朝に道を聞かば夕に生きるとも可なり

 気が抜けるほど軽い音が響いた。

 銃声はなく、汽笛と風の音だけが号刀ごうなたの鼓膜を揺らす。



 何度引鉄を引いても、銀の弾丸は発射されない。

 銃を見ると、血と水晶体の欠片の混じった粘液が銃口にべったりと張りついて蓋をしていた。

「嘘だろ……」

 夜風が血塗れの制服を捲り上げ、破れた御守りが嘲笑うように揺れた。


「全員が作った機会だぞ。俺のせいで今更失敗できるか……」

 呆然と呟く号刀の視界が激しく縦に揺れた。



 足元から赤い触手が波のように湧き立ち、炭水車を肉の壁が覆い隠していく。

 銃を取るか、刀を取るか。一瞬の躊躇の間に、ごぼりと脈動した肉が号刀を包み込んだ。


 生々しい鉄の匂いが息も詰まるほど充満する。膨れる肉に全身を押さえつけられ、徐々に意識が遠ざかるのがわかった。

 酸素が薄れる中、轟々と流れる血潮の音だけが耳を打った。


「駄目だ、まだ……」

 伸ばしかけた手は肉に押し込まれ、指先しか動かない。鼻先に垂れた御守りが頬を叩いた。

「どこが福の神だ、疫病神が……」


 血に染まった御守り袋から元の桃色が一部覗いていた。陰陽警察に入ることを決めた日、妹が自分の着物で作った袋だった。

夕子ゆうこ……」

 汚れた平家の居間で一針ずつ袋を縫いながら、夕子が言った。


「私、明るい色の方が好きだもの。名前が暗い分、朝陽みたいな赤や橙や桃色が好き」



 号刀は目を見開き、塞がれた気道から声を絞り出した。

「疫病神、"不幸"を起こせ……最悪の妖怪、ひとの魔物の双方の敵、ヒダル神を……」

 震える指で御守りを握りしめる。

あさひを呼べ!」

 視界の闇が白い歯で砕かれた。



 自由になった号刀の体を暴風が包む。

 何百人もの内臓をぶち撒けたような血肉が弾け、花火よりも眩しく東京の夜空を彩る


 炭水車の上に倒れていた号刀の足元で、血塗れの白髪が覗いた。

「呼んだかあ? 正宗まさむね

 㬢は獰猛に笑い、骨張った手が号刀を掴んで起こす。ふらついてぶつかった喪服の胸には夥しい穴が開いていた。


「㬢……」

 号刀は㬢の肩に縋って立ち直る。

 列車は海に差し掛かり、線路の東側の堤防が闇を一層濃くしていた。足元では再び肉が増長し始めている。


「㬢、手伝ってくれ。疫病神にも協力させる。いいな?」

「気に食わねえがしょうがねえ。それより、さっき何でしくじった?」

 号刀は血糊のついた銃を振った。㬢はけたけたと笑う。



 号刀は東の空を睨んだ。

 線路が再び大きく弧を描いて曲がり、車両が殆ど横に倒れる。


「今だ!」

 㬢が号刀の腰を掴んで跳躍した。遠ざかる炭水車に向けて、号刀は拳銃を放った。


 リボルバー銃は鈍く輝き、肉の壁の裂け目に吸い込まれる。

「疫病神、"不幸"を起こせ。銃の暴発だ!」

 銃声が響き、一条の閃光が血肉に包まれる列車を貫いた。


 㬢が片手を蠢かせる。

「ヒダル神の飢えに限りなし、あの崖を食らう」

 聳り立つ絶壁がひび割れた。二つの赤い眼球が空中のふたりを睨む。㬢は犬歯を剥き出した。


「手前、そういや名前ねえのか? 俺はいいもんをもらったぜ。知ってるか、吸血鬼を殺すのは"朝日"だ」



 巨大な歯が堤防を抉り抜き、崩落した土壁から強烈な閃光が放射される。

 東の空から射した緋色の陽光が汽車を舐め、肉に覆われた炭水車が燃え盛った。


 瞬く間に炎に包まれた車両が横転し、朝日に燻されて黒煙を上げる。

 号刀たちの目下で鋭い絶叫が一声響き、汽車が完全に塵となって消失した。



 㬢が一足先に着地し、号刀を線路に下ろす。

「終わったのか……」

「炭になっちまった。結局食い損ねたなあ」

 清廉な陽光が崩落した堤防から射していた。


「派手にやってくれたわね。これで予算も使い切れるかしら」

 焦げついた線路を踏み締めて現れた八坂やさかが微笑んだ。傷どころか緋袴に汚れひとつない。

「やっぱりおっかねえ女だ」

 㬢は不満げに舌を出した。



 遠くに見える駅舎に陰陽警察の車が滑り込む。八坂は護符に二、三言告げ、号刀に向き直いた。

「ふたりで倒したのね?」

「全員のお陰です」

「ヒダル神が人間と協力して戦ったのか、と聞きたいのだけど」

 号刀は強く頷く。八坂は血のような目を細めた。


「すごいね、本当にやっちゃったんだ」

 丑瀬ひろせが相変わらず気怠げな声で歩み寄る。

「事後処理が山積みだろうけど、ことちゃんが重傷だから先に病院行っていいかな?」

「重傷ではない。私を職務怠慢の言い訳に使うな!」

 中沢なかざわは椿柄の羽織を腹に巻きつけて、彼の背に負われていた。


「全く、お前は無傷じゃないか。こちらだけ身体を張って、心配して損をした……」

「叫ぶと傷口開いちゃうよ。心配してくれたんだ?」

「うるさい、早く行け……」


 号刀は苦笑してふたりを見送った。

「ああいう関係もありかもな」

「俺にはわかんねえよ」



 炭化した車両を飛び越えて、白と茶の猫が八坂の肩に駆け上がった。

纏井まといくんもお疲れ様」

 すねこすりは八坂の耳元で囁いた。

「ヒダル神はどうでしたか」

「本当に飼い慣らされたようね。ひとを庇って傷つくなんて」

 纏井は小さく喉を鳴らした。


「ひとを庇ったのも驚きだけど、傷を負ったのはもっとよ。私たちが代々戦い続けて一太刀も浴びせられなかったのに」

「敵はそれほど強力だったのですね」

「どうかしら……ヒダル神は飢えた霊の集合体。彼が満腹を感じれば、存在を保てなくなると思わなくて?」


 八坂は線路を歩く号刀と㬢を見据えた。

「号刀くんはこれからも強力な切り札になる。そして、彼といるほどヒダル神は満たされる。舶来の魔物には死を、餓死者の霊には成仏を。一石二鳥になればいいのだけれど」

「疫病神憑きというのは本当ですね。私は人間には幸福でいてほしいのですが」


 纏井はひげを揺らして彼女の肩から降りた。吸血鬼が滅びた朝に、血よりも赤い髪が風に靡いた。



 空の色が薄くなり、朝焼けを映す海が煌めいた。

 靄に烟る横浜港の造船所の輪郭を橙の光がなぞり出していく。


 号刀は血膿で汚れた肋骨服を脱ぎ、下のシャツの襟を緩めた。

「誰も見ちゃしねえよお。どっか行く気か?」

「飯、食い損ねただろ」

 号刀の声に、線路の小石を蹴りながら歩いていた㬢は顔を上げた。


「横浜は港だから魚が美味いらしい。食ったことあるか?」

「食ったあるけど食わせてもらうのは初めてだ」


 号刀は小さく笑い、独り言のように呟いた。

「俺も親父とお袋が死んでから、誰かに守られたのは初めてだな」

 破れた御守りを胸ポケットにしまう。



 駅舎が近づくにつれて、蒸気外輪船が停まる港と造船所が見えて来た。陰陽警察の車が波止場にひしめいている。

 どれも江戸にはなかったものだ。


 朝の光だけは変わらない色で、導くように線路を照らしていた。

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明治異聞 陰陽警察事件簿 木古おうみ @kipplemaker

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