第一章 春 平田さやかの憂鬱(2)


「さやかちゃん、明日の高杉さんち、何か手土産持っていく?」


 四月下旬。昼休みになったのでスマホを机から出すと、ポロンという音とともにチャットアプリの通知が画面に表示された。差出人は理恵だ。充の同級生の母親で、ともにPTA役員を押し付けられた仲間でもある。四十歳を超えてちゃんづけもどうかと思うが、同い年の理恵はさやかにとっても貴重なママ友で、保育園時代から含め、十年近い付き合いとなっていた。


 PTA会長となった高杉綾子は意気揚々と、今後一年間の活動について話し合うために第一回の役員会を開こうと提案してきた。問題は場所だ。綾子が指定してきたのは、学校のPTA室でも近所のカフェでもタワマンのラウンジでもなく、自宅だったのだ。旦那が開業医で裕福な高杉家はローゼスタワーの最上階に住んでいた。

 同じタワマンでも、高層階と低層階には文字通り、天と地の差がある。眺望が良いのはもちろん、一戸あたりの面積もゆとりをもって設計されているし、住宅設備の仕様も違う。部屋の価格も段違いだ。以前、高杉家の一階下の部屋が不動産ポータルサイトで売りに出ていたが、二億五千万と表示されていた。プロ野球選手の年俸でしか見たことのない数字だ。

 充は高杉家長男の隆君と仲がよく、放課後に高杉家に遊びに行っては


「隆君ちすごいんだよ、リビングでラジコンのレースができるんだよ!」


 と目を輝かせて教えてくれる。そういった話を聞くたび、ラジコンどころか正月の書き初めの宿題のたびにソファを動かしている、低層階60平米の2LDKの自分たちの部屋と比較されているようで胸の奥にザラザラした感情が生じる。


「相手は高杉さんだし、一応手土産持っていったほうが良いかもね。仕事帰りに私が適当に選んでおくから、一緒に買ったことにしよっか」


 さやかはこう返信を返すと、ため息をついた。正直に言って、面倒くさい。大学や職場の友人ならいざしらず、相手が高杉家となると下手なものは持っていけない。インスタを開き、綾子のアカウントを覗く。春服のコーディネートや豪華な手巻き寿司パーティーなどに混じって、カラフルなマカロンの写真があった。他に菓子の写真は見当たらないが、少なくともマカロンは駄目だな。元読者モデルの綾子のインスタはフォロワーも多く、ちょっとしたインフルエンサーとなっている。一応アカウントを持っているものの、外食したときのランチの写真を投稿するだけのさやかとはまったく別次元で、生活レベルの差が一目瞭然だ。

 ケーキにすると用意してあった場合に面倒だし、適当な洋菓子を見繕うか。とりあえず、帰りに東京駅の大丸に寄らなければ。時間がないから、夕食も冷凍食品の炒飯と餃子で済ませるか。今日のランチをどうしようかというウキウキした気分はどこかに霧散した。


「タワマンには三種類の人間が住んでいる。資産家とサラリーマン、そして地権者だ」


 一昔前、下世話なネットニュースで読んだフレーズだが、ローゼスタワーの住民を分類する上で、これほど適切な表現もないだろう。資産家とは開業医や企業経営者、スポーツ選手やタレントなどいわゆる富裕層で、高杉家もここに含まれる。タワマンのエレベーターは階層ごとに分かれているが、高層階の住民専用のエレベーターに向かう人たちはひと目でわかる。着ているものが違うのだ。

 昨年冬、充と連れ立って学校に向かう隆君を見かけたとき、フランスの高級ブランドであるモンクレールのダウンジャケットを着ていることに気がついて思わず変な声が出てしまった。一〜二年でサイズアウトする子供の冬物のために、十万円をポンと出せる人たち。モンクレールの黒光りしたダウンは、充に着せているアウトレットの半額セールで買った六千円のダウンとは表面の艶からして違った。タワマンという同じ土地に建つ建物でありながら、階層によって着ている服も見ている景色も、住んでいる世界すらも違うのだ。


 一方、サラリーマンは平田家を含む、数の上では多数派を形成している。高層階の富裕層とは住んでいる世界が違うとはいえ、社名を聞けばすぐにわかるような有名企業に勤めている人が多い。いなほ銀行だって、世間では叩かれているが立派な大企業だ。タワーから駅の改札までの専用通路は毎朝、通勤に向かう人々で溢れ、通勤ラッシュさながらの光景となる。


 タワマンは目立つだけにやっかみも受けやすい。ネットで口の悪い人たちが「タワマンはエリートサラリーマンが三十五年ローンと人生を賭けて手に入れられる現代の団地」と書いているのを見かけたことがあるが、事実の部分もあるだけに腹が立つ。有名大学を卒業し、世間的に知られた企業に就職し、そして三十五年ローンでタワマンを買う。そんな人生が、不確実な時代におけるささやかな成功パターンになって久しい。平成の失われた三十年を経て一億総中流という幻想が崩れた現代の日本において、豪華な共用部もラグジュアリーな気分にさせてくれる内装も、入学試験や就職活動という選別を経て選ばれたエリートが人生を投じてやっと得ることができる代物なのだ。

 もっとも、エリートと言っても形だけ。世間では勝ち組とされる年収一千万円に到達しても、累進課税で国にガバっと持っていかれるし、児童手当は所得制限でフルに貰えない。今やファミリータイプで七千万〜八千万円もするタワマンのローンを組んでしまえば、生活に余裕などない。ましてや都心の子育ては習い事に中学受験に、とにかくお金がかかる。周りを見渡しても、さやかのように結婚してからも仕事を続ける共働き世帯が主流派だ。自動車ローンや駐車場代、保険代といったものを考えると、多くの住民は自家用車すら持てずにカーシェアで済ませる。もちろんタクシーなんて滅多に使えない。それが現代の「エリート」の実情だ。

 

 そして最後の地権者。タワマンの建設予定地に元々住んでいたり、商売していたりする人たちのことを指す。さやかも今のタワマンに引っ越して、理恵と出会うまでは存在すら知らなかった。

 理恵曰く、伊地知家は代々、近所の工場や倉庫で働く肉体労働者向けの定食屋を営んでいたらしい。一階が店舗で二階が住居という昔ながらの店で、地に足をつけて暮らしていたという。ところがある日、不動産開発業者の人がやってきて、再開発地域に指定されたからと土地の買い取りを提案してきた。かつてバブル期に「地上げ」として強引な手法が話題になったが、現代は金銭交渉が主なもので、スマートなものだったという。先祖代々の土地や店を手放す代わりに、新たに建設されるタワマンの部屋や商業施設の部分を無償であてがわれるという仕組みで、伊地知家はその話に飛び乗った。戦後からの復興や高度経済成長といった歴史を紡いできた木造の定食屋と家はあっけなく潰れ、そして立派なタワマンの部屋といくばくかのまとまった金が手に入った。理恵の旦那は今では近所の雑居ビルで小洒落た和食屋を経営している。


「うちなんて本当に大した店じゃなかったから、今の家は本当に身分不相応でさ」


 充の通っていた保育園のイベントで仲良くなった後、理恵は笑いながら教えてくれた。理恵の旦那の翔さんは高校の同級生で、卒業後すぐ、早逝した父の跡を継ぐ形で働き始めたという。理恵も大学には通わずに専門学校を卒業し、そのまま翔と結婚して店を手伝うようになった。週末など、翔が近所の公園で息子二人とキャッチボールしている姿をよく見かける。伊地知家の次男である琉晴りゅうせい君と充の仲が良かったというのもあるが、さやかは飾らない理恵の性格が好きで、子どもたちが小学校に入ってからもよくお茶をしていた。


 一方、理恵と対極的でさやかが苦手なのが、今回の会の主催者でもある綾子だ。


「あらこのお菓子、素敵。こないだパリの本店で食べて美味しかったのよね。ちょうど、玲奈のピアノの先生からイギリス土産の紅茶をもらったばっかりだから一緒に煎れましょう」


 土曜午後。ゲームがしたいと駄々をこねる充の尻を引っぱたいて塾に送り出し、理恵とロビーで待ち合わせをしてローゼスタワー最上階の五十階に向かったさやかだったが、綾子の第一声を受けて早速嫌な気分になった。パリの本店だかイギリスの紅茶だか知らないけど、いちいちマウンティングをとってからでないと会話できないのか、この人は――。


「さすが高杉さん、パリの本店にも行かれたことあるんですね。玲奈ちゃんのピアノの関係ですか?」


 もちろん、心の中で毒づいていることはおくびにも出さない。大人の女同士、思ったことを全部口に出していたら社会が成り立たないことくらい知っている。


 高杉家の長女、玲奈は小四ながら天才ピアノ少女として界隈ではちょっとした有名人だ。著名なピアニストに見初められ師事しているだの、長期休暇の度に欧州に短期留学しているだのといった噂を聞いたことがある。現に、今も家の中にはピアノの音色がかすかに響いていた。

 マンションの一室を防音室にリフォームしてグランドピアノを置くとなると、一体いくらかかるのだろうか。下手すると、その防音室だけでも2LDK60平米の我が家より価格が高いのではないか。つい卑屈になってしまう。

 高そうな紅茶の柔らかな香りが部屋に広がる中、広々としたリビングの窓からは、東京タワーからレインボーブリッジまで一望できる絶景が広がっていた。低層階の自宅からは決してお目にかかれない光景だ。

 このご時世、高杉綾子がタワマン最上階に住んで優雅に専業主婦をやりながら、娘に音楽の英才教育を施すという浮世離れした生活を享受できるのは、夫の財力によるところが大きい。

 綾子の夫の高杉とおるは代々続く医者の家系で、開業医として親から継いだクリニックを運営している。先祖から受け継いだ資産も、月々の稼ぎも、吹けば飛ぶようなサラリーマンの我々とは次元が違うのだ。


「パリは春休みに二週間行ったんですけど、もう寒くて寒くて。そういえば充君、春期講習はどうでした? うちは私が玲奈につきっきりだから、隆が今何やってるかすらわからなくて、困っちゃって」


 綾子が紅茶をウェッジウッドのカップに注ぎながら微笑む。これだから綾子と話すのは嫌なんだ。高杉家の長男、高杉隆の秀才ぶりは湾岸第二小学校の六年生の親なら誰でも知っている。充も通う中学受験塾、ブリックス湾岸校では常にトップを独走。去年の全国一斉実力テストでは全国から選ばれた精鋭の中で三位になり、賞品として数万円するようなタブレット端末を貰ったという伝説を持っている。充から聞くだけでも、


「ブリックスの算数の授業中、東大卒の講師のミスを指摘した」

「平均点が30点だったテストで90点をとった」

「計算テストと漢字テストで満点以外を取ったことがない」


 と、その秀才ぶりを表すエピソードは枚挙に暇がない。国立大の医学部を出ている医者の父親の遺伝子もさることながら、家庭学習のため、各教科に家庭教師をつけているという噂も聞いたことがある。同じ塾に通っているといっても、上位クラスから落ちたり上がったりしている充とは、素材も環境も違うのだ。

 徹底した実力主義で知られるブリックスでは、クラスはおろか、席順すら成績で決まる。どの子が優秀で、どの子の出来が悪いのか、子供を通わせている親であれば筒抜けだ。いくら娘のピアノにかかりっきりとはいえ、専業主婦で噂話好きの綾子がそうした事情を知らない訳がない。わざわざ塾の話をしてきたということは子供の成績を使ってマウンティングをしかけてきたということに他ならない。


「うちは隆君みたいに優秀じゃないから、今日もテレビから引き離すのが大変で……」


 自虐的に話しながら、さやかは胃の底がムカムカしてくることに気がついた。充の奴、もう六年生だというのに自分の立場がわかっているんだろうか。隆君みたいに優秀だったら、私がこんな惨めな想いをすることなかったのに。気がつけば、怒りの矛先は目の前の綾子ではなく、息子の充に向かっていた。

 タワマンで子育てをするようになって気づいたことがある。住んでいる階数、部屋の値段、夫の職業、年収、子供の成績――。この建物では、付き合いがある人たちの間でありとあらゆる情報が筒抜けとなり、比較の対象となるのだ。誰も表立って口には出さないが、誰が上で、誰が下かという序列は明確にある。


 目の前に座り微笑む綾子は、間違いなくヒエラルキーの頂点に立っていた。専業主婦であくせく働くことなくタワマン最上階の部屋に住み、息子は日本トップクラスの秀才、娘は天才ピアノ少女ときた。かつて女性誌で読者モデルをしていたという容姿は四十代半ばになっても衰えることなく、肌なんて近くで見てもツヤツヤしている。一体どんな化粧水を使って、いくら美容医療にかけているんだろうか。


 綾子に会うたびに、さやかは惨めな気持ちを抑えることができなかった。毎朝六時に眠い目をこすって充を叩き起こし、計算と漢字のドリルをさせた後にバタバタと出社して、夕方まで仕事に追われて慌ただしく帰宅。夕食を準備して食べさせ、塾の復習に付き合う日々だ。エステどころか、美容院に最後に行ったのはいつだっただろう。すべてを持っている綾子に対して、嫉妬心から勝手にマウンティングされているという被害者意識を募らせているだけなのかもしれない。そう思うと、さらに情けない気分になった。


「でも隆君も充君もすごいよね、まだ小学生なのに毎日塾に通って勉強して。うちの息子たちなんて、野球ばっかりで学校の宿題すらまともにやんないよ」


 理恵がサバサバした口調で会話に割って入る。理恵の息子の琉晴君は塾には一切通っていないという、タワマンでは珍しいタイプだ。湾岸第二小学校の生徒は八〜九割が中学受験をすると聞いたことがある。子供に残せる資産を持たないサラリーマン家庭の場合、学歴だけが頼りとなるため、小学校低学年から塾に通わせることが常態化している。さやかも、小一から充をブリックスに通わせていた。料理人の父を持つ伊地知家のような、手に職タイプはそもそも珍しいのだ。


「琉晴君は野球が上手なんでしょ? 試合で投げてるって聞いたけど。隆は本ばっかり読んでるから、健康的で羨ましいわ」


 綾子がどこまで本気かわからない様子で問いかけると、理恵は


「それが旦那に言わせると、琉晴はお兄ちゃんと違ってあんまり野球センスないっぽくて。六年生になって、チームのエースの子が塾を優先するようになったから、ようやく試合で投げられるようになった感じ。まあ本人は楽しいみたいだし、うちはそれで良いかなって」


 とケラケラ笑う。さやかは、理恵のこういうところが好きだった。さやかを含め、自分たちで作った序列を気にしてがんじがらめになっている人々でタワマンは溢れている。そんな中、周りに流されずに我が道を行く理恵の強さは際立つ。琉晴君も中学に通っている兄の蒼樹君も、勉強そっちのけで大好きな野球に熱中しているという。振り返ってみれば、さやかが子供の頃も、男子といえばそんな感じだった。小学校のうちから塾通いをして、毎月のように偏差値やクラス分けで値踏みされることが当たり前になっている東京の子育て環境が異常なのだ。


「それにしてもこの家、地面が遠くてまるで山頂にいるみたい。これだけ標高が高いと、気圧が低くてお米を炊いても固くなっちゃいそう」


 理恵があまりにも突拍子もないことをいうので、その場にいる全員で思わず笑ってしまった。その後はPTA役員会の本来の議題である、運動会の仕事の分担などそっちのけで、クラスメイトの親の噂話や学校の先生の評判などを話し込んでいた。

 幼い頃、母親がスーパーで出会ったママ友と延々と井戸端会議をしていたが、こんな感じだった気がする。郊外だろうが都会だろうが、アラフォーの女が集まってやることといえば変わらないのかもしれない。さやかの実家は郊外によくある一軒家だが、母も家の大きさや子供の出来不出来でマウンティング合戦していたのだろうか。今度帰ったら聞いてみようかな。自分で持ってきた手土産の洋菓子を頬張りながら、さやかはそんなことを考えていた。

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