第一章 春 平田さやかの憂鬱(1)
「もう本気で最っ悪。今年は
夜十時。夕食後、一人息子である充の算数の復習に付き合い、寝かしつけてからも平田さやかの怒りは収まらなかった。冷蔵庫から出したビールのプルタブを勢いよく開ける。既にテーブルには凹んだ空き缶が二缶あり、これで三缶目だ。つまみ代わりに口にしていた、夕飯のおかずに出した春野菜の炒めものの残りはもう八割方なくなっている。イライラしているさやかの怒りの炎に油を注いだのが、旦那である
「嫌ならその場で言えば良かったじゃん、後になって当事者が誰もいないところで愚痴言っても何も変わらないんだしさ」
その他人事のような対応に、カチンときた。
「健太は男だからわからないかもしれないけど、女の世界はそんな簡単じゃないのよ。だいたい高杉さんちは専業主婦だから会長もできるかもしれないけど、私は仕事あるのに。そもそも今日の会議だって昼間にあったから、わざわざ半休とったのよ。今どき、共働きが当たり前だっていうのに、平日の昼間が暇なことを前提にしているPTAって変じゃない? もっと男の人が入らないと駄目なんじゃないの?」
ビールを喉に流し込むが、怒りのせいか、ちっとも酔えない。健太は怒りの矛先が自分に向かいつつあるのを察したのか、リモコン片手にソファに逃げた。ちょうど、民放のビジネスニュースが始まる時間だった。トップニュースはいなほ銀行の不祥事だ。【独自】と仰々しく見出しがつけられ、新たな不祥事の発覚と金融庁の反応が報じられた。不正融資問題で業績資料の改ざんが明らかに。金融庁は業務改善命令も検討――。女性アナウンサーがニュースを読み上げると、健太の顔がこわばる。
「業務改善命令って、けっこうヤバいやつだよね?」
さやかの質問に対し、健太は黙って頷く。健太の表情とニュースのトーンから察するに、どうやら事態はかなり深刻らしい。テレビでしか姿を見たことのない頭取が記者に囲まれ、黒塗りの高級車に無言で乗り込む場面が映っていた。テレビ画面がスタジオに切り替わる。
「前からそうですが、いなほ銀行は金融機関としての責任感が欠如していますね。メガバンクとして、もう少し引き締めなければ駄目ですよ」
男性のコメンテーターがそれが使命だとばかりいわんばかりの深刻な顔で、いなほ銀行の姿勢を厳しく批判していた。
いなほ銀行は健太の職場であると同時に、さやかの職場でもある。健太とはいわゆる社内婚というやつだ。二人とも家ではあまり仕事の話をしないようにしていたが、所属する会社の不祥事が連日のように報じられるというのはあまり気分が良いものではない。
一般職のさやかにとって、仕事とは月々の給料のための事務作業であり、目の前の仕事をこなすだけと割り切っているので経営にはさして興味がない。しかし、総合職で営業の最前線にいる健太はそうも言っていられないのだろう。健太は何も言わず、冷蔵庫からビールの缶を取り出した。
「やっぱボーナス減るかな」
何気なく呟くと、健太は渋い表情で
「マスコミの目もあるし、去年よりは確実に減るだろうな。あいつら、何も知らないくせに批判ばっかで腹が立つな」
と応じる。石油やガス価格の高騰で電気料金が値上がりする、株価が年初来安値を更新した、失業率がまた上がった――。アナウンサーは次々とニュースを読み上げるが、どれも暗い話題ばかりだ。毎晩毎晩、辛気臭いニュースばっかり流しているからこの国は暗くなるんじゃないの、と文句の一つもつけたくなる。
ストレス解消のための晩酌中にこれ以上辛気臭くなるのも嫌だし、テレビを消そうとリモコンに手を伸ばした瞬間、打って変わって明るい音楽が流れた。
「今日の特集はタワマンです。最近、共働きのパワーカップルが増えたことで、職住接近の湾岸タワマンが見直されているんです。なんと、価格が一億円を超える億ションも珍しくないそうです!」
入社一〜二年目だろうか、若い女子アナがキャピキャピと話している。自分の美貌と若さが武器だと確信している人間にしか出せない女性特有の、甘えたような鼻にかかった声。四十二歳のさやかには少し癇に障ったが、海をバックに高層マンションがずらりとならんだ見慣れた風景が背景に映った瞬間にそれどころではなくなった。
「あ、うち! 健太、うちが映ってるよ!」
思わず声が大きくなってしまう。テレビでは女子アナが「湾岸の神」と呼ばれる人気ブロガーに紹介される形で、タワマンが林立する湾岸地区を散策している現地レポートが流れていた。
「今回お邪魔させていただいたのが、こちらのローゼスタワーです」
女子アナがカメラマンを伴って入ったのは、まさに我が家だった。いつの間に撮影したんだろう。ロビーの豪華なシャンデリア、フロントに常駐しているコンシェルジュ、東京タワーやレインボーブリッジが見渡せるパーティールーム、絨毯が敷き詰められたホテルライクな内廊下。ブロガーが見どころを解説するたびに、女子アナは歓声を上げる。さっきまで耳障りだと思っていたが、自分の住んでいる家が持ち上げられているとなると話は別だ。もっと褒めてほしい。
「駅直結で仕様も良いローゼスタワーは地域ナンバーワンマンションと呼ばれていて、分譲から十年たった今でも人気が高いんですよ。一昔前、マンション価格は新築で購入した直後がピークでその後は下がる一方だと言われてましたが、湾岸の人気マンションはむしろ中古でも資産価値が評価され、ローゼスタワーの場合、分譲時から一・五倍以上になっている部屋もあります」
湾岸の神がこう解説すると、さやかは有頂天だった。湾岸に住むものなら、湾岸の神の名を知らぬ者はいない。十年以上にわたって湾岸タワマンの情報をネットで発信し続け、湾岸ブランドの向上に貢献してきた伝説のブロガーだ。湾岸の神がブログで好意的に取り上げればそのマンションの市場価値が上がるとまで言われており、他ならぬさやかも熱心な読者の一人だ。約十年前、新築で売りに出ていたローゼスタワーを購入したのも、湾岸の神の記事がきっかけだった。
あのとき、周囲の反対を押し切ってこのタワマンを買うと決めた私の選択は間違っていなかった。ソファに目を向けると、健太も顔を紅潮させ、食い入るようにテレビ画面を見つめている。
湾岸地区。東京湾沿岸の地域一帯をまとめて指す単語がポジティブなものとして扱われるようになったのはつい最近のことだ。銀座や築地からすぐで都心に近いという好立地ながら、埋立地で歴史的に工場や倉庫が並んでいた地域でもあり、ネットでは心無い人たちから「準工業地域の倉庫街で、人の住むところではない」とまで言われていた。
その湾岸地区を人気エリアに押し上げたのは、他でもないタワマンだ。人があまり住んでいないということは再開発が容易ということでもあり、一棟あたり千戸を超えるような大型タワマンが次々と立ち並ぶようになった。一人息子の充が生まれて間もない頃。家を購入するにあたり、当時住んでいた清澄白河の賃貸マンションから物件価格が安い埼玉の川口に引っ越そうという健太に対し、「絶対に湾岸が良い」と主張したのはさやかだった。合理的に考えて埼玉――そんなことは言われるまでもなくわかっている、それでも譲れない一線がある。
都心から電車で一時間半かかる埼玉県鴻巣市出身のさやかにとって、家を買うなら東京都というのは絶対に外せないラインだった。大学時代、バイト先でちょっと気になっていた慶應ボーイに出身地を説明したところ、「ああ、ダサイタマね」と鼻で笑われたことはいまだにトラウマになっている。それ以来、出身地を聞かれたときに「東京のほう」と濁すようになった惨めな気持ちは、地方出身の健太には理解できないだろう。
当時の経済状況から、背伸びせずに購入できそうだったのが湾岸地区のマンションだけだったという経緯はあるものの、そこらの小規模マンションにはない豪華な共用部も、家を出てから丸の内のオフィスまで三十分という立地も、満足のいくものだった。何より、友人を家に呼ぶたびに「すごい、高級ホテルみたい」と褒められるのは自分の人生を肯定されたかのような錯覚を起こした。タワマンといっても、さやかと健太が買った部屋は比較的安価な低層階の2LDKで、ベランダからは東京タワーもレインボーブリッジも見ることはできない。それでも、自分の物件が全国放送で憧れの物件として扱われているという事実は自己肯定感を高めた。
「タワマン、本当にすごいですね。私も将来、こんな部屋に住んでみたいな〜。以上、今日の特集でした」
女子アナが甘い声をあげ、隣に座る湾岸の神がドギマギしている場面で特集は終わった。ビールの酔いが回ってきたことも手伝い、多幸感に包まれる。PTAの役員のことも、会社の不祥事のことも、気がつけばどうでもよくなっていた。
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