第一章 春 平田さやかの憂鬱(4)
四月の長雨がようやく終わり、ゴールデンウィークの陽気な天気に春の訪れを感じたのもつかの間、まだ五月だというのに梅雨のようなジメジメした季節が続いている。駅直結のローゼスタワーは雨に濡れないまま地下鉄に乗ることができ、オフィスも大手町駅直結なのでさやかは家からオフィスまで一度も傘を広げる必要がない。ささやかな優越感を感じる瞬間ではあるが、それでも朝にスタイリングした髪が着席する頃には崩れてしまうような高い湿度はさやかを憂鬱な気分にさせた。業績が悪化する中、節電のためという名目でコスト削減のためにオフィスの空調の温度が高めに設定されているのも不快だ。
「ごめん、ちょっと今、手空いてる?」
さやかがパソコンを立ち上げ、朝の日課であるメール処理をこなしていると、遠慮がちな声が背中越しに届いた。後ろを振り返ると、同僚の
「これからシンガポールと繋いでテレビ会議なんだけど、簡単で良いから議事録をお願いできないかなと思って。ほら、垣田君がちょっとメンタル崩して休んじゃっててさ」
一七〇センチ近い身長をかがめ、片目をつぶって両手を合わせて頼み込む奈々子の仕草はチャーミングで、映画やドラマみたいだなと思った。
奈々子はさやかと同期入社だ。もっとも、奈々子は総合職で、さやかは一般職。職務も待遇も歴然たる差があり、採用も研修も全くの別コースとなっている。同じ年に入社したというだけで、同期という感覚は一切ない。
新入社員の時点で東京の本社に配属されたさやかは仙台支店配属の奈々子と顔を合わせたこともなく、存在すら知らなかった。奈々子が現在の部署に異動してきて、はじめて同い年だと知った位だ。
銀行では幹部候補生の総合職とサポート役の一般職の間には大きな溝があり、特に女性同士だと関係はややこしくなりがちだ。パリッとしたスーツ姿の奈々子と、会社から支給された制服姿のさやか。二人の格好はそのまま身分の格差を表している。
銀行の一般職といえば、かつてはお茶汲みに代表される雑務が主な仕事で、結婚とともに寿退社するのが普通だった。忙しい男性総合職の結婚相手として「福利厚生」として採用されていた時代もある。今や業務の高度化が進んでお茶汲みなどしなくなったが、それでも役割や責任に厳然たる差があり、決して乗り越えられない壁がある。さやかの所属するグローバル事業本部では、総合職の社員の穴埋めに一般職を使うという発想は通常であれば出てこない。
しかし、年齢が同じだからか、幼少期をアメリカで過ごしたというバックグラウンドのせいか、奈々子はそんな壁など関係ないと言わんばかりにさやかに接してくる。さやかはその奔放さが羨ましくもあり、少し複雑でもあった。
「議事録っていっても、私、英語わからないよ」
「相手は日本人だから平気平気。社内会議の議事録なんて社内のオジサンしか読まないし、体裁さえ整ってればオッケーだから」
部長に聞かれてないか、一瞬ドキリとして周囲を見回してしまった。幸い誰も周りにいなかったが、減点主義の銀行では仕事を軽んじるような言動はありえない行為だ。聞いているさやかのほうがひやひやする。
今年で四十二歳になるというのに、どこか学生気分が抜けきっていないような奈々子だが、テレビ会議が始まると雰囲気が一変した。間の抜けた質問をして会議の流れを混乱させる部長を制し、テキパキと会議の進行をこなしていく。シンガポール支店の人たちも、奈々子に全幅の信頼を寄せているようだった。
「奈々子さん、秋のニューヨーク駐在ほぼ決まりらしいですよ」
先週、一般職の後輩が話していた噂話を思い出す。奈々子の世代では新卒採用の時点で総合職のうち、女性が占める割合は全体の二割以下だった。残業も転勤も当たり前の総合職の業務や責務に耐えられる女性は多くなく、いまも会社に残っているのはごくわずかだ。その中でも、奈々子の存在は際立っていた。一橋大学卒という学歴もさることながら、帰国子女としての語学力や若い頃にトレーニーとして一年間ロンドン、その後三年間シンガポールに駐在していたという華麗な経歴も申し分なく、同期でも頭一つ抜けていた。
サバサバしている奈々子は決して上司に媚びるタイプでないが、モデルのような外見も相まって、若い頃からオジサン受けも良かったのだろう。役員にもファンがいると聞いたことがある。昨年は新卒採用のホームページでいなほ銀行のグローバル化の現場について紹介していた。いわゆる、出世コースに乗っている側の人間だ。
会議をテキパキと仕切る奈々子を見ながら、さやかはつい、しがない一般職の自分と比較してしまう。勉強は好きじゃないくせに、ドラマで見たような東京のキャンパスライフを送りたいと誰でも入れるような女子大を選んだ十八歳の私は、こうして光が当たらない側の人間として、誰でもできるような仕事をして一生を過ごしていくということまで覚悟を決めていたのだろうか。バリキャリとして働く奈々子の発言を追ってノートパソコンのキーボードをカタカタと鳴らして議事録をとりながら、そんなことを考えてしまう。
「さっきは助かったよ、ありがと! お昼、外にランチ行こ!」
一時間半の会議を終えて議事録をビジネスチャットで共有すると、奈々子からすぐに返信が返ってきた。奈々子のデスクのほうを見ると、悪戯っぽい笑顔と目が合った。若いな、と思った。同い年にも関わらず、どこか所帯じみたさやかと違って、子供がいない奈々子は軽やかだ。若作りしている訳でもないのに、自然体で言動がみずみずしい。それは、さやかが子育てをしながら摩耗し、少しずつ失っていったものだった。
「いやー、部長、相変わらずビックリするほど使えないね。あの手の、文章のてにをは直しとハンコ押すしかできないオジサン、今まで何やってたんだろうね」
分厚いロースカツを豪快に頬張りながら、奈々子が話す。「ランチ、行きたい店があってさ」と誘われた先がまさかとんかつ屋だとは思わなかった。周りにはスーツ姿の脂ぎった男性しかいない。奈々子は気にする素振りも見せず、店員さんにキャベツのおかわりを頼んでいた。
茶碗を持つ奈々子の左手の薬指にはプラチナの指輪が光る。ニューヨークに行ったら、旦那さんはどうするんだろう。IT企業のエンジニアだと聞いたことがあるが、奈々子は単身赴任になるんだろうか。まあ子供がいないと、そこらへん気楽なのかな――。そんなことを考えながらヒレカツを箸で運びつつ適当に相槌を打っていると、唐突に
「そういえば平田さん、最近元気?」
と急に話題が変わった。さやかは職場では旧姓を使っているので、ここでいう平田とは健太のことだ。同じ会社とは言え、支店で法人営業をやっている健太と海外拠点の支援をするさやかが顔を合わせることは一切なく、普段は意識することすらない。奈々子の口から健太の話題が出るとは予想すらしておらず、動揺してしまう。
「マンションも会社も一緒なのに、全然遭わなくて。いまは尾久支店だっけ?」
奈々子がさやかに親しげに接してくるのは、年齢が同じというだけではない。健太と奈々子は若手時代に仙台支店の先輩後輩の間柄であり、さらに現在はローゼスタワーの住民という共通点もある。
「仙台支店時代、後輩の高嶺の花の女子にちょっかいを出してあっけなくフラれた平田君を心配してましたが、東京本店で見事、さやかさんような美人を射止めたと知って嬉しく思います!」
十五年前の結婚式の二次会。健太の仙台支店時代の先輩の男が酔って顔を真っ赤にしながらマイクを握り、デリカシーの欠片もないスピーチをしていたことを思い出す。隣に座る健太は飲まされすぎたのか、視線が定まらない感じでヘラヘラ笑っていた。その場のウケ狙いのため、一生に一度の晴れの舞台で主役に恥をかかせる神経は理解できなかったが、普段の仕事で抑圧された銀行員が酔ってハメを外しがちなのは知っている。さやかは怒りを押し殺し、作り笑顔でやり過ごした。
その後、深く追求したことはないが、健太がフラれた相手は奈々子だったんだろうなとさやかは推測していた。数年前、休日にローゼスタワーのロビーで顔を合わせた奈々子に
「あ、平田さんもここ住んでるんですか? 偶然ですね!」
と話しかけられた健太が童貞の中学生のように慌てふためいていたのを見て、確信に変わった。もっとも奈々子にとって、新人時代に職場の冴えない先輩に言い寄られていたことなど、記憶に残しておくにも値しない出来事だったんだろう。奈々子が部署異動でさやかと同じチームに配属された後、何事もなかったのように健太の話題を振ってきたことからも明らかだ。
高校生や大学生ならいざしらず、さやかも良い年をした大人だ。今更、夫の過去の恋愛遍歴をいちいち掘り返すつもりもない。それでも、奈々子に対してなんとなく微妙な意識は持ち続けている。奈々子が相手にすらしなかった相手と自分が結婚したという事実に女としての敗北感を感じとってしまっているのか、それとも同年代ながら、女性というハンデをものともせず総合職としてバリバリ活躍する姿に対する劣等感か。自分でもうまく言語化できていない。
「旦那はまだ尾久で営業やってるよ。最近、例の不祥事でバタバタしてるのか知んないけど、毎晩遅くまで働いてて、家事も全部私に押し付けてさ。出世コースに乗ってる訳でもないのに仕事仕事で、嫌になっちゃうよ」
奈々子に対して抱えるモヤッとした感情を隠そうと、つい健太を蔑むような言い方を選んでしまった。平静を装おうと付け合わせの漬物を口に運んだが、苦味だけが口の中に広がる。
「そっかー、確かに平田さん、仙台支店時代も夜遅くまで頑張ってたイメージだわ。てかうちの銀行の男たち、残業もそうだけどいまだに昭和のノリ引きずってるよね。こないだのタイ出張のときも、男たちだけでコソコソ何かやってるかと思ったら一次会で解散したふりして女の子の店に行ってたんだよ。近くのバーで飲み直してからホテル戻ったら、現地の女の子連れてる部長とロビーでばったり鉢合わせちゃって。中学生の娘さんもいるのに、マジで倫理観疑うよね」
奈々子は健太の現状には興味がないのか、あっさり話題を変えてまた上司の悪口に戻った。昼飯を食べている最中、顔を知っている上司や同僚たちの買春事情を聞くのもどうかと思ったが、さやかは健太の話が広がらずに、少しホッとしていた。
健太は今年の春にようやく人事の等級が上がった。めでたいことではあるものの、優秀な同期からは三年以上離されていると嘆いていた。年功序列でピラミッド型の組織である銀行では、四十歳を超えて管理職に上がることができなければ出世コースから外れたとみなされ、将来的にグループ会社や融資先に出向させられることになる。この不景気のご時世、リストラされないだけでも御の字ではあるが、給料の大幅減は避けられない。
健太がことあるごとに東大卒の悪口を言っているのも、一流大学を卒業した同期や後輩が自分を差し置き、次々と良いポジションに就いていることに対する焦燥感や劣等感があるのだろう。
身内の贔屓目かもしれないが、傍から見ても健太は仕事ができないタイプではないと思う。振り出しの仙台支店を除けば、キャリアの大半を東京や大阪といった大都市で営業として過ごしているのがその証拠だ。銀行では、使われないとみなされた社員は地方支店をドサ回りさせられることも珍しくないし、支店でも融資先の担保評価や債権回収といった、地味な仕事を延々とこなすだけの中年も多い。四十歳を超えて、営業の現場で数字を残し続けることができる社員はそう多くはない。
ただ、健太がいくら夜遅くまで頑張っても、それが出世には繋がらないのが銀行という世界の厳しさだ。役員名簿に並ぶのは、東大や京大など国立大卒がほとんどで、早稲田や慶應が賑やかし程度に入っているだけ。十八歳の時点の学力が、何より物を言う世界なのだ。
一方、目の前でモリモリとトンカツを頬張る奈々子は健太とは明らかに違う。一橋大学卒という学歴もさることながら、英語を母国語のように操り、外国人相手にも臆することなく渡り合う姿は一般職のさやかから見ても抜きん出ていた。少子高齢化で国内市場が縮小する中、将来の稼ぎ頭として期待されている海外事業を担うのはエリートの証であり、ニューヨーク駐在ともなればその中でも上澄みだ。どんなに頑張っても一兵卒に過ぎない健太とは、会社からかけられている期待も扱いも別格なのだ。
「所詮、俺たち限界私大文系卒はソルジャーなんだよ」
健太はよく、酔っ払って学歴社会に対する愚痴を吐く。新婚当初、海外駐在を目指して夜な夜なTOEICの参考書を開いていた健太だが、希望を出し続けたのに海外系の部署には縁がなく、充が生まれた直後には大阪への転勤を命じられた。
人事の希望どころか、家族と一緒に暮らすという人間として最低限の生活すら会社の都合で踏みにじられるのが日本企業であり、銀行という組織だ。単身赴任での四年間の大阪勤務から東京に戻ってきた健太が配属されたのは国内営業部隊で、もう自己研鑽のために机に向かって英語の参考書を開くことはなくなっていた。金融の中心であるニューヨークにもロンドンにも縁がない、縮小し続ける国内市場という戦場で使い捨てられる兵士たち。そんな人と結婚した私。ソルジャーの求愛をあっさり断って、エリート街道のど真ん中を歩む国立大卒で帰国子女の才女。同じ組織で働く同年代の人間でありながら断絶は大きく、その差は埋めがたい。
同じマンションに住んでいるといっても、奈々子の部屋は三十五階の広々とした3LDKだ。不動産ポータルサイトの情報では、同じような部屋がさやかや健太の部屋よりも四千万円近く高い値段で売買されている。いくら教育費の負担がないとはいえ、一億円を軽く超えるようなマンションは生活に余裕がなければとても手が出ないはずだ。入社年次は健太のほうが上ではあるものの、もう等級や給料は逆転しているのかもしれない。
ニューヨークに転勤したら、あのマンションは貸すのかな、それとも売るのかな。買ったときから結構マンション相場は上がっているはずだけど、売却益は何千万円くらい出るんだろう――そんな下世話な想像を働かせる自分に、また嫌悪感を抱く。子供が生まれ、学生時代のような女同士の僻み妬みの世界からは解放されたつもりだったのに、全くそんなことはなかった。四十代になって、むしろ酷くなっている気がする。
「いやー、食べた食べた。やっぱ肉食べないとパワー出ないね。午後も無駄な会議が二個あるけど、これで乗り切れそう!」
勝手に惨めな気分になっているさやかをよそに、奈々子は満足そうな顔で食後のお茶をすすっていた。タワマン低層階の狭い部屋で肩を寄せ合って、夫婦ともキャリアに上がり目がない中で子供の成績に一喜一憂する私たちの姿は、奈々子の目にはどう映るのだろう。そもそも、奈々子はなぜ子供を産まなかったんだろうか。立ち入ったことを聞く間柄でもないが、海外と東京を行き来する華やかなキャリアを優先したのだろうか。それとも望んだのに産めなかったのか。このままではあまりにも惨めなので、できれば後者であってほしい――。
とんかつ屋から外に出ると、雨はやみ、空には久々の晴れ間がのぞいていた。閉じた傘をぶら下げながら往来するサラリーマンたちの足取りも心持ち軽やかだ。隣にいる奈々子に対し、ドロドロした感情を抱えて歩く今の私は、久しぶりの快晴に相応しい顔をできているのだろうか。
「気持ち良い天気だねー。今日は色々ぶっちゃけられて楽しかった! また今度、ランチしようよ!」
小気味良いリズムで話しかける奈々子呼びかけにさやかはすぐに返事をすることができず、曖昧な作り笑顔で返すのが精一杯だった。大手町の高層ビルと高層ビルの合間に、鮮やかな虹が浮かんでいた。
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