風穴
五色ひいらぎ
風穴
懐中電灯の先に、ようやく大きな灯りが見えた。木の根やら岩やらの間を走り通しで、すっかり棒になった足が、少しばかり軽くなる。
まさか、ここに助けを求める日が来ようとはな。だが、朝まで生きられる希望はここにしかねえ。
樹海入口の駐在所に駆け込めば、古びた机で頬杖ついていた警官がゆっくりと俺を見た。いかにも眠そうな制服のおっさんに向けて、俺は息を整えながら声を絞り出した。
「逮捕してくれ」
言いつつ、入口の扉を閉めて鍵をかける。
四十代くらいのおっさんは、怪訝な顔で俺を見上げた。ああ、だろうな、まずは俺の罪状から説明しねえとな。
「人を殺した。それも一人じゃねえ、何人も殺してる」
おっさんが目を丸くした。俺は両手を揃えて差し出しつつ、せいいっぱいの笑顔を作った。
逮捕されれば死刑は確実だ。だが今は、あいつらから逃げなきゃならねえ。俺の知るかぎり、ここは樹海に一番近い安全地帯だ。明日の死刑より今夜の生存。なんとしても、ここで身柄を確保してもらわなければ。
おっさん警官に手首をひらひら見せつけながら、俺は自分の犯罪について早口で説明し始めた。
◇
元々俺たちは、人殺しをするつもりじゃなかった。むしろ自分らが死ぬつもりだった。
俺とカツヤとジローが初めて樹海に来たのは、一年ほど前のことだ。底辺の自殺志願者同士、SNSでなんとなく知り合って、なんとなく一緒に死ぬ話になって、落ち合って樹海に向かった。
ロープを手に奥へ進んで、具合の良さそうな木を探していると、先客に遭った。枝から垂れ下がった白骨死体の下には、意外なほど綺麗に革の鞄が残っていて、開いてみると数千円の現金と免許証、保険証が出てきた。
「こいつで、金借りられねえかな」
カツヤが言うと、ジローが即座に首を振った。
「こんなところで自殺してるような人でしょ? とっくに借金まみれじゃないのかな」
「だったらケータイはどうだ。名義借りて契約だけして、あとは端末売り飛ばしてドロン」
カツヤが次々と並べ立てる免許証の活用法を、俺はただ横で聞いていた。それだけの知識というか悪知恵があるなら、もうちょっとマシな人生送れてそうなもんだが、世の中そうはいかねえんだろうな……って、話が逸れた。
ともあれ俺たちは、遺留品の免許証で小銭を作った。死人名義で作ったケータイを売り飛ばし、少しばかり懐を潤して……また樹海へ向かった。味をしめた、ってやつだな。死体を探しては遺留品を漁り、金になりそうな物は残らず活用し、気付けばすっかり死体荒らしが楽しくなっていた。人骨の見た目に慣れさえすれば、まあ宝探しみたいなもんだ。山に入って山菜やらマツタケやら探すのと、たぶん大した違いはなく……って、また話が逸れたな。
一線を越えたのは、たぶん三ヶ月くらい経った頃だ。
いつものように死体を探してたら、生きてる人間を見つけちまったんだよな。ロングヘアの女が、樹海のど真ん中を白いワンピースで歩いてたから、最初は幽霊かと思った。けど向こうから声をかけてきてな、アニメっぽい可愛い声で、よく見りゃ目鼻立ちもくっきりした美人だ。近寄ってみれば、顔は気合の入ったフルメイクで、首には金のネックレス、足元には赤いパンプスを履いて、思いのほか派手めの格好をしてた。
「お姉さんも死にに来たの?」
カツヤが訊けば、女は小さく頷いた。自殺するつもりで遺書も書いてきたけれど、思うように歩けないし死に場所も見つけられないしで困っている、と。確かに女の足元は、小枝や岩に引っ掛けたのか傷だらけだった。じゃあ一緒にいい所を探そうか、とカツヤが言えば、女は喜んでついてきた。どうせなら綺麗なまま死にたいと思って、精一杯整えてきたのが裏目に出た、けど皆さんに会えて助かった、と。
木々の間、少しばかり開けた場所に出たところで、カツヤは急に立ち止まった。
「にしても、お姉さん美人だよね。こんな美人をただ死なせるの、もったいないなあ?」
言い終わると同時に、カツヤは女を突き飛ばした。小さな叫びと共に、白い身体が腐葉土に転がった。カツヤは素早く馬乗りになり、ワンピースの襟首に手をかけた。
「何してんだおまえら。こいつはもう『死んでる』んだ……ヤりたい放題だぜ」
人気のない樹海の中で、男三人に女一人。まあ、ヤることは決まってるよな。誰も聞いてねえ悲鳴は上がるに任せて、白い服は胸元から破いて……全員で存分に楽しみ尽くして、ネックレスや指輪を剥ぎ取った後、ちゃんと望みは叶えてやったよ。バッグの中に入ってたロープで、一息に首を絞めて。
ああ、強姦罪もどうぞ適用してくれ。連続殺人の時点で十二分に死刑なんだろうけどな。
すべてのコトを終えた後、俺は急に怖くなった。冷たくなった裸の身体も、涙と涎と体液でぐちゃぐちゃに崩れたメイクも、空恐ろしかった。虚ろな目から視線を外せず立ち尽くしていると、ジローが急に死体の顔を殴り始めた。よく見れば手の中に、こぶし大の石が握られている。化粧が溶け切った顔が、見る間に潰れて血と肉の塊になっていくのを、俺はどこか、ほっとしながら眺めていた。
死体は近くの風穴に投げ込んだ。場所は、捜査になったら案内する。幹が「く」の字に曲がった松があって、その根元に底の見えない穴が開いてるんだ。これまでの死体は全部そこへ捨てた、死体遺棄もどうぞ積んでくれ……現場検証は日の高いうちに、できれば大人数で頼む。
そして、俺たちは今度も味をしめた。樹海の入口で自殺志願者を待ち、後をつけ、適当なところで声をかけ、油断したところを襲うようになった。少なくとも、片手で足りないくらいには殺したはずだ。女なら、もしくは男でも許容範囲内なら、事前に楽しんだりもした。どうせ死ぬ人間なんだ、持ち物は生きてる人間が有効活用した方がいい、金品もカラダも……そんな風に皆が思ってた。
俺たちは毎回、死体の顔を潰した。手近な岩や石で念入りに、な。今はDNA鑑定やらなんやらがある、顔を隠しても身元が隠せないのはわかってるんだが、何か安心できる気がしたんだ。顔が付いたままだと、まだ人間の気がしてな。目鼻を消して、ただのモノにしてからなら遠慮なく捨てられた。
さ、もうわかったろ。俺は凶悪連続殺人犯で強姦魔だ。とっとと逮捕してくれ。ここで身柄を確保して、朝になったら留置所へ送ってくれ。頼む。
共犯者はどこにいるか? 知らねえ。わからねえ。あいつらは後で捜せばいいだろ。まずは目の前の犯罪者を捕まえろよ。さあ。早く。
◇
あらためて両手首を差し出せば、四十代くらいのおっさん警官は、露骨に汚いものを見る目で俺を見た。だが、手錠は出してくれねえ。そうかもな、話を素直に受け取れば、俺は自首でも余裕で極刑レベルの凶悪犯罪者だ。言いなりでいいのか、迷ってるのかもしれねえ。
だが、逮捕してくれなきゃ――より正確には、いま外に放り出されちゃ、俺が困る。
「反省してんだよ。死刑は確定だろうけどよ、せめてそれまで罪を償わせてくれ」
適当な出まかせを並べる。こちとら命がかかってるんだ、言葉くらいどうとでも出る。
「本当か?」
「本当だ。嘘はついてねえよ」
神妙な態度で大嘘をつけば、警官は渋い表情で手錠を取り出した。重い鉄の質感が両手首に乗る。俺は重い鉄の輪を見つめながら、ようやく安堵の息を吐いた。
どうにか警察の保護下には入れた。翌朝に移送されるまで、ここを追い出されることはないだろう。屋根と壁と灯りのある場所で、朝まで過ごすことができる。
首肩から力が抜ける。うなだれながら、俺は今夜のことを思い返した。
カツヤの様子がおかしくなったのは、夕暮れ頃に獲物を取り逃がしてからだった。ただの若い女に見えた後ろ姿は、樹海を数百メートル入ったところで急に素早く歩き始めた。森歩きに慣れた俺たちですら、ついていくのがやっとで、最後には完全に見失ってしまった。辺りを確認すると、幹が「く」の字に曲がった松と、根元の風穴が見えた。偶然にも死体捨て場のそばに来てしまったらしい。
戻ろうとすると、カツヤは突然訳の分からないことを叫び始めた。
「俺じゃねえ! ……俺だけじゃねえ!!」
ガタガタ震えながら、カツヤは俺とジローを交互に指差した。
「こいつらもだ……こいつらも――」
その後は言葉になっていなかった。意味不明な、日本語とは思えない音を吐き散らしながら、カツヤは駆け出した……のかはわからない。前のめりの、走っている体勢だったのは確かだ。だがどれだけ駆けても、カツヤの身体は一歩も前に進んでいなかった。全力ダッシュで足踏みをしているような、スポーツジムのトレーニングマシンの上で走っているかのような、奇妙な様子だった。
なんだこれは――と思いかけて、不意に俺は気付いた。
白く薄い、もやのような手がカツヤの身体に絡みついている。刺々しく冷たい気配が、いくつも辺りに立ちこめていた。毛が逆立ち、足がすくんだ。俺は生まれてこのかた、殺気なんてものを感じたことはなかったが、恐らくこれのことなのだろうとは想像がついた。
白い手が、カツヤを少しずつ風穴の方へ引きずっていく。ヤバい、と直感した。
「ね、ねえ。僕たちどうすれば――」
木にしがみついて震えているジローを尻目に、俺は駆け出した。
殺気が一斉に俺の方を向いた。走りながら後ろをちらりと見れば、カツヤに絡みついていたのと似た手が、じわじわと俺へ迫ってきている。
追いつかれたら終わりだ。
日が暮れてしばらく経ち、辺りは急速に暗くなっていた。懐中電灯で白い手を照らすと、連中は一瞬ひるんで動きを止めた。光には弱いらしい。俺はときどき背後を光で威嚇しながら、近辺で強い灯りと安全な空間が確保できそうな場所を考えた。
――樹海入口の駐在所。
警察に身柄を確保してもらう。それが、考えついた中での最善手だった。普段なら、もっとましなアイデアも出てきたかもしれない。だが今の俺には、これしか思いつけなかった。
懐中電灯と月明かりを頼りに、ひたすら樹海を駆けた。枯れ枝を踏み折り、岩につまずきそうになり、茨の枝に引っかかれながら、ただただ走った。
正直、逃げ切れる気がしていなかった。相手は複数で、こちらは生身の足二本だけ。駐在所まで無事にたどり着けたのは奇跡だと思う。昨日までは怖れていたはずの手錠の重みが、今は頼もしい。
自分の悪運に感謝しつつ、別の問題も浮かんできた。今の事態、警官にどう説明したものか。奇妙な白い手に追いかけられてます、なんて、言ったところで信じてもらえるわけがない。適当な理由をつけて、夜明けまで扉を開けないようにしてもらわねば。
人喰い熊がうろついてる……はちょっと無理がある。仲間割れした共犯者に追われてる……だと少しはましか。さっきの話とも繋がるし、ひとまずこれで出方を見てみよう。
俺は顔を上げ、警官の顔を見た。
「なあ、駐在さん。お願いがあるんだが――」
それ以上の言葉が出てこない。
警官には顔がなかった。さっきまで確かにおっさんの目鼻口があったはずの所には、代わりに、グチャグチャに潰れた肉と血の混合物が張り付いていた。
俺たちにとっては見慣れたモノだ。けど、なんで生きた人間の顔がこうなってやがる!?
痛いほどの殺気と共に、警官の手が伸びてくる。血が通っている気配のない、青白い掌だ。肩を掴まれそうになった瞬間、俺はとっさに身を捻ってかわした。
バランスを崩しつつも、なんとか席を立つ。狭い駐在所の中、逃げるスペースはほぼない。扉はさっき自分で鍵をかけた。手錠をされている今、素早い開錠は難しい。扉に体当たりしようにも、一度倒れれば起き上がれない。
警官が一歩、また一歩近づいてくる。合わせて俺も、扉へ向けて一歩ずつ退く。すると、不意に扉が開いた。
外は危険だ。だが、目の前の警官はもっと危険だ。俺は意を決して、夜の森へと駆け出した。
――はずだった。
扉の外は岩場だった。茶色に見える岩が、かすかな月明かりの下でごく薄く光っている。あったはずの木も草も、一本もない。右も左も岩肌だ。かろうじて前だけが開けていて、凹凸だらけの岩の道が暗闇へ向けて延びていた。
他に逃げる道もなく、俺は前方の暗闇へ向けて駆け出した。だが手錠をかけられていては、ただでさえ身体のバランスがとりづらい。岩だらけの道で、俺は何度も転びそうになった。それでもどうにか、少し開けた場所に出た。
ここで一気に――と思った瞬間、足を滑らせた。ぬるりとした感触に足を取られ、気付いた時には天地がひっくり返っていた。起き上がろうにも、ヌルヌルした何かの溜まりにはまりこんでしまったようで、手足は滑るばかりだった。
強い血の匂いが立ち込める。地面を見ると、溜まっていたのは血と細かな肉片だった。
「……ひ……ッ」
どうにか体を引きずって、乾いた地面に転がり出る。途中で手が、少し大きめの固形物に触れた。見れば、くたびれきった黒のスニーカーだった。カツヤが履いていたのと同じモデルだ。擦り切れ方も、確かちょうどこのくらい。背筋に嫌な寒気が走った。
……考えるな。今は、自分が生き残ることだけ考えろ!
這いずるようにして、血まみれの靴から遠ざかる。すると今度は別の溜まりに突っ込んだ。血と肉片の海に、黒く長いウナギのようなものが浮いている。いや、これは使い古しのベルトだ……ジローが着けていたのとそっくりな。手錠をされたままの手が、ガタガタ震えはじめた。
ひんやりとした手が、いくつも身体に触れてきた。血の海から担ぎ出され、少し離れた場所に連れていかれる。樹海でカツヤにまとわりついていたのと同じ、もやのような白い手だった。地面に倒され、手を封じられている俺には、抵抗する手段があるはずもなかった。
俺は、広間のような場所で仰向けに寝かされた。天井もやはり岩でできていた、が、一箇所だけ大きな割れ目があり、半分よりも少し太った月が見えた。そして割れ目にかぶさるように、「く」の字に曲がった松の幹が、月明かりに照らされて青白く光っていた。
視線を巡らせれば、元来た方角から駐在所の灯りは消えていた。箱型の交番があったはずの場所には、岩肌以外に何もない。
白い手は俺の身体を離れ、思い思いの物を拾い上げはじめた。握りこぶし大の石、尖った石、木の枝……なぜか、枝はどれもだいたい同じくらいの太さだ。
コツリ、コツリと、高い靴音が近づいてくる。見れば、顔の潰れた警官が俺の方へと歩いてきていた。警官の肩では黒のロングヘアが揺れ、制服の袖や裾からはズタズタに裂かれた白い布がはみ出し、足元では赤いパンプスが高らかな音を立てていた。
右手にはナイフのように尖った岩を、左手には白い手たちと同程度の太さの枝を持っている……そこで不意に、俺は気がついた。
あの枝、だいたい、男のアレぐらいの太さだ。
警官の顔の肉塊が、わずかに動いたように思った。同時に俺の脳裏に、奇妙に可愛いアニメ声が響いた。
(綺麗なまま死ねると、思わないでね……肉のひとかけら、骨の一本さえもね)
血色の抜けた掌が、俺の顔の上に、尖った岩をゆっくりとかざす。ナイフの切っ先のような先端が、眉間一センチほどのところで静止した。
「ヒィ……ッ」
声が出ない。
冷たい手が、俺のジーンズとトランクスを引き下ろした。外気に晒された尻に、ざらつく木肌の感触が押し付けられる。
「や、やめろ……やめてくれ……!!」
かろうじて絞り出した声は、岩場に虚しく反響して消えた。
警官の顔が、グブグブと音を立てて沸いた。笑っているのだとは、わかった。
(隅々まで、汚してあげるね。細胞のひとつひとつまで――)
脳裏に響く、アニメ声。
裂けた白布を揺らしつつ、警官の右腕は岩を大きく振りかぶり――俺の目めがけて、振り下ろした。
【終】
風穴 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki
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