優しい檻

風嵐むげん

優しい檻

 目が覚めたら、知らない部屋に居た。


「ここは……どこだ」


 ベッドから上体を起こすと、凄まじい怠さに眩暈さえ感じた。目を擦りながら、辺りを見回す。

 真っ白な部屋には窓と、自分が寝ているベッドしかない。自分の身体を見下ろすと、水色のパジャマのような服を着ている。

 どうして俺はこんな服で、こんな場所に居るのだろう。ぼんやりと考えていると、不意にドアが開いて半袖の白い服を着た中年の男性が入ってきた。

 男性はクリップボードを持ち上げながら、静かな口調で俺に質問する。


「あなたのお名前を教えてください」

「名前……」


 答えられなかった。恐ろしいことに、俺は自分の名前を思い出すことが出来なかったのだ。

 黙り込む俺に、男性が驚いたように質問を続ける。


「ご自分が何歳か、わかりますか?」

「……いいえ」

「生年月日は? 出身地は? 何か、ご自分のことで答えられることはありますか?」


 たずねられる質問のどれにも、俺は答えられなかった。名前だけではなく、自分のことを何も思い出せなかったのだ。

 次第に人が集まってくる。年齢と性別は様々だが、全員が同じような白い服を着て、俺のことをじっと見ている。

 息が詰まるような状況。頭の中がごちゃごちゃになって、緊張のあまりに呼吸することすらままならなくなった時だった。

 真っ黒な髪の女性が、真っ白な空間に現れたのは。


「ねえ、光樹。私のことも忘れちゃった?」


 その女性は白服に案内されるようにして、部屋に入ってきた。背中まで届く癖のない黒髪に、一人だけ長袖の黒いワンピース姿。

 くっきりとした顔立ちの彼女は、無表情のままベッドの横に立ち、屈むようにして俺の目を真っ直ぐに見てきた。

 白の中で浮き立つ黒。知らない人だと思うと同時に、見ているだけで胸が痛くなる。

 この人は、嫌だ。


「……すみません、何もわからないんです。あなたのことも、何もかも」


 避けるように、顔を背ける。理由はわからないが、とにかく彼女とは関わりたくない。早く居なくなってほしかった。

 それなのに、


「ふうん、そういうこと……ちょっと寂しいかな」

「っ⁉」


 女性の両手が俺の頬を掴み、無理矢理に自分の方を向かせた。

 再び目が合う。

 彼女は三日月のように口角をつり上げ、笑った。


「私はね、悪魔なの」

「あ、悪魔って」 

「きみが自分のことを思い出せないのは、悪魔である私がきみの魂を食べてしまったせい。魂には記憶も含まれているから、思い出せないのも仕方がないわ。だって、存在しない記憶を思い出すなんて、出来ないもの」


 クスクスといたずらっぽく笑う女性。周りの白服たちは、何も言わない。

 まるで彼女に……悪魔に従う部下のように、白服たちはそこに居るだけ。


「きみの魂はとっても美味しいの。だから決めたわ。きみをここで、家畜として飼い殺しにするって。でも、自分のことを知らないって不便だと思うから、少しだけ教えてあげるわ。きみの名前は久我光樹。私と同い年、今年で二十五歳」


 理解出来ないことばかりだった。ただ、彼女が言っていたことが本当だということだけわかった。

 白服たちは、何を言おうとも俺をここから出さなかった。ドアには鍵がかかっており、窓も嵌め殺し。自力で出ることは出来ない。

 部屋から出られるのは食事と運動、二日に一回の入浴の時だけ。それも、必ず白服の誰かが見張っている。軟禁状態と言ってもいいだろう。

 さらにわかったことがある。ここに閉じ込められているのは、俺だけじゃなかった。同じ服を着させられた人間が、何十人も居るのだ。

 それも、誰もが普通じゃない。 


「袖山さん! 廊下で何をしているんですか⁉」

「知らないの? 昔流行ってたじゃん、こういう変な歩き方。痩せるらしいから、アンタもやってみれば」


 俺が部屋から出るたびに、袖山という痩せた男が奇行を繰り返しているのが目につく。この時は両腕を高く上げ、左右に揺れながら大股で廊下を歩き回っていた。

 いや、袖山だけじゃない。他にも大声で叫んだり暴れたりしている人が何人も居て、その度に白服に止められている。

 皆、悪魔に魂を食べられたから、おかしくなってしまったのだ。俺は記憶を失うだけで済んだが、これ以上食べられたら、同じようにおかしくなってしまうのだろう。

 鉄格子こそないが、ここは檻の中だ。いや、家畜小屋と言った方が近いかもしれない。


「どうにかして、ここから逃げないと」


 何度も考えるものの、どうすればいいのか、わからない。自分の家の場所さえ思い出せないのだ。考えれば考えるほど頭の中がごちゃごちゃになってしまう。

 絶望のあまり、食事も喉を通らない。悪魔に魂を食べられるのと、餓死するのはどちらがマシかを考え始めた頃。白服の一人が声をかけてきた。

 確か、太田だったか。白服たちはどことなく冷たい雰囲気の人ばかりだが、彼は優しくて穏やかな人だ。ふくよかな見た目も、そう感じさせる要因かもしれない。


「中庭へお散歩に行きませんか? 今日は天気がいいので、きっと気持ちがいいですよ」


 そう言われて、半ば強引に部屋から連れ出された。廊下のどこかで泣き喚く声を背中に受けながら、いつもは鍵がかかっている頑丈な扉を太田が開ける。

 初めて知った。この施設が、物凄く大きな建物であることを。

 十階建ての、コの字型の建物。今まで俺が過ごしていたのは、五階の一区画に過ぎなかった。こんなところから、どうやって逃げ出せばいいのだろうか。

 圧倒的な絶望感に泣きたくなったが、そんな俺の気持ちを知らない太田に引っ張られて中庭へと連れて行かれる。

 外は想像以上に暑い。日差しが眩しく、思わず目を細めてしまう。


「どうですか、結構広くて気持ちがいいでしょう? 今は人が居ないので、貸し切り状態ですね。やっぱり部屋の中に籠ってると、息が詰まりますからねぇ」


 たっぷりとした腹を揺らしながら笑う太田。確かに、風が気持ちいい。

 モザイク調の敷石に、温かみのある木製のベンチ。中央には大きな木が堂々と枝を伸ばしており、風がさらさらと葉を揺らしている。


「あの木は桜なんですよ。だから、春にはここでお花見が出来るんです」

「はあ、そうなんですか」

「今は夏ですから、お花見はしばらくお預けですね。その代わり、今度はお菓子と飲み物を持ってきましょうか。久我さんは細すぎますからね。もっとたくさん食べた方がいいですよ。あ、ここまで太れとは言いませんがね」


 ははは、と自分の腹を叩きながら太田が笑う。

 確かに、俺は彼に比べれば細いとは思うが……まさか、魂だけでは足りないから太って肉まで食わせろと言っているのだろうか。

 おぞましいことを想像をしてしまい身震いしていると、悪いことはさらに続く。


「光樹、ここに居たのね」


 探したわ。鈴を転がすような声に飛び上がるほど驚き、思わず太田を盾にするようにして後ろに隠れた。

 悪魔だ。暑いのに相変わらず、今日も長袖の黒い服を着ている。顔だけはあの時の不気味な笑みではなく、むすっと不貞腐れていた。


「あら、隠れるなんてひどいじゃない」

「東堂さんが自分は悪魔だなんて言って、脅かすからだと思いますよ」

「うふふ、だって本当のことだもの。まあいいわ。太田さん、こんにちは」

「はい、こんにちは」


 和やかに話し始めてしまった二人。居心地は悪いが、放っておいてくれるのはありがたい。

 悪魔は東堂という名前らしい。名前を知ったところで、意味などないのだが。


「ねえ、光樹。何か思い出したことはある?」

「な、何もないです」

「本当に? 嘘ついちゃ嫌よ。これでも結構心配してるんだから」


 悪魔が俺のことを見る。じっと、真っ黒な目で。まるで全てを見透かされているのではないかと思うくらいに、その目が怖い。

 嫌だ。これ以上、俺と関わってほしくない。


「えっと……久我さん、そろそろ時間なのでお部屋に戻りましょうか。久しぶりに外へ出て、疲れたでしょう?」


 俺が怯えていることに気がついたのか、太田が慌てて止めに入る。


「そう。じゃあ、私も今日はこれで帰るわ。太田さん、光樹をお願いします」


 軽く肩を落としてから、悪魔は去って行った。彼女の姿が完全に見えなくなるまで、俺は恐怖のあまりにその場から動くことが出来なかった。



 それから一週間ほど経った朝。朝のラジオ体操が終わるや否や、転機が訪れた。


「みぃーつきちゃん!」

「うわ!?」

「アハ、やっとお話出来たねぇ」


 食事を受け取りに行こうとした俺の前に、勢いよく躍り出て来たのは袖山だった。両手を広げ、ターンをビシッと決めて、立ちはだかった。

 そして枯れ枝のような手が、俺の腕を掴んで引っ張る。


「オレさぁ、トイレ行きたいんだよねぇ。腹が痛くてさぁ。光樹ちゃんもそうでしょ? 一緒に行こうぜ」

「はあ!? い、嫌ですよ。俺は別にトイレなんか行きたくないので」

「まあまあ。男の友情は連れションからって言うじゃん」


 痩せ細った身体からは考えられないくらいの力で引っ張られ、近くの男性トイレに引きずりこまれてしまう。

 こういう時に限って、太田は近くに居ない。中に入るなり、袖山はすぐに手を離したので、そのまま逃げよう考えた。

 でも、俺の足は袖山の一言でぴたりと止められてしまう。


「光樹ちゃん、ここから逃げ出す方法を教えてあげようか?」


 先ほどよりも低く、囁くような声で彼は言った。いつもの奇行だろうか。

 でも、この誘惑をすぐに振り払えるほど、俺には余裕がなかった。


「聞いたよ。光樹ちゃんって、記憶喪失なんだって? 悪魔に魂を食われたから、自分のことを思い出せなくなった。そりゃ大変だ、一秒でも早く逃げないと」

「あなたや他の人は違うんですか?」

「うーん、なんていうか……ここに居る人間には、それぞれの事情ってのがあるんだよ」


 それ以上は聞くな。と、袖山が顔の前で手を軽く振った。


「話を戻すぞ。光樹ちゃんは、ここから逃げたいんだろ? なら、その方法を教えてやるよ。いいか、キミは太田と何回か中庭に散歩に行ってるよな。あそこから建物の中に戻った時に、右手の通路を突き当たりまで行くんだ。そこを左に曲がり、あとは真っ直ぐ行けば玄関だ。床や壁に案内表示があるから、迷った時はそれを見ろ。字は読めるよな?」

「え、ええ」

「玄関から外に出て右に行くと、タクシー乗り場がある。日中なら、客待ちのタクシーが何台も止まってる筈だ。それを捕まえて乗り込めばいい」


 袖山の説明は具体的で、外に出るのはそこまで難しくないのだとわかった。

 でも、問題は他にもある。


「タクシーって、お金が必要ですよね? 俺、無一文なんです」

「マジ? 財布やスマホは?」

「すみません、持ってないです」


 力なく、首を振る。せっかくチャンスが掴めそうなのに。

 悔しさに唇を噛むと、目の前に一万円札を差し出された。


「ま、キミの様子を見ていたら、何となくそうだろうとは思ってたさ。だからこれ、やる」

「そんな、頂けませんよ」

「気にするなって。こんな場所に長く居ると、毎日が退屈で仕方がねぇんだよ。だからこれは、暇潰しの見物料ってことで」


 戸惑う俺の手にお札をねじ込みながら、袖山が念を押してくる。


「今日は雲ひとつない青空だが、明日からは数日間、雨の予報だ。太田はきっと、光樹ちゃんを散歩に誘ってくるだろうぜ。中庭についた頃を見計らって、オレが太田の注意を逸らしてやる。そうしたら、逃げろ。おっと、噂をすればなんとやら、だな」

「久我さーん? 朝ごはんの時間ですよー……って、袖山さんまで居る。何してるんですか、こんなところで」


 俺を探しに来た太田が、怪訝そうな顔で近付いてくる。反射的に俺は手を背中に回し、拳を握り締めお札を隠した。

 幸いにも、太田の意識は俺よりも袖山に向いている。俺がお金を貰ったことには、気がついていないようだ。


「べっつにぃ。たまたま一緒にトイレに入ったから、ちょっとお話してただけだよ」

「そうですか。用が済んだなら、早くご飯を食べてくださいね」

「へーへー、わかりましたよー」


 手をひらひらと振りながら、そそくさと退散する袖山。呆然としていると、太田が俺を見た。


「知ってますか、久我さん。今日は凄くいいお天気なのに、明日からしばらく雨みたいですよ」

「そ、そうなんですか」

「ええ。しばらく外に出られなくなりますから、午後になったらお散歩に行きましょう」


 袖山の言ったとおりに、太田が散歩に誘ってきた。

 これなら本当に逃げられるかもしれない。動揺を気取られないよう頷いて、俺は午後になるのを大人しく待った。



 中庭は今日も暑かった。桜の木でセミが鳴いている。


「久我さん、あれから何か思い出せましたか?」

「何かって」

「自分のお家とか、お仕事とか。なんでもいいです、思い出したことはありませんか?」


 青々と茂る桜の木を見上げながら、太田が聞いてくる。

 そういえば、一つだけある。


「えっと、古くてボロボロの平屋なんですけど」

「平屋、ですか? ご実家ですかね」

「それはわからないんですけど……そこで、誰かが泣いていたような。そう、小学生くらいの、女の子が――」


 そこまで話した時だった。太田が首から下げていたスマホが着信を告げる。


「あ、すみません。少し失礼しますね」


 俺に断りを入れてから、太田が電話に出る。

 ええ! とセミに負けないくらいの大声が上がった。


「袖山さんが僕にお金を盗られたって叫んで暴れてる!? 知らないですよ、また嘘じゃないですか?」


 袖山の名前に、ハッとした。今朝の約束を、彼は実行してくれたのか。

 それなら、逃げるタイミングは、今!


「久我さん!? どこに行くんですか!」


 太田が叫んだ時にはすでに、俺は建物の中へと飛び込んでいた。言われたとおりに、通路を全力で走る。

 大した距離ではない筈なのに、どんどん足が重くなる。それでも必死に走って、ついに玄関から外へと出ることが出来た。

 そこには白服でも水色のパジャマ姿でもない、夏らしい私服を着た人たちが何人も居た。それだけで、外に出られたことを実感する。

 あとは、タクシーに乗ればいい。行き先なんか思いつかないが、せめてここから離れられればなんとでもなる筈だ。


「あ、あの! すみません、乗せてください!」


 一番近くに停まっていたタクシーに駆け寄る。運転手さんは眼鏡をかけた初老の男性だ。

 でも、運転手さんは俺を見ると、困り顔で首を横に振った。


「ええっと……申し訳ありませんが、それは出来ません」

「な、なんでですか! お願いします、助けてください! お金ならちゃんと持ってますから!」

「お金の問題じゃないんですよ。あなた、その格好で外に出ちゃ駄目って言われてるでしょう? 大変なことになる前に、早く戻った方がいいですよ」


 これ以上は関わりたくない、と運転手が目を逸らす。こちらの事情を聞こうともしない言動に怒りを感じたが、それ以上に焦っていた。

 誰か、誰でもいい。


「た、助けてください。誰か、助けてください! 俺は悪魔に魂を食べられたせいで、記憶喪失になってしまったんです。これ以上ここに居たら、悪魔の餌にされるだけなんです!」


 タクシーの運転手と、通りかかる人たちに向かって叫ぶ。でも、誰も助けてくれなかった。

 遠巻きに見つめて、コソコソ話す二人組の女性。怪訝そうに様子をうかがうワイシャツ姿の男性。何も聞こえていないと言わんばかりに別の客を乗せて走り去るタクシー。

 まるで、世界の全てが俺を見捨てたのではと思うほどの絶望を感じた。

 ……いや、違う。まるで、じゃない。

 俺はずっと前から、社会に対して絶望していたのだ。


「久我さん!」


 追いついてきた太田が、真っ青な顔面で俺を呼ぶ。異変に気がついたのだろう、他の白服や、警備員まで駆けつけてきた。


「とにかく、一度戻りましょう。お話はお部屋で聞きますので」


 太田が俺の左腕を掴む。指先が痺れるほどの力に、視界が真っ白に弾けた。

 先ほどまであった怒りや焦りは、恐怖に塗り潰される。そこからは考えるよりも先に、身体が動いた。


「は、離せ!!」


 反射的に、太田を突き飛ばそうと腕を突っぱねる。しかし体格差のせいか、相手の腕は振り解けたものの、俺の方がよろけて尻もちをついてしまった。

 いくつもの冷たい視線が刺さる。痛くて、怖くて。もう、立ち上がる気力すら湧かない。

 太田の手が、俺を捕まえようと再び伸びてくる。でも、その手が俺に届くことはなかった。


「やめて! 光樹に乱暴しないで!」


 悲鳴じみた声で叫びながら、俺を庇うように抱き締めてくる黒髪の女性。彼女が悪魔であると、すぐには気がつけなかった。

 その顔があまりにも、今まで見てきた彼女とは別人に見えるくらいに必死だったから。 


「記憶喪失の治療が必要だって言うから、この病院に預けていたのに……彼にひどいことをするのなら、このまま私が連れて帰ります!」

「落ち着いてください、久我さんにはまだ治療が必要なんです。今は記憶を失っているから平気そうに見えますが、全て思い出したあとでまた同じことを繰り返したら――」

「光樹はあなたたちが考えるほど弱くないです! 彼は私を守ってくれたヒーローなんです。たった一回間違っただけなのに、弱い人だと決めつけないで!!」

「ヒーロー……?」


 彼女の言葉が、鍵だった。かちりと開いた記憶から、押し込まれていた思い出が噴き出した。

 彼女のことも、思い出した。


「……明日香」


 小さく震える身体を抱き締めれば、涙をいっぱいに溜め込んだ目が驚いたように俺を見上げてきた。

 やっと思い出した。彼女は最初から、悪魔なんかではない。


「み、光樹? 今、私の名前を」

「迷惑をかけて、ごめん……ひどいことを言って、ごめんな……」


 謝り続けるしかない俺に、彼女の目からついに涙がこぼれ始めた。思い出した。なんでこの人のことを忘れてしまったのだろう。

 彼女は東堂明日香。俺の恋人だった人だ。



 部屋へ戻る前に、袖山にお金を返した。


「なんだよ光樹ちゃん、逃げきれなかったのかぁ? ま、医者たちの慌てぶりが面白かったから、オレは満足だけど」


 そう言って、袖山が上機嫌に去って行く。太田の話によると、彼は長期間の入院生活を送っており、暇潰しと言っては色々と問題を起こしているのだそう。

 ようやくわかった。ここは牢獄ではなく、病院だ。白服の人たちは医療従事者で、太田は看護師。袖山は同じ入院患者で、明日香が度々姿を現していたのはお見舞いに来てくれていたからだ。

 そして、俺が記憶を失った原因は、


「薬物自殺を図っただなんて、自分でも信じられないくらいです。もう二度と、自殺なんてしたくありません」

「そうですか。それを久我さんの言葉で聞くことが出来て安心しました。でも、無理はしないでくださいね。辛くなったら、すぐに病院に頼ってください」


 そう言って、担当の先生は優しく笑いながら部屋を出て行った。多量に摂取した薬剤による意識混濁、それが記憶喪失の原因だった。

 就職活動が上手くいかず、やっとの思いで雇ってもらった会社は見本のようなブラック企業。月に一〇〇時間を超える残業に、パワハラ上司。精神は擦り減り、退職を考える余裕もなくなった。

 さらに悪かったのが、明日香を傷つけてしまったことだ。きっかけは些細なケンカだったが、限界だった俺は激昂し、彼女を追い出すような形で別れを告げた。

 そんな自分が、どうしようもなく嫌になって。家にあった薬を片っ端から飲んだ。

 そこまでは思い出せたものの、明日香がどうしてここに居るのかがわからない。どうやって聞こうかと悩んでいると、部屋に二人だけになったタイミングで、彼女の方から話を始めた。


「光樹が私のことを重荷に感じるのなら、別れを受け入れるつもりだった。でも、アパートの合鍵を預かったままだったから、それだけは返そうと思ったの。それなのに何度連絡しても、光樹は連絡をくれなかった。追い返されることを覚悟で会いに行ったら、意識を失った光樹を見つけた」


 そこから病院に行くまで、よく覚えていない。救急車を呼んで、医師から病状の説明を受けた。

 命の危険はないが、記憶を失ってしまっていると聞いた時には、自分がバラバラになるような感覚だったと彼女は言う。


「私のせい、だよね。私が、光樹を追い詰めちゃったんだよね。ごめんね、ごめんなさい」


 そう言って、明日香の目からぽろぽろと透明な涙が零れ始める。

 昔から、彼女は泣いてばかりだ。あの時もそうだった。


「俺が一番初めに思い出したもの、なんだと思う? 実は窓ガラスが割れた、廃墟みたいな平屋だったんだ」

「そ、それって」

「悪魔みたいな父親と住んでいた、明日香の家」


 驚きに目を見開く彼女と、あの家でうずくまっていた少女が重なる。まさか最初に思い出した景色が自分のアパートや実家ではなく、彼女の家だったとは我ながら笑える。

 俺と明日香は、小学六年生の頃に同じクラスだった。でも、最初に話をしたのはその年の夏休み前だった。

 明日香は、ずっと一人だった。いつも暗い表情で、教室の隅に隠れるように過ごしていた。

 そんな彼女のことを気にするようになったきっかけは、体操服から見えた腕の痣だった。


「その腕、どうしたの? 大丈夫?」


 赤黒い傷は腫れ上がり痛そうだった。でも、彼女は何も言わずに俺から逃げて行った。今にも泣きそうな顔の彼女のことが、ずっと頭から離れなかった。

 翌日、彼女は体調不良で学校を休んだ。俺は学校帰りに、彼女の家にお見舞いに行った。町内でも有名なボロ家だったから、すぐにわかった。

 古い平屋。最初は隣の家の物置だと思った。でも、人が住んでいることはすぐにわかった。

 少女の泣き叫ぶ声と、男の大声が重なるように聞こえてきたから。


「ごめんなさい! 許して、痛い!」

「ははは! そうだ、それでいい。てめぇは父親である俺の家畜なんだよ!」


 家の中へ入るのに、躊躇はしなかった。俺は鍵がかかっていない玄関から中へと入り、声の方へと向かう。

 見てしまった。うずくまって謝り続ける明日香の姿を。

 そして、口角を三日月のようにつり上げ、傘で何度も明日香のことを殴りながら笑う父親の姿を。


「うう痛い、痛いよ……助けて、誰か」


 傷だらけになって泣く明日香。どうして今頃、痛みを訴え助けを求めるのか。


「危ない!」


 気が付いた時には叫んで、俺は彼女を庇っていた。

 そして、彼女の代わりに殴られた。傘が頭に当たったせいで、結構派手に血が出てしまった。

 でも、そのおかげで凶行は止まった。


「久我くん⁉ どうしてここに……大丈夫⁉ 動いちゃダメ!」


 その時も、明日香が救急車を呼んでくれた。父親は酒に酔っていたらしく、虐待行為で逮捕されたそうだ。

 あれから十年以上経ったが、明日香は長袖の黒い服しか着ない。残ってしまった傷痕を隠すために。

 そんな彼女を守りたい、笑顔にしたいと思っていた。


「でも、なんで自分は悪魔だなんて言ったの?」

「だって……あの時、言ってくれたじゃない? 次に悪魔が来たら、今度こそ私を格好よく守ってみせるって」


 そんなことを言った気がする。その悪魔というのは、彼女に暴力を振るう父親のことだったのだが。


「思い出してほしかったんだよ。きみは、悪魔が目の前に居ても立ち向かっていける強い人で、弱い人に手を差し伸べられる優しくて格好いい人なんだってことを。まあ、ちょっと無謀で危なっかしいところもあるけどね」


 そう言って、彼女は自分の鞄から何かを取り出すと、俺の方に差し出した。

 俺のアパートの、合鍵だ。


「もう、大丈夫だよね。ごめんね、別れたのにずっと出しゃばってて」

「え、いや」

「迷惑だよね、別れた彼女がずっと居るの。これ以上嫌われたくないから、もう関わらないようにするよ」

「迷惑なんかじゃない!」


 思わず声を上げる俺に、明日香がきょとんと見てくる。

 どうしよう、どうやったら別れを撤回出来るだろう。脳みそをフル回転させて考える。

 あの時はどうかしていた。俺は今でも明日香のことが好きだし、愛している。こんな形で別れたくない。

 ああ、でも。ここで追いすがったら、流石に愛想を尽かされるだろうか。でも、なりふり構っていられないのも確かだ。どうにかして彼女に呆れられないよう、格好よく引き留めたい。

 よし、決めた。差し出された彼女の手をとり、鍵ごと包むように握る。

 そして、言ってやった。


「土下座でもなんでもするので、別れを撤回させてください。お願いします、これからもきみとずっと一緒に居たいです」


 何も思いつかなかったので、思いつく限りの言葉をそのまま言った。我ながら、凄く情けない。

 ていうか泣きそう。このまま彼女が居なくなったら泣く、絶対に。

 彼女も、俺が泣きそうなことに気が付いたのだろう。吹き出すように、彼女が笑う。


「……ふふ、あははは! 格好悪いなぁ、もう」


 確かに、めちゃくちゃ格好悪い。

 でも。彼女を笑顔にすることだけは、今の俺にも出来た。

 

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