底思えない。当代の帝に選ばれた才媛が求めるものが、そんな吹けば飛ぶような軽薄な言葉ではないことは誰だって知っている。だからといって、
しばしの沈黙が訪れる。白い袖を揺らして徳妃が口に放り込む菓子の音だけが耳に響く。
やがて私は、ゆっくりとその問いの答えを口にした。
「……聡明な方かと、存じます」
皇后様はわずかに首を傾げて続けざまに問うた。
「そうね。それは私も思うわ。それだけ?」
声の調子は変わらない。威圧感もなく、まるで年頃の少女たちが交わす世間話を口にしているような明るい声色。けれどこの場で発せられるには、あまりに不相応なものであることは明白だった。
「恐れながら申し上げます。陛下のお選びになった御子ですから、お優しい方だと、思います」
緊張のためか、続けて答えた蔡姫の声は少し震えていた。
皇后様はその答えを聞いてふっと口元を緩める。
「そうよね。私もそう思っていたのよ。でも最近になって考えが変わったの。あの子はただの愚か者だったんじゃないかって」
「え――」
皇后様の言葉に思わず息を飲む。隣の蔡姫も、菓子や茶器を口に運んでいた四妃もまた、動きを止めて目を丸くしていた。
今の発言がどれほど危険なものなのか、彼女は理解しているのだろうか。皇帝陛下の御子、それも皇位を継ぐことを約束された皇太子が愚鈍であるなどという噂が立ってしまえば、国の未来に関わる大問題になる。それをまさか、こんな場所で、しかも笑顔で口にするなんて。
しかし皇后様は私たちの反応を見て、逆に不思議そうな顔をした。
「あら、どうして驚くことがあるの?」
皇后様が口にしたのは、確かに疑問の形をとってはいるものの、彼女の中ではすでに確信を得ていることを改めて確認するような響きがあった。どうしてなのかはわからないが、彼女の中ではもうすでに結論が出ているらしい。だからこそ、今こうして何の躊躇いもなく息子に対する評価を口にすることができるのだろう。
だがそれはとても恐ろしいことだ。この場にいる皆が抱いているであろうその思いを代表するかのように、おそるおそる蔡姫が口を開いた。
「ご無礼ながらお伺い致しますが……皇后様は、殿下のことをよく思われていらっしゃらないのですか?」
「まさか。とても可愛いと思っているわ。でも、だからこそ、ね?」
そこで皇后様は初めて表情を変えた。それまで浮かべていた笑みは消え、温度が急速に失われていく。一瞬で凍えるような空気に包まれた茶会に、私は身体の芯まで寒くなるのを感じた。
これはまずい。非常にまずい。
皇后様は今まさに、ご自身の息子――この国の皇太子である
本来なら決して表沙汰にしてはいけない類のものだ。もし彼女の口から皇太子への苦情が漏れれば、それは瞬く間に宮中へと広がっていくだろう。
歴史上、親子の対立などよくある話。ただでさえ『女』の地位が低いこの国で、その頂点に立つ皇后が自らの息子の粗を突いているなどとと流布されれば、皇室の権威は地に落ちてしまう。
聡い彼女がそれを知らないはずはない。皇室のみならず多くの王宮官僚に褒めそやされるほどの『揺籃の妃』が、それをわからないはずがないのに。
「あの子は愚かだわ。私の期待に応えられないどころか、自分の望みすら間違えているのですから」
皇后様の口調はあくまで穏やかだ。まるで世間話、あるいは天気の話でもするかのごとく、彼女はその言葉を口にした。
「自分のことばかりで周りのことなど何も見えていないわ。だからいつも失敗ばかりして、そのたびに周りに迷惑をかけるの」
皇后様の視線がちらりとこちらに向けられる。私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
ああ、どうかそれ以上のことを口にしないでほしい。
この場にいる妃嬪が私たちだけだとしても、その付き人たちまではわからない。女官の中に完燦様を失脚させようとする者が紛れていないとも限らないのに。
皇后様はきっとそのこともすべてわかった上で口にしているのだろうけれど、それでも真意がわからない以上、私たちの心臓は破裂寸前である。
そして案の定、皇后様の言葉が止むことはなかった。
「――だから、いつか必ず、取り返しのつかないことをする」
わずかなその一瞬、皇后様の顔からすべての感情が抜け落ちたように見えた。
化粧に隠された白い肌がよりいっそうの色味を失う。ただ椅子に座っているだけのお人形のような彼女が、しんと静まり返った茶会の中心でぱちりと瞬いた。
「あなたたちもよく覚えておくといいわ。あの子が馬鹿なことをした時は、容赦なく切り捨てなさい。憐憫も同情もいらない。そんなものは邪魔なだけで、誰も幸せになんてしないのよ」
皇后様はそう言って、ひとつ息を吐くと、再び笑顔を浮かべた。
それは先ほどまでのどこか悪戯っぽい笑顔とは違う、底冷えするような微笑みだった。けれど同時に、今まで見たどんな表情よりも美しく、艶やかにも思える。
もしかすれば、これが彼女の本来の姿なのかもしれない。少女の無邪気さ、母の慈愛、そして皇后としての威厳――すべてを持ち合わせる彼女の、恐ろしいまでの崇高さをいま私たちは目の当たりにしている。
私は皇后様に見惚れながらも、一方で恐怖を感じずにはいられなかった。
彼女はなにを見て、なにを思い、この場所で生きることを選んだのだろうか。
私が彼女に抱いた疑問に答える者はいない。沈黙がその場を支配する。誰もが身動き一つできずにいた。
そんな中、不意に砂利を踏む音が響く。
「そうやって龍宮妃を怖がらせるのはよくないよ、母上」
現れた人物を見て、みな一様に目を見開く。
そこにいたのは紛れもなく、たった数秒前まで話題に上がっていた完燦殿下その人だ。
あの異国風の容貌をした従者をひとりだけ連れて、しかしその装いは正しくお誂えの訪問着。腰帯には皇帝からの許可の証である玉まで佩している。
完燦殿下の登場は、皇后様にとっても予想外だったらしい。その顔は幼い少女のように、きょとんと愛らしいものにすり替わっていた。
「あら、あら」
皇后様は何度かまばたきをして目の前の息子の姿を確認すると、やがてふっと表情を和らげた。
「珍しいわね。まっすぐここに来たの?」
「一度龍宮には寄ったよ。でも
完燦殿下はそう言って手に持っていた包みを掲げてみせる。
皇后様は小さくため息をつくと、仕方なさそうな表情で息子を招き入れた。多重の驚きで固まっていた私と蔡姫はそのしぐさにハッとして、なんとか椅子から立ち上がり礼をとる。同じように恭しく頭を下げる四妃にも「かしこまらないでいいよ」と声をかけ、殿下はそのまま真っ直ぐこちらに向かってきた。
「やあ、藍晶姫。ご機嫌麗しゅう」
「……恐れ入ります」
芝居がかった言葉に苦笑いを浮かべつつ、私はそそくさと身を引きつつちらりと頭上にある彼の表情を窺ってみる。
しかし、そこにはいつものように張り付いたような笑顔があるだけで、真意まで探らせてはくれないらしい。
互いに視線を交わしている間に、殿下の腕が伸びてきて私の腕を捕まえた。
反射的に引きかけた腕は、軽い力では動かないくらいに留められる。年下とはいえさすがに男の人だ。ぼんやりと力の差に感心していると、そのままぐいと引き寄せられて、あっという間もなくすっぽりと彼の腕の中に収められてしまった。
「――は?」
突然のことに頭が真っ白になる。何が起きたか理解できないまま、ただ耳元でくすくすと笑う吐息だけが聞こえて、私は何度も目を瞬かせた。
「相変わらずつれないなぁ。せっかく会いに来てあげたのに、そんな態度はないだろう?」
「え……なに……」
「それにしても今日は一段と綺麗だね。香油を変えたのかな、いい匂いもする」
そう言いながら軽く頬ずりまでされて、私の頭はいよいよ思考を停止させた。
いったいこれはどういう状況だ?
なぜ自分は皇太子に抱きしめられている?
無駄に甘ったるい雰囲気の言葉とか吐かれる謂れはないはずなんだけれども。
「え、は? え?」
混乱する頭をなんとか動かして身を捩り、助けを求めて蔡姫のほうへ視線を向けると、彼女は小さく「まあまあまあ」と口にしながら頬を真っ赤に染めていた。
あ、蔡姫が可愛い――じゃなくて。
なんでそんなに嬉しそうなんですか⁉ 助けてくださいません⁉
そう叫びたいのを必死に抑え、代わりに殿下の胸板を押し返す。すると彼はあっさりと拘束を解き、今度は少しだけ屈んで私の顔を覗き込んできた。
「顔色が悪いよ。大丈夫かい?」
「誰のせいだと⁉」
思わず敬語も忘れて睨みつけるが、彼は気にする様子もなく笑っている。
そしてそのまま自然な動作で顎を持ち上げられ、くいっと上向かされた。
皇后様と同じ明るい橙の瞳がじっとこちらを見つめてくる。
「……え、あの、なにを」
「うん、やっぱり少し熱っぽいかな。さっきまでずっと緊張していただろう? 疲れが出たんだよ」
「いや……そういうことではなくて」
「ほら、もっと力を抜くといい。そうしないと余計に具合が悪くなるよ」
そう言うなり、完燦殿下は片手で軽々と私を抱え上げた。
ただし、可愛らしいときめきを生むようなお姫様抱っこではなく、俵担ぎで。
「うぉあああああ!!」
「お、素の悲鳴。いいねーそういうの好きだよ」
「おっ降ろしてください! 自分で歩けますから!」
「遠慮しないで。病人は大人しくしてないと」
「病気じゃない! というかさっきからわざとやってますよね!」
「さて、どうだろ」
そう言って殿下はくすくす笑う。その笑顔は先ほど皇后様に向けられたものと同じはずなのに、なぜか今のほうがずっと恐ろしい気がする。
なんだってここまで変わるのか。今朝までの態度と違いすぎませんか。というか好きな人がいるって言ってましたよね。本当にこの変わりようは何ですか。
男の人ってそんなに簡単に好きな人を変えるんですか、などと全男性皆々様に大変失礼なことを考えてしまうくらいに私の脳内は大波乱だ。
再度助けを求めて蔡姫と四妃に視線を送ってみたのだが、なにを思っているのか彼女たちはまるで微笑ましいものをみるような生暖かい眼差しを向けてくるばかりで助け舟を出してくれそうにはない。皇后様だけが頬に手を当ててため息をついているが、そんな彼女も小さく首を振るだけだった。
当然私を抱え上げている殿下が『冗談だよ』なんて言って下ろしてくれるはずもなく――結局私は諦めのため息とともに抵抗をやめる。
「……どちらに向かうおつもりですか」
「そうだなぁ。とりあえずきみの部屋に戻ろうかな。渡さなきゃいけないものもあるし」
「左様で……」
もう好きにしてください。
力なく呟いたのを最後に、私たち(と殿下の従者さん)は皇后様の茶会から辞したのであった。
第十五話、了。
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