第一章 春 平田さやかの憂鬱(5)
「え、買い物? 俺はパス! 今日は一日ゲームするって決めてるの!」
六月中旬。梅雨のさなかの土曜は珍しく晴れていて、健太は早朝からイソイソと支店のゴルフコンペに出かけていった。今日は学校も塾も何の予定も入っていない土曜日だし、せっかくだし二人で買い物にでも行こうと充に声をかけたが、あっけなくフラれた。五年生になったあたりから、充はさやかと一緒に出歩くのを避けたがるようになっていた。
「男の子が可愛いのは十歳までよ、後は旦那二号みたいになって憎たらしいだけ。あいつら、中学生になるとすね毛とか生えてくるから」
男児二人を育てている職場の先輩の言葉を思い出す。幼少期に健太が単身赴任でワンオペだったこともあり、昔からママっ子でトイレの中にまでついてきた充だが、たしかに十歳を超えたあたりから母親離れが著しい。最近では一緒に出かけても、わざと遠くを歩く始末だ。最後に手をつないでくれたのは一体、何年前のことだったんだろう。子供の成長は嬉しいが、これまで大事にしてきたものがポロポロと欠けていくようで寂しい。
親の心も知らず、ソファに座った充は手元に置いたタブレット端末で攻略動画を見ながら、器用にテレビに向かってゲームコントローラーを動かしている。平田家では普段、動画サイトもゲームも制限しており、週末だけ、一日一時間と決めている。充が五月の月例テストで偏差値65という自己ベストを叩き出したことで、今日はその制限が外れた。さやかが軽い気持ちで提案した「偏差値65以上とったら一日自由にゲームやらせてあげる」という約束が行使されることとなったためだ。
そんな時間があるなら、算数の苦手分野の平面図や比と割合の復習に少しでもあててほしいと思ってしまうが、自分から約束をした手前、今更やめろとは言えない。一緒に買い物に出かけようという提案をあっさり断り、朝から自堕落な生活を全身で満喫している充を見ているとイライラしてきた。
「じゃあママは買い物行ってくるからね。お昼は冷凍庫の冷凍食品適当にチンして食べなさい。一時間ゲームやったら十分休むのよ。何かあったら電話してね」
何の反応も示さない相手に、一方的にまくしたてることほど虚しいことはない。一人息子ということで猫可愛がりしてきたのに、気がつけば実家で母が弟を叱るときと同じような口調になっている。
充のせいで朝から嫌な気分になったさやかだったが、その気持ちを癒やしたのもまた、充の存在だった。
「【ブリックス】六年エス 偏差値65以上の広場【専用】」
バスに乗ってスマホを開くと、中学受験生の親が集まる匿名掲示板のスレッドが出てきた。このスレッドの冒頭には、ブリックスに子供を通わせている親のうち、偏差値65以上でないと書き込めないというルールが明記してある。その掲示板の常連でありながら、成績で差別されているようで感じが悪いし、偏差値60でウロウロしている我が家には関係ないと思ってこれまでスルーしていたさやかだったが、充がその資格を得たということだし、怖いもの見たさでアクセスしてみた。
「皆さん第一志望は開成と筑駒、どっちにしますか?」
「うちは海外大も選択肢に残しておきたいから、渋渋か広尾かな」
「東大か医学部か、学校選びの段階で進路まで考えておかないとね」
スレッドに出てくる学校名はどれも抜群の進学実績を誇る超一流校だ。まだ中学受験まで七ヶ月以上あるというのに、既に合格前提で大学受験の話までしている親もいた。誰もが、自分の子供たちの輝かしい未来を信じて疑わないようだった。
私たちが偏差値60の壁でもがいている間、トップクラスの子の親が見ていた景色はこうも違ったのか。同じタワマン高層階に住む充の親友、高杉隆君は常時偏差値70オーバーだと聞いているが、高杉さんも、この掲示板を読んでいるのだろうか。
隆君は別格としても、偏差値65といえば、上位七%程度にあたる。難関校指導に定評のあるブリックスに通う子たちが母集団であることを考えると、日本でもトップクラスの小学六年生といっても過言ではない。うちの息子は、そのトップ層に仲間入りを果たしている――。そう考えるだけで、さやかは浮足立った。毎朝六時に起きて計算や漢字ドリルに付き合い、動物植物や歴史年号の暗記カードをせっせとめくってあげた効果があった。健太はそこまでする必要あるのかと冷ややかな目線を送っていたが、私は間違っていなかった。
「折角ブリックスに通わせても、大半はエスに通う子の養分ですからね」
掲示板に出てきた「養分」という言葉の強さにドキリとする。多額のお金を払っていながら、期待に見合う成果を出せず、ただ漫然と塾にお金を払うだけの家庭のことだ。塾は宣伝になるトップ層のクラスには経験豊富なベテラン講師を充て、下位のクラスには大学生のアルバイトを充てているという噂を聞いたこともある。今月のブリックスの月謝は約六万円。夏休みには別途、夏期講習と志望校別の夏期集中特訓で二十五万円近くかかると聞いている。ここまで母子二人三脚で頑張ってきて、大金も払って、我々が養分であって良いはずがない。
スマホの向こう側にいる「戦友」たちの発する情報をインプットしながら静かに闘志を燃やしていると、目的地である銀座にたどり着いた。若い頃は会社が終わった後に表参道や新宿まで服を買いに行くようなこともあったが、子供が生まれるとそういった機会は一切なくなった。最近では湾岸地区からバス一本で行ける銀座一択だ。三越や松屋で服や化粧品を見た後、ファストファッションやドラッグストアで買い物をして、少しカフェで休んで家に帰るというのがさやかの定番のルートとなっていた。
昔から、ウィンドウショッピングが好きだった。高校生の頃から、実家から一番近い都会である大宮のルミネで何時間でも潰せた。良いなと思った服の値札を見て、自分には縁がないとため息をつくのは四十二歳になった今でも変わらない。今の時代、服や化粧品を買うだけならネット通販で事足りるが、それでは駄目なのだ。こうして百貨店で実際に商品を手にとってあれこれ悩む時間は何にも代えがたい。
「あれ、さやかさん?」
夏場のオフィスでも使えるような薄手のカーディガンを品定めしていると、聞き覚えのある声が聞こえた。ふと振り返ると、そこにはタワマン高層階の住人である、高杉綾子の姿があった。傍らには噂の天才ピアノ少女、
「さやかさんもお買い物? あら、そのカーディガン、すごい綺麗なグリーン。さやかさんに似合いそう」
両手に紙袋をぶらさげた綾子が嬉しそうに話しかけてくる。曖昧に相槌を打ちながら、違うんです、私はただ見ていただけなんです。富裕層のあなたと違って私は百貨店の服なんて買える身分ではないんです。ここでは見るだけで、あとでファストファッションで似たような服を探そうとしてたんです――と声にならない声を発するが、キラキラした綾子の前でハンガーを戻す気のも躊躇われ、見栄を張ってついレジに持っていってしまった。二万九千七百円。クレジットカードを切る手が震える。夏のボーナスで古くなっていた掃除機を買い換える予定だったが、冬まで持ち越すことが決まった。
「それにしてもすっごい偶然。そうだ、今から時間ある? これから玲奈のピアノのレッスンで私も時間できるから、お茶でもしましょうよ」
怒涛の勢いで綾子がグイグイ距離を詰めてくる。この場でノーといえる気力があれば、流されるがままに身の丈を超えた高価な服を買うこともないのだろう。綾子のペースに乗せられ、玲奈が通っているという、銀座中央通りの雑居ビルに入っているというピアノ教室まで三人で連れ立って歩く。
「ママばっかり買い物してずるい、レッスン終わったら私の服も買ってよ」
玲奈が唇を尖らせる。そうか、娘だと母娘でショッピングもできるのか。今朝、充にあえなく買い物への同行を拒否されたことを思い出し、傷口がえぐられる。
歩きながら、改めてじっくり玲奈の横顔を見る。母親の綾子譲りのくっきりとした二重まぶたに通った鼻筋、透き通るような白い肌。口調こそ年相応に幼い小学四年生だが、道行く人が振り返るような美少女だ。さらにピアノも巧いときた。自慢の娘と他愛ない会話をしながら、休日にショッピングを楽しむ。さやかの理想の親子の姿が、そこにはあった。
「うーん、これは男の子ですね。ほらこれ、突き出てるところがおちんちん」
十二年前、通っていた産婦人科で高齢の男性医師にあっさり胎児の性別を告げられた瞬間のことは、きっと死ぬまで忘れないだろう。妊娠が判明した瞬間から、さやかは娘の名前ばかり考えていた。口にこそ出さなかったが、息子よりも娘のほうが良かった。先に子供を産んだ友人が娘を着せかえ人形のようにしてSNSに写真をアップしていたのが羨ましかったし、高校を卒業してすぐに子供を生み育てている地元の友人たちからは
「絶対女の子のほうが楽だよ」
と聞かされていた。実際、地元の友人との集まりでも、うんこやちんちんと下ネタで騒ぐ男児の世話は大変そうで、おままごとやお人形遊びで静かに遊んでいる女児とは明らかに違った。もっとも、実際に産まれてきた充は可愛かったし、第二子が女子だったら良いなという程度だった。
しかし、充が生まれて程なくして健太の大阪転勤が決まった。昔の銀行であればさやかが仕事を辞めてついていくというのが普通だったのだろうが、ローゼスタワーは夫婦共働きを前提としたペアローンで借りていた。
家族会議の末、単身赴任という形でさやかが一人で東京に残って育てることにしたが、ワンオペの育児は想像を絶するような苦労の連続だった。充が熱を出したと保育園から電話が来るたびに仕事を切り上げ、同僚に何度頭を下げたか覚えていない。週末の夜、山のように積もった洗濯物を畳みながら、涙を流したことも一度や二度ではない。健太が東京に帰ってきた後、もう一人産もうという気力も体力も、さやかに残っていなかった。
もしあのとき、健太の単身赴任がなかったら。もしあそこで頑張ってもう一人産んでいれば。もし私たちに2LDKじゃなくて、3LDKの部屋を買えるくらいの財力があれば――仲睦まじげに歩く綾子と玲奈を見ながら、さやかは頭の中で「もし」を繰り返す。全国転勤が当たり前の人事制度、夫一人の稼ぎでは買えない価格の都内のマンション、限られた出産適齢期。親の助けを借りず、夫婦で働きながら東京で子供を産み育てるというのがこんなに難しいとは、学校の先生も会社の人事も、誰も教えてくれなかった。
玲奈をピアノ教室に送り出した後、綾子が
「ここの苺パフェが美味しいのよ」
と誘ってきたのは、銀座のど真ん中に店を構える、由緒正しいフルーツパーラーだった。期間限定の苺パフェ、二千五百三十円。メニューの値段を思わず二度見してしまう。ドリンクもつけると、三千円を軽く超える。充の勉強のためであれば数万円の出費も惜しくないが、自分のためとなると千円でも高く感じる。さっき買った服の値札が脳裏に浮かぶ。週明けからランチを週五で社食にして辻褄を合わせようと自分に言い聞かせながら、綾子に合わせる形で恐る恐る苺パフェを注文した。
同じマンションに住み、PTAの付き合いでよく顔を合わせているとはいえ、こうして綾子と二人で話すのは初めてだ。さて何を話そう、と思案を巡らせていると、口火を切ったのは綾子だった。
「そういえば充君は志望校、どこにするか決めました?」
夏休みの予定を尋ねるように、こともなげに聞いてくる綾子。おっとりとした口調ではあるが、中学受験生の親同士、志望校はもっともセンシティブな話題だ。いきなり踏み込んでくる綾子の遠慮のなさにおののく。
「うーん、うちはまだ決めてないんです。ほら、
つい一時間前までスマホで掲示板を見ながら偏差値65の息子を育てた母親として高揚感を抱えていたことは綺麗サッパリ忘れたように、早口で答える。五月の月例テストの結果が返ってきたとき、ブリックスから配られた偏差値ランキングと見比べながら名門校に入学した我が子の将来を妄想していたとは口が裂けても言えない。
「あら、そうなんだ。隆は充君と仲良いみたいだし、一緒の学校に行ってくれたら心強いんですけど」
ポットに入ったアールグレイをティーカップに注ぎながら、こともなげに話す綾子。隆君と同じ学校というのは、筑駒や開成といった最難関校のことを指すのだろうか、大変光栄なことではあるが、苺パフェを食べようというのと同じノリで誘わないで欲しい。
「私は勉強のことまったくわからないから、家庭教師の先生に全部お任せしてるんですけど」
こちらのモヤモヤした気持ちなどお構いなく、綾子は続ける。さやかが毎朝六時に起きて足りない頭を絞ってブリックスのテキストと格闘している間、高杉家では勉強のプロに宿題の管理を含めたすべてを任せているのだ。綾子がどこの大学を出たのか知らないが、優雅な佇まいから見るに育ちは良いのだろう。少なくとも三流女子大出の自分よりは賢そうだ。夫は国立大医学部卒の医師で、MARCH卒のソルジャー銀行員とは比較することすらおこがましい。最先端のエンジンを積んだスポーツカーを、プロのメカニックがサポートしている高杉家。一方、我が家は軽自動車を素人が無理やり尻を叩いて進ませているようなものだ。好きでもない勉強を強いられている充に対して、申し訳ない気持ちになる。
「やっぱり隆君はお医者さんを目指すんですか?」
話題を変えようと、質問してみる。これはさやかの純粋な好奇心でもあった。日本経済の衰退が明らかな中、高収入と安定の代名詞である医師資格を求め、医学部の人気は年々右肩上がりで上昇している。特に国立大の医学部は東大よりも難易度が上がっていると、最近読んだ雑誌には書いてあった。代々続く開業医の息子として、隆君に対する期待も大きいのだろうか。
「そうね、玲奈はピアノの練習で勉強まで手が回らないし、隆が夫のクリニックを継いでくれないと駄目なんですよね。わかってはいるんですけどね……」
窓の外を見つめながら、綾子が淡々と話す。その視線は歩行者でもなく、街並みでもなく、遠い何かを追っているようだった。いつも自信満々な綾子の、今まで見たことがない表情だった。
てっきり、いつものようにマウンティング気味に返してくると思っていたので、さやかは虚を突かれた気分となった。開業医の夫を持ち、誰もが羨む豪邸に住み、理想の息子と娘に恵まれ、この世のすべてを手に入れたかのように見えた綾子の、知られざる一面を垣間見た気がした。開業医の家に嫁ぐというのは、我々庶民には伺い知れぬプレッシャーでもあるのだろうか。
その後はPTAや学校の先生の話や、玲奈のピアノの話などを聞いているうちに、あっという間に時間は過ぎた。相変わらず綾子の高いところからの目線は少し引っかかったが、ひょっとしたら世間知らずなお嬢様がそのまま成長しただけなのかもしれない。そう考えると、少し気が楽になった。これまで綾子に苦手意識を持っていたさやかだったが、自分でも意外なほど打ち解けていた。二千五百三十円の苺パフェは、これまでの人生で口にしたことがないようなまろやかな甘味だった。
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