第一章 春 平田さやかの憂鬱(3)
カレンダーを五月にめくりながら、そろそろ衣替えをしないといけないなと気がついた。四月は長雨が続いたせいか気温が低い日が多く、まだ冬物をしまう気になれなかった。60平米しかない平田家では、衣替えのたびにシーズンオフとなる衣服を段ボールに詰め込んで埼玉県にあるさやかの実家に送りつけ、預けていた衣服を両親に送ってもらうのが慣例となっていた。衣替えのタイミングの見極めは死活問題なだけに、ミスは許されない。テレビの朝のニュースでは寒い日が続く最近の気候について、地球温暖化による異常気象だと気象予報士が深刻な表情で話していた。さやかは思わず、
「温暖化なのに寒くなるってどういうことよ」
と画面に向かってツッコんでしまった。
「海流の流れも昔と変わってるから、局地的に寒くなることもあるんだって。それに最近は温暖化より、気候変動って言葉を使うことが多いらしいよ」
傍らで計算ドリルを解いている息子の充がボソッと呟く。計算は相変わらずミスが多いが、得意な理科については饒舌に語りたがる傾向がある。理科の点数が高いのは、タワマン高層階に住む充の友人、隆君の影響が多分にある。
「この本、隆君が面白いって言ってたから」
とねだられる度、さやかは学年一の秀才である隆君のお勧めならば、と財布の紐を緩めて科学関連の本を片っ端から充に買い与えていた。本音では受験で点数の配分が高い算数と国語をもっと頑張ってほしいが、理科を頑張れば将来、隆君のような医学部という道もあるのではという下心もムクムクと湧き上がる。さやかの脳裏に浮かぶのは、つい先日訪れた高杉家のタワマン最上階の部屋だった。サラリーマンの稼ぎでは決して到達できない、タワマンの頂。私たちの代では無理だったが、充には可能性があるかもしれない――。
もっとも、今はそんな妄想に興じている場合ではない。ゴールデンウイークになり、今日から充の通う進学塾であるブリックスの特別講習、「GW特訓」が始まる。いよいよ志望校別の授業が始まるとあって、受験生として本格的に始動することになる。
中学受験とは子供の戦いであると同時に、親の戦いでもある。塾の宿題を毎日チェックし、膨大な量のプリントを整理し、暗記の進捗を確認し、復習をやらせ、苦手分野を一つ一つ潰していく。遊びたい盛りの子供を机に縛り付けるだけでも一苦労だというのに、なおかつ目に見える形で結果を求められるとあって、子ども以上に親の負担も大きい。
周囲でも、中学受験を機に母親が仕事を辞めるといった話もよく聞く。もっとも、さやかの場合、タワマンの住宅ローンを夫婦共同のペアローンで組んでいるので、辞めるという選択肢は残されていないのだが。
学校選びも情報戦だ。進学校か大学附属校か、共学か男女別学か。入学時の偏差値と最近の進学実績はどうか、英語教育の体制は――。小中高と地元の公立学校に通ったさやかにとってすべてが未知の世界だ。最近はブリックスから配られる塾生向けの月刊誌「ぶりりあ」や本屋で買った私立中学を特集した雑誌、ネットで受験関連のサイトなどを読み漁るのが日課となっていた。
隆君と比べると見劣りするが、充は決して出来が悪い訳ではない。ブリックスの月例テストの偏差値は60前半をウロウロしており、全体の上位十五%程度に位置する。学校のテストなど、特に何の対策もしていないのに毎回ほぼ満点だ。しかし、難関校を目指すトップ層の子どもたちが集まるブリックスには充程度の子はゴロゴロいる。偏差値70オーバーの隆君は別格としても、最難関校を目指す上位クラス「エス」では、偏差値60は最低ラインだ。
「エスに残れないと、ここまで頑張った意味がなくなっちゃうよ!」
本当は駄目だと頭ではわかっていながらも、さやかは最近、机に向かう充に対してこんな発破をかけるようになっていた。
「隆君みたいにエスのトップにいる奴らは僕とは頭の出来が根本的に違うんだよ」
近頃、充はテストの結果が返ってくる度にこんな愚痴をもらすようになっていた。上位十五%にいるのに、さらに上を見て劣等感を感じてしまう環境。十一歳の息子をここまで追い詰めているのは、ほかでもない親である自分だ。
「来年の二月までだから、あとちょっとだよ。ここで頑張っておけば、将来の選択肢が増えるんだから」
さやかは胸の奥にチリチリとした罪悪感を抱えながらも、自分に言い聞かせるように繰り返していた。
「ほら、もう八時半よ。もう計算ドリルは良いから、そろそろ塾に行く準備しなさい」
さやかは意識的に明るい声を出した。
「えー、面倒くさいなー」
とぶつくさ文句を言っていた充だったが、
「あ、隆君と待ち合わせしてたんだった、急がなきゃ!」
と慌ただしく玄関を出ていった。午前九時から午後五時まで、三日連続で七十分の授業を六コマ受けるという過酷なスケジュール。ゴールデンウイークで全国各地の行楽地が盛況だというテレビのニュースが、どこか遠い別の国の出来事のように感じられた。
中学受験で問われるのは子供の学力だけではない。
「こないだPTAで話題になったんだけど、六年生って塾代だけで百五十万円くらいかかるらしいよ。それとは別に受験料とか滑り止めの学校の入学金とかで百万円は用意しておけって。健太もいまのうちから節約しといてよね」
充が出発してしばらく経った後、休日午前の惰眠を貪っていた健太が寝室から起きてきた。私が朝から計算ドリルのチェックにお弁当作りとこんなに頑張っているのに、良いご身分だこと。仕事が大変なのはわかるが、一人息子の人生を賭けた受験に対してどこか他人事の健太に対して最近イライラが募り、つい攻撃的な口調になってしまう。
ズボラな性格のさやかは家計管理を健太に任せている。マンションのローンのうち、さやかの返済分として月々八万円弱が銀行口座から自動的に引き落とされるのと、スーパーの食材代を負担しているが、それ以外の光熱費や生活費、教育費は基本的に健太が月々の給料からやりくりする仕組みだ。
残業がない一般職の給料はたかが知れている。入社後二十年近く経つのに、さやかの年収は額面で四百万円台にすぎない。ここから税金や厚生年金が引かれるし、女は服や化粧品などなにかと物入りだ。節約のために週に三日は安い社食で昼飯を済ましているが、まったく余裕はない。充が生まれる前に貯めておいたへそくりが二百万円ほどあるが、そもそも平田家としてどのくらいお金があるのかすらわかっていなかった。
「一年間で二百五十万円か、相変わらず意味わかんね―な、東京のお受験事情」
起き抜けにお金の話をされて不愉快なのか、健太がため息とともに吐き捨てる。小学生になり、周囲に流されるがままにさやかがブリックスに充を通わせはじめたときから、健太は一貫して中学受験に対して懐疑的な姿勢を崩していない。
「うちの経営陣見てりゃわかるじゃん、東大出ても馬鹿ばっか」
これが健太の口癖だ。確かに、いなほ銀行の役員には東大卒がずらりと並んでいるが、不祥事のたびに記者会見でカメラのフラッシュを浴びながらペコペコと頭を下げている姿は情けないの一言に尽きる。さやかの部署にも東大卒の部長がいるが、役員には媚びへつらうくせに、部下に対してはハンコを押す角度が違うだのメールの宛先の順番が役職順になってないだの意味不明の言いがかりをつける姿は醜悪そのものだ。
「あの人も十八歳が人生のピークだったんだろうね」
さやかは、一般職の同僚と陰口を叩いていた。学歴を何よりも重んじる銀行では東大を頂点とした歴然としたヒエラルキーが存在しているが、現場レベルでは変にプライドの高い東大卒よりも使い勝手が良い私立大卒はいくらでもいる。センター試験で高得点を取って、それを社会人になってから1点単位で覚えていても、稟議書を通すための根回しができるとは限らない。
岐阜県の公立高校で三年生の冬までサッカー部を続け、一浪の末に明治大学に入った健太は東大や医学部をゴールとした東京の中学受験事情を理解しようとしないばかりか、嫌悪感を抱いているような口ぶりだ。
「休日を潰して必死で勉強しても東大行けるのは一握りで、半分は早慶どころかMARCHなんでしょ。小学校の頃からそこまで頑張る意味あんのかね。俺なんて小学校の頃はサッカーしかしてないぜ」
冷蔵庫から出した麦茶をコップに注ぎながら、健太が呟く。この会話を繰り返すのも何度目だろう。
「東京は優秀層がこぞって私立中学校に抜けるから公立中学校は荒れてるし、高校受験は内申点の比重が重いから先生に嫌われたら悲惨なんだって」
というママ友ネットワークの情報をもとに、充をブリックスに通わせることを決めたのは今から五年前だ。これまでに払ってきた月謝や費やしてきた時間を思えば、ここで今更引き返すなんて選択肢はない。ましてや、充はボーダーラインギリギリとはいえ上位クラスのエスにいるのだ。
「頑張ってるのは充なんだから、絶対、目の前でそんなこと言わないでよ」
売り言葉に買い言葉で、つい口調がキツくなる。最近、中学受験を巡って健太との温度差が大きくなっている気がする。パパが受験勉強を見てくれる家庭もあると聞くが、健太は仕事を言い訳に逃げ続けている。
中学受験では学年が上がるにつれ、監修する親にも勉強が必要になる。特に算数は中学で習う方程式を使わずに難問を解く必要がある。人生でほとんど真面目に勉強することなく女子大に入ったさやかにとって、解説を読んでも意味が理解できない算数のテストの答え合わせをするのは苦行でしかなかった。
学歴に意味などないと豪語しながら学歴コンプレックスを抱えている健太の気持ちもわからないでもないが、中学受験は総力戦だ。お金を出すだけではなく、もっと主体的に手伝ってほしい。もっとも、これ以上口に出したら本格的な喧嘩になりそうなので、実家に送る冬服の仕分け作業に戻ることにした。さやかの背中から不穏な空気を察したのか、健太は
「ちょっと外出てくるわ」
と、本を片手に去っていった。タワマン共用部のワークスペースで読書でもするつもりだろう。これ以上顔を合わせていると衝突しそう、というタイミングで健太はよく共用部に逃げ込む。正面衝突を避けるのは大人の知恵だが、その分、発散されないまま静かに積もりゆく不満はどこで解消したら良いのだろう。子供たちが休日の朝から塾で難問と格闘している間、親もまた闘っているのだ。何と闘っているのかもわからぬまま、洪水のような情報の渦に巻き込まれながら。
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